第116話 不和
『何と無礼なのでしょう!』
『全くだ!』
イサベルとサラがプリプリと怒っている。
教皇との謁見が終わった後の事だった。
『日本の方々の礼儀正しさを疑うなんて!』
『この旅で貞操の危機を感じた事なんか一度もなかったよ!』
怒り心頭な理由、それは同席した枢機卿らから、日本で広まっている衆道と呼ばれる行為について、非難混じりに話が及んだからである。
神の定めた戒律にそぐわないといった言い回しであったり、そのような事ではカトリックとして相応しくないなど、今すぐ禁止すべき野蛮な風習であるとの大合唱だった。
何より二人を怒らせたのが、そのような悪習を持った者達と長旅を続けた、イサベルらの浅慮を揶揄する物言いである。
特にイサベルはスペイン王フェリペ2世の子女であり、神聖ローマ帝国皇帝との結婚が控えているにも関わらず、純潔を何と心得ると責められた。
『神に誓って、疚しい事は何一つとしてありませんでしたわ!』
『その通り!』
頷くサラにイサベルは不信げな顔を向ける。
『本当ですの? 信親さんとは良い雰囲気でしたのに』
右手を火傷し、生活に不自由していたサラを熱心に世話していたのが信親だ。
たどたどしいながらも言葉を覚えた信親と、旅の後半は親し気に会話していた。
イサベルの問いにサラは顔を赤くして答える。
『そ、それは、あれだよ! 精々が手を握っただけだし!』
弁解するサラを疑いの眼差しで見る。
とはいえ、旅の間は常に行動を共にしていたので嘘ではないだろう。
大いに安心する。
そして、尋ねるべきはもう一人。
『ノエリアさんはどうなのです?』
『わ、私?』
イサベルに話を振られ、ノエリアはひどく驚いた。
自分が話題となるとは思っていない。
以前は人見知りをして話しどころではなかったが、ようやく打ち解けて会話をする事が出来ているとはいえ、急に話かけられるとドギマギする。
目をぱちくりとさせているノエリアに王女が尋ねる。
『幸村さんとは上手くいっているのですか?』
『え、えっと、ど、どうなんだろう?』
ノエリアは答えに詰まった。
誰からも見向きもされなかった時、幸村だけは気にかけてくれた。
言葉さえ通じないのに邪険に扱わなかった。
ぶっきらぼうだが優しさに溢れたその性格に、ノエリアは一度だけ教会で聞いた事のある救い主を見た。
以降、その後ろをついて歩いているが、嫌な顔はされていない。
確かに嫌な顔はされていないのだが、何度か言われた事がある。
『よく分かんないけど、俺はまえだとしいえじゃないと言ってた』
『まえだとしいえ?』
聞いた事のない単語である。
日本語であろう。
『どういう意味でしょう?』
『さあ?』
後で勝二に尋ねてみようと思った。
『兎も角、日本の方々は我がスペイン王家が招いた大切なお客様です!』
イサベルがその柔らかい拳を握りしめて言う。
『それを、あのような形で批判なさるとは!』
思い起こして更に怒りが湧く。
『バチカンがこんなに頭の固い人々に支配されているなんて、今まで思いもしませんでしたわ!』
父の影響でカトリックは素晴らしいという思いがあった。
それが今回の旅で崩れかけている。
立ち寄る村々はどれも貧しく、領主は民の暮らしを気にかけていなかった。
どこに神の正義、大いなる愛があるのだろうと疑問に感じた。
一方の客人らはどうだろう。
二言目には神を頼るな、問題を解決したければ祈る前に手足を動かせ、何より頭を働かせよと口にする。
実際、旅の間で祈る姿を見た事がない。
彼らに信仰心はないのかと不思議に思ったのだが、それは自分の勘違いだった。
礼儀正しさに始まり規則正しさや約束を守る心、虚栄を嫌う精神性などなど、そこいらの信徒よりもよほど神への信仰心に満ちていると思った。
社交界でよく見かける、見た目だけは豪華な貴族の子息令嬢とは真逆な在りようだ。
まるで忠義に篤い騎士のようである。
また、イサベルは知っている。
貴族の子息令嬢は舞踏会そのままに、その領地で贅沢な暮らしをしている事を。
彼女とて王女だ。
他の貴族と違いはしない。
けれども、少なくとも王家の者としての教育は受けてきた。
民の暮らしを案じるのが王たる者であるとして、強い義務感と自負心を持っている。
それがどうだ。
客人らは誇り高き戦士でありながら、領地を治める貴族でもあると聞く。
戦士である事は山賊に襲われた際によく分かった。
一行を率いる筈の信長自身、腰の武器を抜いて応戦していたからだ。
また、貴族である事は、訪れる村々を見る目で理解した。
その地方が有する産業に強い関心を示し、有用な作物の種子を求めたのである。
騎士のように果敢に戦い、貴族のように周到に国を支配する。
それはハプスブルク家の隆盛を築いたという偉大な先王、マクシミリアンのようだった。
神など信じていないと言う癖に、神に祈る者以上に信徒的。
『カトリックである事を恥ずかしく思うくらいです!』
イサベルは叫まずにはいられなかった。
「無関係の他人がああして怒っていると、当事者としては逆に冷静になってしまうな」
「全くです」
そんな彼女らを遠巻きに見つめ、呆れ顔の信長が呟いた。
早口なので何を言っているのか理解出来ないが、随分と興奮している。
