第1話 タイムスリップ
カメラのフラッシュに照らされ、二人の男が笑顔で相手の手を取った。
日本の阿辺首相とインドのモドイ首相である。
両首脳の間で力強い握手が交わされた瞬間、雷が落ちたのかと錯覚するような白い光に包まれ、一瞬であったが二人の姿はテレビの画面から消えた。
それもこれもマスコミの数が多い為だが、日印は当然として欧米からも多数の記者が取材に訪れていた。
それだけ今回の合意は世界的な関心を呼んだのだろう。
インド最大の都市ムンバイとアフマダーバードを結ぶ、区間500kmの高速鉄道計画に日本の新幹線が導入される事が決定し、その合意文書が交わされた。
1兆円を超える円借款で資金を調達し、2022年の開業を目指す一大プロジェクトである。
大国インドのインフラ事業を手中に収めんと、低価格と工期の速さが売りの中国、KGVの蓄積があるフランス、高品質と安全性の日本が争ったが、最終的に日本の新幹線に軍配が上がった形だ。
鉄道設備の建設から始まり、車体整備や運行のノウハウまでも一括してサポートしていく契約となっている。
一部からは技術を盗まれるだけに終わると危惧する向きもあったが、新幹線で培った技術を他の国にも広げていきたい日本政府にとり、ムンバイの高速鉄道は是非とも獲得したい事業であった。
その争奪戦に、鉄道技術発祥の国にして元宗主国のイギリスが入っていないのは、国家の栄枯盛衰を如実に示すモノなのか、産業構造の変化でしかないのか、車のナビで中継を見ていただけの五代勝二には分かりかねた。
今回、日本の新幹線方式が採用された背景には、四菱商事に勤める勝二の働きも関係している。
世界最大級とも言える同社の取引の中にムンバイを舞台にした案件があり、鉄道建設予定地の有力者達に伝手があった勝二に白羽の矢が立ち、彼らを中心に新幹線方式のメリット・デメリットを丁寧に説明、理解と賛同が得られ、日本案の採択へと繋がったという。
しかし、勝二らの功績が世に出回る事はない。
あくまで裏方の仕事である。
それで構わないと思っていたし、日本とインド、会社にとって利益になれば十分であった。
華やかな場が苦手という、彼の性格もあるのかもしれない。
調印式に出席するよう上司から言われていたのだが、外せない用事があると無理を言い、ホウホウの体で逃げ出していた。
その言葉自体に嘘はない。
今も車で向かっている先が、その要件の目的地であった。
『旦那!』
そんな事を考えていた勝二に、彼専属の運転手であるクリシュナがヒンディー語で呼びかけた。
日本の大企業に勤める者がインド国内を移動するのに、公共交通機関を利用するのは安全上忌避すべき方法である。
身代金目的で誘拐される危険性があるのと、宗教に根差したテロの標的にされる恐れがあるからだ。
会社としてはそれらを未然に防ぐ為にも、安全な地域に安全な家を用意し、車と専属の運転手を付ける必要があった。
『クリシュナさん、どうしました?』
勝二もヒンディー語で応える。
数か国語を操る彼には難しい事ではない。
『日本の新幹線がムンバイに出来るんですね! 楽しみです!』
前を向いたままクリシュナは嬉しそうに言った。
ムンバイの交通渋滞は深刻で、既存の鉄道も輸送能力のキャパシティーを超えている。
現に車を走らせている道路は車とバイクで一杯で、ちょっと走っては止まってを繰り返している。
路上に座り込んでのんびり反芻している牛がいる一方、ノロノロ運転の車の隙間をバイクがすり抜け、その間を歩行者がスタスタとすり抜けるという、日本では考えられないカオスな状況が広がっていた。
毎日の事で住民は慣れていたが、渋滞自体にはウンザリである。
それを緩和する目的もある高速鉄道に、地元民は大いに期待を寄せていた。
『クリシュナさんは気が早いですね。完成予定は2022年ですよ?』
『日本人が作るんですから計画通りでしょ?』
時間を守る日本のサラリーマンと長く付き合い、工事も予定通りに進むと勘違いしていた。
『そう上手くいくといいですが、全ては土地の買収次第でしょうね』
工事自体に遅延はない筈だと勝二は確信している。
参加している企業は海外での経験が豊富な社ばかりだからだ。
問題は用地の買収が全て済んだ訳ではないという、その一点である。
『新幹線が出来るのに、土地を売らない者がいるのですか?』
クリシュナは信じられないと言いたげだ。
しっかりと補償されると聞いている。
『大規模な開発計画は、そう簡単ではありませんよ』
勝二はかつて行ったアフリカでの事業を思い出し、考えながら口にした。
先祖伝来の土地を手放したくないというのは、万国各民族に共通した思いであるが、そこに政権を批判したい勢力などが加わって複雑化するのが常である。
常識的な補償額ですんなり進んでいたのに、損得勘定を植え付ける近親者の登場でたちまち難航してしまう事も多い。
