第114話 不穏な空気
第110話において、ジョバンニ枢機卿をカボット枢機卿に修正しています。
『ようこそ、バチカンへ』
サン・ピエトロ広場で一行を待っていたのは、白い烏帽子のような物を被り、赤い肩掛け、白い胴衣、赤い袴を身につけた男達だった。
その中にマルコの顔が見える。
澄ました顔で歓迎の列に混じっていた。
『出迎え感謝する』
大仰な挨拶に信長が素っ気なく応える。
昨日の事を思い出していた。
『申し訳ありません』
バチカンへ向かう日にちが決まった夜、夕食の席でマルコが信長に謝罪した。
『何か隠しているのは分かっていた』
謝られた信長の表情に変化はない。
裏切られた訳でも、損害を被った訳でもないので平気なモノだ。
その言葉にマルコはホッと胸を撫で下ろす。
理性的な者達だと心得ていたが、何が気に障って逆上し、腰に差した武器を抜いて斬り掛かって来ないとも限らない。
内心ではヒヤヒヤしながら接してきていた。
『しかし枢機卿か。それだけの地位にある者がどうしてそのような事をした?』
信長が尋ねた。
マルコが枢機卿である事はローマに到着して直ぐに判明している。
勝二に命じて町の情報を集めさせたのだが、真っ先に分かったのがその事だった。
それも、聞き込みに行こうと屋敷を出た途端、待ってましたと言わんばかりの勢いで隣に住む主婦に捕まり、口を開く前から向こうが教えてくれたのである。
結果、隠していたのはその身分だけで、シチリア産のオリーブで財を成した一家である事や、父親の強い働きかけで枢機卿になった事など、矛盾を感じる情報はなかった。
裏付けの為に市場でも確認したが、成り上がりへの嫉妬からか、隠れてイスラムと商売しているに違いないとの、噂の域を出ないモノしか得られなかった。
そんな勝二の報告に何の目的だと考え、敢えて追求する事をしなかったのだが、バチカンへ向かう日にちが決まったのに合わせ、正面切って問い詰めたのである。
身分を隠す理由はなんだと。
問われたマルコの顔には動揺も驚きも見えなかった。
むしろ予想していたとでもいうような落ち着きようで、まずは謝罪の言葉を述べ、その理由を説明するのだった。
『皆さんにはバチカンに入る前にお会いしたかったのです』
『何故だ?』
見当が付かず、間髪入れずに問い掛ける。
マルコは淀みなく答えていく。
『私は元々商人で、本音を大事に致しますが、あの場所では緊張される方が多く、正直な思いを伺う事が困難なのです。また、建て前だけは立派な事を述べられる人も多く、低俗な話題を口にするのは些か憚られます』
『成る程』
信長は頷いた。
バチカンには多くの宣教師が集まっているという。
宗派によっては妻帯を禁じられているそうで、言わば日本の高僧達が一カ所に集まっているようなモノだろう。
そんな僧達の中で、僧を束ねる立場の枢機卿が下世話な話は出来ない。
マルコが補足する。
『また、私が枢機卿だと知られてしまっても、皆さんの率直な思いを聞く事は困難となるでしょう』
『確かにな』
それも納得出来た。
枢機卿が何なのかは勝二に説明させている。
カトリックの頂点に君臨する教皇を補佐し、コンクラーベと呼ばれる選挙によって教皇に選ばれうる存在が彼らである。
それを聞いても尚、旅路の時と同じ扱いは出来ない。
『それに、私は金の力で枢機卿になったようなモノですから、目立つ事をすると批判されやすいのです』
『ふむ』
マルコは苦笑いして肩をすくめた。
新参者は古参にイジメられやすい。
多額の寄付をしてその地位を得たのなら尚更であろう。
日本でもよくある事だ。
どこでも事情は同じだなと信長は思った。
無言で頷く信長に対し、真剣な表情をしてマルコが口を開く。
『何より商人の勘が告げたのです。誰よりも早く皆さんに会うべきだと』
神の示された奇跡の地に住まう人々。
サン・ピエトロ広場で待ち受けていたのは、一行をそのように捉えている群衆であった。
一目見ようと広場に押し寄せていた。
『神の名を讃えよ!』
『神の栄光を讃えよ!』
ウットリとした表情で口々に叫び、その声は大きなうねりとなって広場を包み込んでいる。
一行は不気味なモノを見る目で眼前の光景を眺めた。
形状し難い熱量を感じる。
ふと気づき、勝二は周りをキョロキョロと見回す。
いる筈の人物がいなかった。
『ヴァリニャーノ神父様が見えませんが?』
隣に控える若い司祭にラテン語でそっと尋ねる。
自分達を招待した当の本人の姿が見えないのだ。
男は勝二のラテン語に一瞬ビックリしたようだったが、申し訳なさそうな顔をして口にする。
『神父ヴァリニャーノは今朝、急な用事が出来てローマを離れております』
『え?』
まさかそのような答えが返ってくるとは思っていなかった。
ヴァリニャーノへの連絡はマルコに頼んだのだが、不在であるとは聞いていない。
どういう事だと思った瞬間、聴衆の歓声が一層高まる。
『教皇!』
カトリックの頂点に立つ、グレゴリウス13世の登場だった。
勝二は考え事が纏まらないまま、ぼんやりと歓迎の式典を眺めた。
「何だ、来いと口にした本人がおらぬのか?」
「そのようです」
式後、報告の為に信長の下を訪ねた。
宿泊するのはバチカンが所有する宮殿で、華美とならない程度に装飾が施された、上品な造りの部屋である。
「ヴァリニャーノ神父は律儀な方ですので、我らに何も言わず、バチカンを離れるとは考えられません」
「火急の用事でローマを離れるにせよ、一度顔を出せば済むからな」
部屋の窓からはバチカンが所有する庭園が見える。
幾何学模様に整えられた、美しい庭である。
何人もの庭師が忙しそうに働いていた。
「仮に病気や怪我だとしても、その事を隠す必要はない筈です」
「ローマを離れた訳でなく、歩けない訳でもない。あるとすれば蟄居か」
「恐らくは」
蟄居とは武士に科せられる刑罰で、平たく言えば自宅謹慎である。
信長が思いつきを口にする。
「故郷に帰って気が緩み、女でも抱いたのではないか?」
「まさか!」
神父といった司祭職は外聞を重んじ、醜聞は致命的である。
特にイエズス会士は生涯未婚を誓っているので、女性問題には厳しい。
否定する勝二をニヤニヤと見つめ、言う。
「その方と同じではないか?」
「そ、そんな筈は!」
途端に動揺し始めた。
もしかしたらという思いが芽生えたようだ。
そんな勝二をひとしきり笑い、命ずる。
「どうなっているのか調べてみよ」
「畏まりました」
信長の命を受け、勝二はヴァリニャーノの居所を探り始めた。
しかし、直ぐにそれどころではなくなる。
ミサや通訳で自由な時間が取れない。
そして何の手掛かりも掴めないまま、信長は教皇と面会する事となった。
「嫌な予感がしますね」
漠然とした不安があった。
色々とイメージで描写しています。




