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第110話 旅の途中で

 少し時間を遡ったローマ。 


 『カボット枢機卿はどこに?』

 『いえ、朝から探しているのですが……』


 バチカン、サンピエトロ大聖堂で、教皇グレゴリウスが一人の枢機卿の居場所を尋ねた。

 しかし、その所在は知れず、どこにいるとも分からない。

 

 『成り上がった家のご子息は自由奔放ですな』

 『司祭の職で忙しい私には羨ましい限りです』

 『若い人には枢機卿など退屈なのでは?』


 他の枢機卿が口々に囁き合う。

 高位にある者が直接的な陰口を叩く事はないので、遠回しに揶揄した。


 『仕方ありませんね。会議を始めましょう』


 教皇は溜息をつき、聞き及んだ日本の悪習についての諮問会議を始めた。


 『まずは神父ヴァリニャーノ、日本からの帰国ご苦労様です』

 『温かいお言葉ありがとうございます』


 教皇を初め、枢機卿らが集まる部屋にヴァリニャーノは立っていた。

 日本から帰国し、カトリックの布教状況など、報告を兼ねてここにいる。

 教皇への謁見機会を待っていたところ、このような場を設けてもらった。

 枢機卿らにも日本の事を伝えられると思い、心は喜びに満ちていた。

 グレゴリウスが眉間に皺を寄せて尋ねる。

 

 『早速ですがヴァリニャーノ神父、日本では男色が盛んとは本当ですか?』

 『だ、男色ですか?!』


 ヴァリニャーノは狼狽えた。

 まさかそのような事を聞かれるとは思ってもいない。

 確かに日本では衆道しゅどうと呼ばれる男色があるが、どうして教皇が知っているのかと不思議に思った。

 グレゴリウスの近くでニヤニヤしているフランシスコ・カブラルが目に入り、事の真相を悟る。

 先に帰国させた彼が注進したのだろう。

 日本人を低劣で悪徳に染まった民族と見做し、自分達が教え導く必要があると強く思い込んでいた人物だ。

 余計な事をと、ヴァリニャーノは苦々しく思う。

 カトリックでは忌み嫌われている男色も、それなりの理由があるのだと説明出来るが、それは日本人の事を良く知ってからでないと難しい。

 先入観を持っていては判断を誤るので、後々でゆっくりと説明しようと思っていたのだが、こうなっては最早どうしようもなさそうだ。

 口をつぐんだヴァリニャーノにグレゴリウスが再び尋ねた。


 『本当なのですか?』

 

 その目は険しく、きつく問い質そうという意志に満ちている。

 余計な言い訳は状況を悪くするだけだろうと感じた。


 『本当です』


 ヴァリニャーノは短く答える。  

 その返答に、集まっていた枢機卿達からどよめきが起きた。


 『ソドムとゴモラの悪徳か!』

 『神の奇跡が示された国で、何という事だ!』


 彼らの驚き具合にヴァリニャーノは逆に驚いていた。

 枢機卿の中にも人には言えない秘密を持つ者はいよう。

 神学校にいた頃から、そのような悪い噂が流れていたからだ。

 また、司祭を除外して考えるとしても、自分達の国にもそのような悪習は存在しているのに、何を言うのかと反論したいくらいだ。

 ましてや相手は伝統も風習もまるで違う国である。 

 同じように裁いてはならない筈だ。


 『親愛なる教皇猊下、列席されている枢機卿の皆さん、お聞き下さい』


 ヴァリニャーノは決意を込めて口を開く。


 『彼らの風習は彼らの選択の結果です。彼らの事情を知りもしない我らが裁くべきではありません』

 『神父ヴァリニャーノ、黙りなさい!』


 一人の枢機卿が激しい口調で叱責した。

 臆さず尚も反論しようとしたところ、グレゴリウスから待つようにと身振りで指示された。

 イエズス会士は教皇に仕える。

 ヴァリニャーノは大人しく口を閉じた。

 黙った彼を見てグレゴリウスが尋ねる。


 『日本の使者をバチカンに招いているのですね?』

 『何か問題でも発生しない限り、こちらに来る筈です』

 『ならば結構。それまでにこの問題についてしっかりと話し合いましょう』


 神の救いを証明する奇跡、日本。

 その日本で、神罰により滅びた町、ソドムとゴモラと同じ悪徳が蔓延っている。

 教皇と枢機卿らは、厄介な問題を前に頭を抱えた。




 『あれがそうだよ』

 『おぉ! あれがシロバナムシヨケギクですか!』


 日当たりの良い山の斜面に、真っ白な花弁をユラユラと風に揺らす、勝二の探し求めていた植物らしき群生があった。

  