今回の計画もどうなる事かと心配ではある。
『着きましたよ』
そうこうしている内に目的地へと着いた。
『ショージ、良く来てくれたな!』
『お招きありがとうございます』
勝二が訪れたのはムンバイ郊外、アフマダーバードへと続く鉄道建設予定地における有力者の一人、アリの下であった。
アリは、かつてこの一帯を支配していたグジャラート・スルターン朝の王、バハードル・シャーの血筋に連なる者である。
グジャラート・スルターン朝はムガール帝国と敵対していたが、植民地を求めていたポルトガルの策略により王を暗殺され、ムンバイをポルトガルに奪われると共にムガール帝国から遂には滅ぼされている。
アリは現代までもその恨みを保存してきた訳ではなかったが、グジャラート・スルターン朝の王都アフマダーバードと、奪われた町ムンバイを結ぶ今回の計画を勝二に聞かされ、協力を惜しまなかった。
勝二がアリの事を知ったのは偶然ではない。
彼のビジネスのスタイルとして、派遣された地の歴史と人物を詳しく調べるというモノがあり、その途中で知り得た情報であった。
それは言語に堪能で、人の中にすんなりと入っていける勝二だからこそ到達出来たと言えよう。
そんな勝二とアリは、ひとまず今回の合意を互いに祝う。
ムンバイとアフマダーバードが高速鉄道で結ばれれば経済効果は大きく、両都市の益々の発展を促すだろう。
一通り話が済んだ所でアリが言い出した。
『ショージは占いに興味があるか?』
現れたのは腰の曲がった老婆であった。
イスラムであるのか顔を隠しているが、随分と歳を重ねている事が見て取れる。
ヒンドゥー語は分からないようで、アリが通訳して会話が出来た。
『占いの腕は確かだぞ』
歩く事さえ覚束ないような老婆の様子に、大丈夫なのかと顔に出たのだろう。
アリが老婆の占いの凄さを力説する。
『私の事業が成功したのは、全てこの占い師の助言に従ったからだ!』
『経営のアドバイスなら僕でも少しは出来ますよ?』
占いではなく経営コンサルタント的な能力かもしれない。
『私がショージに協力したのも、この占い師が予言したからなのだぞ?』
『本当ですか?!』
それは初耳であった。
まさかこの老婆に言われていたからとは思いもしない。
『そんな事はどうでも良い! まずは占ってもらうのだ!』
『は、はぁ……』
アリの有無を言わせないような態度に、勝二も大人しく老婆の前に座る。
占いを信じている訳ではないが、信じていない訳でもない。
当たるも八卦当たらぬも八卦、どちらとも取れる言い方をすれば、相談者の方で占いが当たったと信じ込んでしまうのだろうと思っている。
しかし、世の中には人智の及ばない領域がある事も知っていた。
この老婆もそうである、のかもしれない。
彼女の占いはインド占星術ではなく、水晶を使うタイプのモノだった。
部屋を薄暗くして水晶に手をかざし、ムニャムニャと何かを呟く。
と、それまでは眠そうな目であったのにカッと見開き、叫んだ。
『これは驚きじゃ!』
肝を潰したアリが大急ぎで通訳する。
『お前さんには大いなる天の導きが待っておる!』
『天の導き?』
『そうじゃ! 天から下されたお前さんの使命じゃ!』
『使命?』
訳が分からず尋ねる。
老婆はそれには答えず、うなされたように言葉を続けた。
『国に帰るが良い!』
『国に?』
『そうじゃ! 今すぐお前さんが生まれた国に戻れ!』
それきり老婆は口をつぐむ。
興奮したからか息が荒く、肩が上下していた。
『ショージ、すまない。今日は帰ってくれ』
『分かりました』
アリにそう言われ、勝二も大人しく席を立つ。
後ろ髪を引かれる思いで彼の屋敷を出た。
「クリシュナさんは?」
勝二は戸惑った。
玄関の外でクリシュナが待っている筈なのに、彼はおろか車も見えない。
用を足しに消える事もあるクリシュナだが、車さえもなくなる事はない。
何かあったのかと思い、携帯を取り出す。
「圏外ですか?」
町中なのにどうした事だろう、アンテナが一本も立っていなかった。
電波が悪いのかと庭をウロウロし、門を潜って道路まで出る。
「え?」
そこには全く見知らぬ街並みが広がっていた。
周りには比較的新しい家々が多かったのに、随分と古びた家しかないのだ。
それに車が全く見えないし、クラクションさえも聞こえない。
いつもであれば、どこかしらでけたたましい警笛が鳴っているのだが、どれだけ耳を澄ましても音がしない。
それに違和感はもう一つあった。
「電線がなくなっている?」
道路に電柱と電線が1本も見えないのだ。
景観を損ねると問題視されている日本とは桁が違い、インドの電線事情はカオスである。
そのカオスが一切合切消えていた。
付近を歩き回り、どこにも電柱がない事を確認する。
