第111話 ローマ到着
『ローマが見えてきましたよ』
「おぉ!」
同行していた商人マルコが嬉しそうに言った。
長い旅路にウンザリしていた一行は歓喜の声を上げる。
思いつきでやるような事ではなかったと思い知った。
『ローマは双子のロームルスとレムスにより建てられた町で、ロームルスが王様になったのですわ』
イサベルがうっとりとした顔で説明する。
この日の為に勉強してきたようなモノだった。
それを聞きながら進む。
『テヴェレ川に架かるミルヴィオ橋を渡るとローマの町です』
「石積みの橋か!」
『ここが、あの!』
石とレンガで作られた、重厚な作りの橋だった。
イサベルは感無量といった風である。
ローマ帝国の時代には作られ、何度か架け替えられて今の形となっていた。
「これがローマか!」
橋の検問所を無事に抜け、市街地へと足を踏み入れる。
使節団の噂は既にローマへも届いていたので、何の問題もない。
家々は他の町と同じに見えるが、目的地であるからか、一行は感動を込めた目で通りを眺めた。
『マルコさんのお屋敷は、ローマのどの辺りにあるのですか?』
勝二が尋ねた。
マルコとは長い時間に渡って言葉を交わし、親しくなっている。
曽祖父の代からシチリア島の産物をローマに仕入れる商売を始め、父の代で大きく繁盛したそうだ。
昔は市街地の端に小さなお店を持つだけだったが、今は町の中心部に邸宅も店もあるという。
若干誇らしげに答える。
『コロッセオの近くになります』
『コロッセオ!』
イサベルが反応した。
円形闘技場として名高いコロッセオ。
ローマ時代の代表的な遺跡である。
『コロッセオでは奴隷剣闘士達が命を賭けて戦い、市民が熱狂して見物したそうですわ』
「決闘を見世物にするのか? 武人の誇りを愚弄する行いだな」
『いえ、戦争に負けたりして捕らえられた奴隷ですわ。ある程度勝ち続けると奴隷から解放されるとか』
「ふぅむ」
奴隷を戦わせてそれを見物する。
信長らの想像を越えているのでイメージ出来なかった。
『猛獣を闘技場に放ち、素手で戦わせたとも聞きますわ』
「猛獣?」
それもピンと来ない。
勝二が補足する。
「人の背丈を越える大きさの虎や熊でしょうか」
「何? それなのに素手だと? むざむざ殺されるだけではないか!」
信長は吐き捨てた。
山に住むイノシシでさえ、槍でもなければ分が悪い。
「安全圏から人が殺される様子を眺めるのが、ローマ市民の何よりの楽しみだったようです」
「何と!」
驚くしかなかった。
そのような話を聞いて通りを眺めると、血も涙もない冷酷な町に見えてくる。
「ローマ帝国がキリスト教を国教とする事で廃止していったようです」
「ほう? 神の教えも偶には役に立つのだな」
褒めてつかわすとでも言いたげな顔である。
一行は通りを進む。
通りを歩く人々の数は多く、奇異なモノを見る目で一行を眺めた。
『ポポロ広場とオベリスクです』
「おべりすく?」
「四角く、細長い石像の事です」
田んぼ何町分あるだろうか。
だだっ広い広場の真ん中にポツンと一本、細長いモノが天に向かって伸びている。
『オベリスクとは古代エジプトで作られたモニュメントですわ』
「古代エジプトはナイル川の下流に位置した王国です。太陽神ラーを崇め、ピラミッドを作った事で知られます」
興味のない話に信長らは右から左に聞き捨てた。
やがて川向こうに巨大な砦が目に飛び込んできた。
『サンタンジェロ城です。あの向こうがバチカンとなります』
「あれが城か!」
それは巨大な桶のような要塞だった。
大坂城の石垣とは比べ物にならないくらいに垂直で、高い壁に囲まれた、見るからに堅牢そうな施設である。
『五賢帝の一人ハドリアヌス帝が霊廟として建設を始めたのですわ』
「ほう?」
五賢帝とは大層な呼び名だと信長は思った。
ローマの観光は続く。
『あれがパンテオンです』
『トラヤヌスの記念柱です』
『フォロ・ロマーノとなります』
『コンスタンティヌスの凱旋門とコロッセオです』
「これが!」
勝二にはお馴染みのローマの遺跡群であった。
しかし、車が一台として走っていない町は大層美しい。
人と町の調和が取れていると思った。
『ここが屋敷となります』
そうこうするうちにマルコの邸宅へと到着した。
小さな門を潜り抜けると美しい花が咲き乱れる庭となり、その向こうに白い壁の大きな家が見える。
相当に裕福な事が伺えた。
『長旅でお疲れでしょう。お風呂をご用意しますので、お部屋で少々お待ち下さい』
「風呂か! 有難い!」
一行は顔を綻ばす。
早く土埃を落してサッパリとしたい。
「うむ、良い湯だ」
大理石で出来た湯舟に浸かり、信長が満足気に呟いた。
天井は高く、室内は広い。
「疲れが飛んで行くようです」
蘭丸が相槌を打つ。
長い旅を共に過ごし、上も下もない状態となっていた。
弥助らも寛いでいる。
「箱根の温泉を思い出すね」