 『まさに菊です!』


 花の形は日本の菊と変わりない。 

 信長らもどうして勝二が興奮しているのか見当がつかなかった。

 代表してサラが尋ねる。


 『この花、何に使えるんだい?』

 『虫除けではあるのですが、本当にこの草で合っているのか、実験しないと確かな事は言えませんね……』

 『実験? 何だか本格的だね』


 曖昧な返事をする勝二にそれ以上は詮索しなかった。

 勝二としても、持っている知識をうっかりと喋る事は出来ない。

 これが本当にシロバナムシヨケギクかは分からないし、下手に話して間違って伝わる事を恐れた。

 

 『種を採って行きたいのですが、勝手に採っても構いませんかね?』

 『山の草だよ? 誰も文句なんてつけないさ』


 サラの言葉にホッとする。

 行列に止まってもらうよう、信長に申し出る。


 「ならばここらで休憩とする」

 「ありがとうございます」


 一行は足を止め、茶の準備に取り掛かった。

 自由になった勝二は、背丈ほどに伸びた中に分け入る。

 花が枯れ、種子が熟していそうな株を探していった。

 虫除け効果があるのか、不快な羽音をさせている虫がいない。 


 『手伝うよ』

 「種を採ればいいんだね?」


 サラ、弥助らが収穫に加わる。

 瞬く間に集まった。


 『これくらいで止めておきましょう』

 

 適当なところで切り上げる。

 日本へと持って帰り、増やすには十分な量だった。

 

 「丸薬にするのですか?」


 信親が問う。

 大坂の五代商事では貧しい山間部の農村に薬草を育てさせ、買い取って丸薬とし、元三ツ者を使って全国へ売りに歩かせている。 

 これも有用な薬草の一つなのかと思った。 

  

 「とりあえず線香にしようと思います」

 「線香、ですか?」


 丸薬とはまるで違う用途である。

 ピンとこない信親に勝二が説明する。


 「蚊を媒介として広まる病気は多く、虫除けは大事な疫病対策です」

 「蚊が、ですか?!」


 まるで住血吸虫のような話である。

 夏に悩まされる蚊が、まさかそのような恐ろしい存在とは思わなかった。


 「兎も角、実験あるのみです」

 「そうですね」


 勝二の言葉に信親が頷き、チラッとサラの方を見た。

 帰国する前には求婚を済ませておきたい。

 勝二を介して話を聞けば、サラはカトリックではあるが熱心な信者ではなく、むしろ八百万やおよろずの神々の話に興味を示すような女性であった。

 日本にも好奇心を示している。

 しかし、異国の女性を嫁取りする事など考えた事もなく、どうすれば良いのやらまるで分からなかった。

 奪い去ってしまう訳にはいくまい。


 上の空の信親をしり目に、勝二は大事な種を大切そうに荷物の中へしまった。

 荷物用の馬車があり、食料などはそこに入れて運んでいる。

 と、その時だ。


 『何だい、この臭い』

 『どうしました?』


 種を収納する様子をじっと見ていたサラが、唐突に鼻をクンクンとさせて言った。


 『変な臭いがしないかい?』

 『え?!』


 女性にそう言われ、勝二は焦った。

 慌てて自分の服を嗅ぐ。

 風呂も洗濯も平地のようにはいかず、綺麗好きには不満の溜まる日々である。

 

 『長旅なんだから体が臭うのは仕方ないでしょ!』


 私だってと言いたげにサラが叫んだ。


 『そうじゃなくて、煮過ぎて食べきれず、忘れて放置していた豆にカビが生えた臭いっていうかさ』


 自分の嗅いだ匂いについて説明した。

 何かとルーズな母親は食べ物の管理にも無頓着で、鍋の中で物を腐らせる事がままあった。

 その時は村の祭りに合わせて豆を煮、少しだけ食べて残りを腐らせてしまったのだが、蓋を開けた瞬間に漂った臭いと、勝二の荷物とが似ている事を話す。


 「す、鋭い」


 ギクッとした。

 乾かした薬草が多いサラの家には、食品の発酵に用いられる乳酸菌や枯草菌(納豆菌)、もしかしたら味噌や醤油をかもす麹カビの近縁種もいるのかもしれない。  


 『何か言ったかい?』

 『い、いえ、何も……』


 勝二は誤魔化した。

 隠している訳ではないのだが、今更なので、全てなくなるまでこのままにしておこうと思っていた。


 『何事です?』


 イサベルもやって来る。

 