声を掛けると面倒そうなので放っておこうと思った。
「しかし、ソドムとゴモラであったか。どういう意味だ?」
枢機卿の中から出た言葉にそれがあった。
その場で確認する訳にもいかず、気になっていた。
勝二が説明する。
「旧約聖書に描写されている、神の怒りに触れて滅ぼされた町の名です」
「神の怒り? 何をしたというのだ?」
益々疑問が湧いた。
「男色など、性の乱れが甚だしかったとされています」
「ほう?」
だから彼らはあれこれ言っていたのかと合点がいった。
「旧約聖書とはユダヤの教えだったな。ユダヤ教でもキリスト教でも男色を禁じておるのか?」
「詳しくは存じ上げておりませんが、モーゼの十戒には姦淫するなかれという一句があります」
「左様か」
当時の同性愛者がどう扱われていたか、そこまで知っていない。
この時代まで遡らずとも、第二次大戦後でさえ差別や偏見はあったと聞く。
「逆に言えば、そのような昔からあったという事です」
「確かにそうだ。なければ戒める必要がない」
一神教的な捉え方では、これらを以て人間の原罪と見做すのであろう。
人は生まれながらにして大きな罪を背負っているのだから、必要がなくとも自己を罰し、それ以上に他人を罰する理由を持つ。
「しかし、禁止されているから逆にやりたくなってしまうのも人の性です。禁欲主義的なキリスト教では、隠れて欲望を発散する者が発生しがちです」
勝二が過ごした現代社会では、司祭職にある者が少年への性暴行で逮捕される。
そういった事件は枚挙に暇がなかった。
「あの大聖堂の中で何が行わているか、外部の我々には知りようがありませんが、まず間違いなく人には言えない後ろ暗い事があるでしょう」
「普段から綺麗事を抜かす者ほど、裏では何をしているか分からぬからな」
そして信長は傍にいた者に声を掛ける。
「生臭坊主と同じだな。のう、頼廉」
「恥ずかしながら、本願寺にもそのような者がいる事は確かです」
肩をすくめて頼廉が言った。
『何のお役にも立てず、申し訳ありません』
『わざわざ訪問して頂きながら、お迎えする事すら叶わず……』
バチカンの仕打ちに腹を据えかねた信長は、その日のうちに同地を去った。
慌てて追ってきたマルコに言われ、その屋敷へと向かう。
一行より遅れて帰ってきたマルコはヴァリニャーノを連れていた。
その顔は暗く、申し訳なさそうに縮こまっていた。
『ローマを離れていたのでは?』
『部屋で待機を命じられておりました』
『やはりですか』
思った通りに蟄居を命じられていたようだ。
『皆さんに会い、余計な知識を吹き込まないように、でしょう』
『私も終わってからその事を知りました』
マルコがバチカンを離れたのは、ヴァリニャーノが着く前である。
『まさか外交で訪れた使者に向かい、あのような物言いをするとは思ってもいませんでした……』
『皆さんを、小さな島国に住む者だと侮る意識があったようです』
ヴァリニャーノが諮問会議の様子を話し始めた。
『終わった事だ』
無表情で信長が口にする。
バチカンには何の未練もない、そんな印象だ。
ヴァリニャーノもその事は強く分かっていた。
こんな事なら招待しなければと後悔しても遅い。
『これからどうされますか?』
場の空気を読み、マルコが尋ねた。
このままローマに留まれば、バチカンとの関係が決定的に悪化しそうだ。
枢機卿としても商売人としても、それだけは避けたい。
『用が済んだので帰るだけだ。早く始めたい事も多いのでな』
マルコの問いに信長が答える。
新しい知見を多く得たので、国に帰って試してみたい。
『陸路でスペインに戻られるのですか?』
『いや、帰りは船を使う』
最早一刻も無駄には出来ない。
イタリア半島から船を使えば、大西洋に出るのも早い。
『もう少しだけ足を延ばす事は可能ですか?』
マルコの言葉にピクリと反応する。
この流れでわざわざそれを口に出す意味を考える。
余程の考えなしか、それだけの価値があるのだろう。
『申してみよ』
目の前の男は無能ではない。
そう思った信長は先を促した。
『コンスタンティノープルで会って頂きたい人がおります』
『聞いた事があるな』
チラッと勝二を見る。
『コンスタンティノープルはオスマン帝国の首都です』
『そうであったな』
思い出した。
『オスマン帝国ではイスラム教が盛んであったか。そこで誰が待つ?』
『それは会ってからのお楽しみという事で』
意味ありげな笑みを浮かべ、マルコが答えた。
直ぐに付け足す。
『因みに私は同行する事が出来ません』
『成る程』
出し抜けに信長が尋ねる。
『その方、間者か?』
『かんじゃ、ですか?』
言葉の意味が分からない。
『その国の内情を探る役目を持った、敵方に通じる者、でしょうか』
勝二が説明した。
『私はただの商人ですよ』
マルコは笑みを浮かべたままである。
『そういう事にしておこう』
信長が言った。
誤字のご指摘ありがとうございます。
ただ、大坂城は大阪にしておりません。
時に古い地名であったり、現代の地名であったりするかと思います。
その辺りは明確な基準を設けておりません。
ご不便をおかけし、申し訳ありません。




