竜王、悲観する。
「あら、おかえりなさい」
「おー、ラウルだー」
川から戻ってきたラウルを、ハナユリとリンは快く迎え入れた。
暗い表情をしているラウルを見て察したのか、ハナユリはトン、と人差し指をラウルの口元に当てる。
「ただいま、ですよ?」
「む……?」
聞き慣れない言葉に首を傾げるラウル。だがハナユリは相も変わらずにこりと微笑んで「家に帰ってきたら、ただいま、って言うんですよ」と教えてくる。
そんなハナユリの仕草にくすぐったさを感じつつも、ラウルはハナユリの言葉通りに言葉を返す。
「……ただいま」
「はい、おかえりなさい」
「おかえりー」
ニコニコと微笑みを絶やさないハナユリと、まだ警戒はしているものの、リンもラウルを歓迎している。
「……帰る場所、か」
「ラウルさん?」
「いや、なんでもない」
どうしてもラウルは過去を思い出してしまう。配下は数多くいたけれども、誰一人としてラウルにそのような気遣いをするものはいなかった。
ただいまと、おかえり。
何のことではないただのやり取りが、ラウルにはたまらなく嬉しかった。
「手掛かり、ありましたか?」
「いや、何も」
「残念ですね。でも、ゆっくりと思い出していけばいいんですよ」
ハナユリに手を引かれ、家の中に戻る。数時間前に目覚めた場所が、今のラウルには掛け替えのないものとなりつつあった。
そういえば、とラウルは上流へ向かう道中のことを思い出す。
「ハナユリ」
「なんでしょうか?」
「父親は――お前の旦那は、まだ帰ってきてないのか?」
それはラウルにとってごく自然な問いかけのつもりだった。
だがその言葉を聞いた瞬間、ハナユリの笑顔が凍り付く。しまった、と思った時には足に痛みが走った。
「ぐっ!?」
「ラウル、むしんけい」
脛を思いっきりリンに蹴られ、思わずうめき声を上げながらしゃがみ込んでしまう。
痛みに表情を歪めるラウルと、ぷりぷりと怒っているリンを見て、ハナユリの笑顔も和らいだ。
「……そうですね。帰って来ることは、出来ないんです。ずっと遠い場所へ、行ってしまったので」
ハナユリの言葉を聞いて、ラウルは暗に悟ってしまう。ハナユリの夫であり、リンの父親たる人物が――この世には、もういないということを。
「……すまん。聞いてはいけないことだったな」
「いえ、最初に言っておくべきでした。気になりますもんね、そういうこと」
微笑みを返すハナユリだが、その表情は暖かな微笑みではなく、寂しさを伴ったものである。ラウルはその表情を見て申し訳なさを感じつつも、今の自分には何も出来ないことを理解している。
だからこそ、もどかしい。
所詮は人間ではなかったラウルである。ハナユリを気遣う言葉は、見つからない。
「ハナユリ、余を叩けっ」
「なんでそうなるんですかっ?」
「余はそのくらいしか、お前の気を紛らわす方法を知らぬ!」
「いえいえ。誰かを叩くなんて、出来ませんよ」
「ならお前の望みを言え! 余ができることならば、なんでもしよう!」
こうなってはラウルも簡単には引かないだろう。どうしようかとオロオロしてしまうハナユリだが、ラウルの必死な表情を見て、隣に立っているリンに視線を向けた。
「……じゃあ、一つだけ」
「なんだっ!」
「この子の遊び相手に、なってもらえませんか?」
「おろ?」
そっとリンの背中に手を回して、押し出した。
当のリンは何が何だか理解しておらず、困惑の表情を浮かべている。
「この村にはこの子と同じくらいの子供がいなくて、いつも寂しい思いをさせてしまっているんです」
「リン、寂しくないよー? おかーさんの手伝い、たのしーし」
「ありがとね。でもね、子供は遊ぶのが仕事なのよ」
しゃがみ込み、リンと目線を合わせてハナユリは言葉を交わす。ぽん、と頭に手を乗せられ撫でられては、リンもハナユリの思いを無碍に出来ない。
ラウルはむしろ恐縮してしまっている。それだけでいいのか、と。
そんなラウルの視線に気付いたのか、ハナユリはラウルにも微笑みを向ける。
「ラウルさん、お願いできますか?」
「……ああ。それがお前の望みならば、余は叶えよう」
一歩踏み出したラウルはハナユリと同じようにしゃがみ込み、リンの頭を撫で回す。それもハナユリのように優しくではなく、くしゃくしゃとかき乱すように。
「のわーっ!」
「ははは。どうだこやつめ!」
「あらあら、後でしっかりお手入れしないといけませんね」
笑い合う母子とラウル。傾いていく夕陽を背に、まるで親子のように家に戻っていく。ハナユリの提案は奇しくも、落ち込んでいたラウルの気分をすくい上げるものだった。