 『王女様はショージの荷物、臭わないかい?』


 サラがイサベルに尋ねた。

 王女は荷物用の馬車に鼻を近づける。


 『旅の間、時々皆さんの方から漂っていた匂いですわね』


 クンクンとさせ、思い出したように言う。

 注意していたが、やはり完全ではなかったようだ。


 『お食事の時に使われていたモノではありませんか?』

 『ご存知でしたか?!』


 まさかそこまで知られていたとは思わなかった。


 『チラッと拝見致しましたわ。瓶に入れてあったかと』


 勝二は観念した。

 そこまで見られていたのならば仕方あるまい。

 荷物の中から陶器製の小瓶を取り出し、二人に見せる。


 『お醤油という調味料です』

 『おしょーゆ?』


 醤油、それは味噌と共に、フェリペへの献上品兼交易品の見本として持って来た物品である。

 しかし予想以上に滞在が長引き、マドリードに辿り着く前に皆で消費しつく勢いであった為、献上するのは急遽取りやめ、自家消費に回した。

 皆、パンでは余り食が進まず、米も風味が異なって何となく口に合わない。

 味噌と醤油は、慣れない異国生活を乗り切る命綱だった。

 味と香りを懐かしむ程度に、パンなどにつけて食べている。

 他の者が管理すると隠れて消費してしまうので、勝二が責任を持って管理していた。

 イサベルらには、慣れない物だろうからと先回りして言い訳し、分けていない。


 『お醤油は蒸した大豆を発酵、カビを生えさせて作った調味料です』

 『蒸した大豆?』

 『カビを生えさせる?』


 その説明に二人はビックリした。

 カビの生えた物を食べるなど気持ちが悪い。

 気味悪がる彼女らに言葉を重ねた。


 『ワインは酵母菌がブドウを発酵させて出来上がりますし、チーズは乳酸菌が牛乳を発酵させる事で出来ておりますよ?』

 『本当かい!?』


 初めて聞く話にサラは興奮した。


 『味見させておくれ!』

 『私にもお願いしますわ!』


 やはりそう来るよなと思った。

 

 『このお醤油、皆さんには臭いが合わないかもしれませんし、味もしょっぱいだけかもしれません』


 外国人の中には醤油の臭いが苦手な人がいる。

 今は醤油を使う人が増えて欲しくない。

 口に合わないでくれと天に願った。


 『匂いは兎も角、味はしょっぱいわね!』

 『そうかい? 私にはちょうどいいけど』


 勝二の祈りが半分通じたようだ。

 