「この町はいつの間に地下に埋設したのでしょう?」
初めに思ったのはそれだった。
「私の耳に何も入ってこないなんて!」
何という不覚であろうか。
どれだけの商談になったのか想像もつかない。
逃した利益は計り知れなかった。
しかしここでおかしい事に気づく。
「そんな筈がありません! 来るまでは確かにあったのに!」
空が見えないくらいに電線が張り巡らされていた事を記憶している。
その事でクリシュナと話をしたから鮮明に覚えていた。
「屋敷にいる間に工事が終わったのでしょうか? いやいや、そんな筈がありません!」
自分で考えながらあり得ないと否定する。
工事の音はまるでしなかったし、何よりそんなに段取り良く工事が進む訳がなかった。
主要幹線道路の穴すら何か月も放置されているのがインドである。
「仕方ない、アブドゥルさんに頼んでみよう」
電線は自分の勘違いかもしれないし、何よりクリシュナに連絡を取る為、アリ家の使用人であるアブドゥルを探し、屋敷に戻ろうとした。
「家がない?」
どれだけ探してもアリの家は見当たらなかった。
不思議な事は他にもある。
「どうしてマラーティー語しか通じないのでしょう?」
近所を歩いていた人に話しかけたのだが、ヒンディー語も英語も通じないのだ。
ムンバイのあるマハーラーシュトラ州の公用語はマラーティー語であるが、英語で事足りていたので会得まではしていない。
「それだと挨拶程度ですし……」
挨拶くらいでは話が出来なかった。
「仕方ない、人通りの多い場所に行こう」
安全面を考えるとなるべく避けるべきだが、クリシュナに連絡が付かないのではどうしようもない。
勝二は言葉の通じる者を求め、町の中心に向かって歩いた。
「もしかして、タイムスリップというヤツですか?」
結論としてそこに至った。
町から文明の香りが消え失せており、そうとしか考えられない状況に思える。
マサイ族の集落を訪れた事があるが、大人達は普通に携帯を持っており、充電用の太陽電池パネルがあったりと文明の利器はそこかしこで見る事が出来た。
アマゾンのインディオでも事情は同じで、照明器具から果てはテレビまで、色々と電化製品を揃えた家庭もあった。
それがどうだろう。
携帯は元より、灯りを取る器具さえも見当たらない。
電気を連想させるモノが皆無であった。
また、車は一切走ってないし、町を歩く人々の衣服も伝統的である。
「1575年とは……」
町を外国人が歩いており、話しかけた所ポルトガル人であった。
「グジャラート・スルターン朝が崩壊して直ぐの時代ですね」
王国がムガール帝国に攻められ、崩壊したのは1573年である。
ムンバイ自体は1534年、バハードル・シャー王からポルトガルが譲り受けている。
「あの占い師が言っていた事とはこれですか?」
確かに、タイムスリップとは映画などでしか見た事はない。
どっきりにしては大袈裟過ぎるし、町全体を改造するなど不可能だろう。
信じられないが、自分が目にした現実は否定しようもない。
「直ぐに日本に戻れ、でしたか」
占い師の言葉を思い出す。
「しかし私にどうしろと……」
天からの使命、つまり天命だとして、ただのサラリーマンに何を求めているというのか。
分からないが、日本に戻る以外に道がなさそうだ。
この時代に知り合いなどいる筈がないし、手持ちもない。
「ポルトガル人に雇ってもらいますか……」
持ち物はスマホと財布しかない。
スマホを売ればお金になりそうであるが、下手な事をしては不味いとも感じる。
騒がれてしまう可能性もあり、とりあえず電源を切った。
充電出来ないので直ぐに無意味になろう。
「そう言えば、イエズス会士のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが日本に派遣される時期でしたね」
ムンバイと同じ、ポルトガルに割譲されたインドの領地ゴア。
そこから中国のマカオに向かう便があり、ヴァリニャーノは日本に渡っている。
「まずはゴアに行きましょう」
考えていても始まらない。
勝二は日本に戻る為、まずは船が出る港へ向かう事にした。
※ムンバイ、ゴアの位置関係
主人公の習得している言語ですが、込み入った話も出来るレベルなのは英語のみで、フランス語ポルトガル語ヒンディー語スペイン語ドイツ語は日常会話レベルです。
別作『毛利秀包の~』の中で、当時の日本の鉄砲保有量が30万挺とか、ガレー船で運べる人員は千人だとか、ネットで見かけた数字を検証もせずに記載してしまいました。
どうやら間違っていたようなので、今作では信頼出来る数字以外細かな数字は出さないようにしたいと思います。
商社マンの主人公が細かな数字を出さないで商談が出来るのか分かりませんが、数字に関してはフワッとしたまま物語が進みますので予めご容赦下さい。