くしゃくしゃの髪を気にしながら、唇を尖らせるリン。そんなリンを見て笑い合うラウルとハナユリ。
そして三人は家の敷居を跨ぐ。
「おかえりなさい、ラウルさん。リン」
「ただいま、ハナユリ、リン」
「ただいまーっ」
三人揃って言葉を交わし、再び笑い合うのであった。
+
「世界情勢、ですか?」
「ああ、気になってな」
「むぐむぐ」
夕食を共にする中で、ラウルはハナユリに今の世界のことについて聞いてみることにした。何はともあれ、ラウルは今の世界のことを何一つとして知らない。
せめて、自分が死んでからどれくらいの年月が経過したかを知れたら――そんな思いで。
「えーっと、そうですね。ご存知ないとは思いますが……人類と、魔族、と呼ばれる種族が、今も争っています」
少しの悲観を織り交ぜったハナユリの言葉に、ラウルは違和感を覚えた。
悲壮感漂う話し方ではないことから、それほど深刻な事態ではない――と推測は出来る。
だが、ハナユリの言葉の節々から、何かを隠すような感情に気付いたのだ。
それを言葉にしていいのか、竜王の頭を過ぎる、嫌な予感。
「人間と魔族が、争っている?」
深く考えて、ラウルはその違和感を問いただすことはやめることにした。知りたいのは、むしろ人間と魔族の争いについて、だ。違和感については、後日、ハナユリにさえ許して貰えるのであれば、語って貰いたい。
「はい。もう百年近く、争っているそうです」
「……随分、長いのだな」
「膠着状態、らしいです」
ハナユリは立ち上がると、奥の本棚から古ぼけた一冊の本を持ち出してきた。ラウルはそれを受け取ると、描かれている表紙を見て愕然とする。
『鳥となった勇者と竜の王』
そう記された本は、ラウルにとって近しい記憶を呼び起こす。
鳥のように自由に生きればいい――それは、死の間際に勇者に告げた、竜王ラウルの言葉だから。
ラウルから本を受け取ったハナユリが、一ページ一ページをゆっくりとめくる。
「魔族たちは一体の竜によって軍とかし、人間の世界を襲いました。今から百年ほど前の出来事です」
「……ああ」
知っている、とは言えなかった。ラウルがその竜王本人であることも、当然言えるわけがない。額を冷や汗が流れていく。拭うこともせず、ラウルはハナユリの言葉を聞き続ける。
「圧倒的な能力を持つ魔族の攻勢に、人類は窮地に陥りました。世界の大半を侵略され、人々は苦しみ、もがき、救いを求めました」
そして、とラウルは胸の内で言葉を繋げる。胸に浮かんだ言葉通りの言葉を、ハナユリも口にする。
「救世主――百の魔法と剣技を操る無双の少女――勇者と呼ばれる存在が、生誕しました」
それからのハナユリの語る物語は、竜王にとっても既知のものであり、けれど、少しだけ結末の違う物だった。
勇者の進撃。猛追する魔族を振り切り、ついに魔族を束ねる王――竜王が待つ地にたどり着いた。
三日三晩の死闘の果てに、勇者は竜王を討ち倒した――だが結果は相打ちであった。
死に瀕した竜王が勇者に呪いを掛け、勇者は鳥となってしまったのだ。
それから先の勇者の行方は、誰一人として知らない。
人類と魔族、お互いの王たる存在を失った両軍は、争いを止めなかった。
止めるべき存在を失ったことにより、両軍はさらに泥沼の戦いに陥っていく。
疲弊していたはずの人類も魔族も、どちらかが滅びるまで戦いを止めないつもりなのだろう。
いや、きっとこの戦いは……止めることが出来ないのだろう。
失われた命が、多すぎるから。
「……以上が、この物語となります」
「随分悲惨な結末なのだな」
「そうですね。……今も、争いが続いているから、でしょうね」
目覚めたばかりのラウルがそうしたように、ハナユリもまた窓から空を見上げ、遠くを見つめる。
どこを見ているかは、ラウルにもわからない。だがその瞳に込められた感情が悲しみであることだけは、理解していた。
「誰も傷つかない世界になれば、いいんですけどね」
「……そうだな」
悲しんでいる人間がいる――その事実を知って、いや、その事実があることに直面してしまって、ラウルは深く後悔する。
竜王であったならば。あれだけの力があったのなら。いくらでも争いを止める方法はあったのではないか。
人間と戦うのではなく。勇者と戦うのではなく。お互いが共存していく道を探すことが出来たかもしれない。
(余は……あまりにも、浅はかだったな)
今にも泣いてしまいそうなハナユリの横顔を見つめながら、ラウルは胸の痛みをそっと隠すことしか出来なかった。