 『で、どうして隠していたんだい?』 


 ホッとした途端、サラが厳しい目を向ける。

 同じ鍋の物を食べている間柄であるのに、一方は国から持って来た物をこっそりと食べながら旅をしていたのだ。

 重大な裏切りであろう。


 『これには深い理由がありまして……』


 勝二はこれまでの経緯を、味噌の製造から醤油が偶然出来たところに遡って話し始めた。




 「と、そういう訳で、今日は照り焼きにしてお醤油の使い納めです」

 「何ぃ?!」

 「醤油、終わりなのかよ!」


 一斉に悲鳴が上がる。

 とうとうその時が来てしまったのだ。


 『照り焼き、楽しみですわ!』

 『発酵、奥が深いねぇ……』


 イサベルらは好奇心一杯である。

 そんな彼女らの前で、今日の晩御飯である牛肉を焼く。

 漬け込む程の醤油はないので、鉄板の上で焼いている肉の表面に刷毛でタレを塗っていく。

 ジューという音を立てて肉がこんがりと焼けていった。

 辺りに香ばしい香りが広がる。 


 「早う持てい!」

 「焼けた醤油の匂いが食欲をそそるぜ!」

 『何だかよだれが出てくるね』

 『美味しそうな香りですわ!』


 一斉に歓声が上がった。




 『照り焼き、美味しうございました』


 イサベルらは照り焼きを堪能した。

 真っ黒な液体を塗りたくる様に初めは躊躇していたが、涙を流して食べている同行者の姿に衝撃を受け、恐る恐る食べてみた。

 頬張った途端に口の中に広がったのは、香ばしい香りとほんのりとした砂糖の甘さで、噛みしめると、これまで経験した事のない豊かな風味が鼻腔を駆け抜けた。

 塩と胡椒しか知らないような彼女らの肉料理に、照り焼きという新たな手法が加わった瞬間である。


 『でも、お醤油は終わりなのですわね』

 『残念だよ』

 「これが最後だと思うとやり切れねぇぜ……」

 「早く国に帰りたいものですね」


 国という単語に、勝二は生まれたばかりの息子を思い出す。

 毎晩の夢に、お市に抱かれた姿で出てきてるが、やはりこの目で直接顔を確かめたいところだ。

 愛しい家族と懐かしい我が家を思い、勝二は一人溜息をついた。




 無事にイタリアに入り、ローマに至る街道を進んでいる時だった。

 列の先頭が止まり、隊が乱れる。


 「溝に車輪が嵌った馬車がいるぞ」


 先を進んでいた幸村が知らせに来た。

 様子を確かめに馬を走らせる。

 彼の言う通り、一頭の馬車が街道で立ち往生し、数人の男達が泥だらけになりながら馬車を押していた。

 馬ならば横を通り抜けられるが、イサベルの馬車では無理だろう。

 

 「手伝わない事には進めねぇぜ?」

 「賊の罠という可能性もあります」


 幸村に応えて言う。

 出張先のアフリカではそのような事が多々あった。

 山賊がわざと道を壊し、止まった車を襲うのである。


 「ぬかるみに嵌ったのだな!」


 愛馬に乗った信長もやって来た。

 

 「賊の襲撃を警戒すべきかと」


 己の経験を元に言った。

 信長は勝二の進言に頷き、素早く辺りを見回す。

 そして重秀を呼び、その意見を求めた。


 「天下の孫一はどう思う?」


 問われた重秀はチラチラと周囲に目を走らせ、答える。


 「こんな場所では襲わねぇですな」

 「左様か」

 

 立ち木はあるものの見通しは良く、賊が隠れるような場所はないように思われた。

 

 「孫一は周囲を見ておれ。他の者は全員下馬して馬車を押すぞ」

 「畏まりました」


 信長の指示に、重秀を残して皆が馬から降りた。

 当然のように信長も降りている。


 「我らだけで十分です!」


 驚いた蘭丸が主人を押し止めようとしたが一歩遅い。

 一足早く馬車に手を当て、せーのと声を張り上げた。

 驚いたのは汗まみれになって馬車を押していた男達も同じ。 


 『あんた方は?』


 イタリア語らしき言葉で問われた。

 

 『イサベル様、お願い致します』


 通訳に頼む。


 『お手伝いしますわ』


 イサベルがイタリア語で説明した。




 『助かりました。一時はどうなる事かと』


 馬車の持ち主が何度も礼を述べる。

 結局山賊は襲って来ず、無事に溝から脱出出来た。

 若いが裕福そうな身なりをした男で、荷も満載であった。

 これだけの荷物を運ぶとなると、その正体はおのずと知れる。


 『私はローマで商人をやっております、マルコと申します』


 やはりであった。


 『あなた方は一体どこから?』


 慣れてしまったが、日本人を初めて見る者には随分と奇異に映るらしい。


 『そうですか、あの奇跡の国、日本から来られたのですね。使者が来ている事は耳にしておりましたが……』


 イタリアにも伝わっているようだ。


 『それで、ローマでの滞在先はどうなっているのですか?』


 バチカンにいるヴァリニャーノを訪ねる事を説明する。


 『そうであれば、一晩くらいは遅れても構いませんよね?』


 その理由を述べる。


 『今日のお礼をしたいですし、珍しいお客様ですので家族も喜ぶでしょう。ローマにお着きになったら、是非とも我が屋敷にお泊り下さい』


 商人としての嗅覚か、ただの感謝か、このやり取りだけでは勝二にも分かりかねた。 


 『しかしスペイン語がお上手ですね』

 『スペイン語が分かるのですか?』

 『それなりに取引をしておりますので』


 急にスペイン語で語り掛けられた。

 イサベルとスペイン語でやり取りしているのを聞き、いつ話そうかタイミングを図っていたらしい。


 『宜しければ私の馬車でお話をお伺いしても? 奇跡の国、日本から来たお客様です。町に帰れば自慢出来ますよ』


 その申し出に嘘はないようだが、念のため信長に相談しておく。


 「ふむ。ただの好奇心か何か企みがあるのか、腹を探っておけ」

 「畏まりました」


 こうして勝二はマルコの馬車に同乗し、道すがら日本の話などをして聞かせた。

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