「あの時も遠出だったな」
重秀が感慨深そうに言う。
あれから随分と遠くまで来たものだと思う。
彼らはじっくりと湯を楽しんだ。
『ローマの郷土料理をご用意しました』
「おぉ!」
風呂から上がった一行を待っていたのは、大テーブルに所狭しと並べられた料理の数々だった。
『牛の内臓を柔らかくなるまで煮込んだトリッパ・アラ・ロマーナ、牛肉とセージの葉を生ハムで包み、バターで焼いたサルティンボッカ、ローマでよく食べられているパン、ロゼッタなどなど、心行くまでご賞味下さい』
『美味しそうですわ!』
『凄いね!』
初めて見る料理に女達は大興奮である。
目を輝かせて見つめた。
『ローマはワインも特産ですよ』
「ブドウ酒か!」
スペインでワインを知った重秀が膝を打つ。
「赤ワインは血のようで好きになれないので白ワインをお願いします」
頼廉が注文した。
時間を置かずに運ばれてくる。
そして旅の無事を祝い、祝宴が始まった。
『気に入った娘がいればどうぞご遠慮なく』
ワインは美しい娘達がグラスに注いでくれている。
料理に夢中なイサベルらに聞こえないよう、マルコがそっと耳打ちしてきた。
つまり好きに抱けという事だ。
酒、料理、女。
バブルの頃にあったという接待だと勝二は思った。
『長い旅ではさぞや不自由された事でしょう。何もご心配は要りませんので、心ゆくまでお寛ぎ下さい』
含み笑いをして言う。
それとなく仲間に伝えたところ、互いの顔を見合いニヤリと笑った。
特にアルベルトはソワソワし始めた。
「私は結構ですので、皆さんどうぞ」
龍太郎を生んでくれたお市を裏切れないと思った。
「僕もいいよ」
勝二に感化された訳ではなかろうが、弥助も辞退した。
それに信長が待ったを掛ける。
「命令だ、抱いておけ」
勝二は耳を疑った。
『サフィエ様、あの国の者達がローマに到着したようです』
『そうですか、ありがとう』
オスマン帝国12代皇帝、ムラト3世の寵妃サフィエ・スルタンは、トプカプ宮殿の自室で宦官から報告を受けた。
ヴェネツィア貴族の家に生まれた彼女は、幼い頃に父と共に海賊に捕まり、イスタンブールに売り飛ばされて奴隷となった。
容姿端麗であった彼女はオスマン帝国のハレムに入れられ、ムラト3世の寵愛を獲得し、皇子を産んだ。
政治的に無能であった皇帝は、その祖父であるスレイマン1世に仕えた名宰相、ソコルル・メフメト・パシャに統治をまかせっきりで快楽の追求に身を任せ、彼が暗殺されて以降は、妻であるサフィエにも政治の判断を頼るようになった。
誇りあるヴェネツィア人としての自覚があった彼女は、異教徒であるオスマン帝国のハレムの中にありながら、愛する祖国の為に秘かに孤軍奮闘し、劣勢になりつつあったヴェネツィアの勢いを取り戻そうと努めていた。
顔を上げ、身の回りの世話をさせている奴隷の女を呼ぶ。
細かい気配りが出来る女で、非常に気に入っていた。
『フク、あなたの国から人がやって来ましたよ』
『ほ、本当ですか?!』
サフィエに言われた女が驚いた顔をする。
大西洋に日本が現れた事は知っていたが、嘘じゃないのかと疑っていた。
遠い海を越えてここへ連れて来られ、生まれ故郷に帰る事など諦めていたのに、ひどく心が搔き乱される報せである。
『ローマに来た織田信長という男、奴隷の売買を禁止したそうです』
『え?!』
サフィエの言葉に一層驚愕する。
まさにその奴隷として、九州に来ていたポルトガル商人に買われたのが彼女だった。
船ではボロ雑巾のように扱われ、命からがら辿り着いたのがイスタンブールの奴隷市で、そこで拾ってくれたのが現在の主人、サフィエだった。
『その男、日本から連れ出された奴隷達を買い戻していると聞きます』
『ほ、本当ですか?!』
耳を疑うとはこの事だった。
確か織田信長といえば悪逆非道で名が通っており、そのような温情溢れる心など持っていそうにない。
『フク、故郷に帰りたい?』
サフィエが優しい顔で尋ねた。
一瞬言葉に詰まり、途切れ途切れに答える。
『も、勿論、帰りたい、ですが、帰ったところで、待っている家族がおりません……』
『ごめんなさい、そうだったわね……』
戦争で家族を失い、人攫いに遭ったのがフクだった。
戻ったところで独りぼっちである。
『その事はまた話しましょう。今は日本の事です』
『私に何か御用が?』
大恩あるサフィエの力になれるなら何だってしようと思っている。
『いえ、日本とは接触しておかねばと思ったので、その男の事で知っている事があればと思いました』
『私が織田信長について知っている事ですか?』
『ええ。何か知ってる?』
とはいえ、田舎暮らしであった彼女に話せる事は少ない。
『ええと、織田信長と言えば延暦寺の焼き討ちです』
『それは?』
主人に促され、フクは語り始めた。
ローマの有名料理を適当にアレンジしました。
あくまでイメージです。




