竜王、再会する。
竜王、忍び込む。
草原を駆けること一昼夜。本来であれば馬車を使って行き来される領主の屋敷に、ラウルはようやくたどり着いた。
周囲はすっかり暗くなってしまったが、これから忍び込もうとしているラウルにはむしろ都合が良い。
屋敷は外から見るだけでも広大な造りで、庭面積も含めれば村とほぼ同サイズはあるだろう。
なるべく音を立てないように注意しながら、ラウルは塀を乗り越える。
着地した際に踏んだ草の音が静かに響く。耳を澄ますと、かすかに獣の荒い息づかいが聞こえた。
「……人狼族か?」
泥臭い独特の臭いが辺りに立ちこめている。その中にかすかに残る血の臭いに、ラウルは思わず顔をしかめた。
慎重に辺りを警戒しながら歩いていると、臭いの元にたどり着いた。
「これは、惨いな」
その光景は、ラウルにとってはかつて飽きるほど見た光景ではある。
だが、だからといって慣れているものではない。
死肉が重なる光景など、見慣れていいものではない。
「僅かに生きている者もいる。だが……」
無造作に積まれた人の山。頭に耳と、臀部に尾を持った、人狼族の大人たちだ。
ラウルの背丈ほど積まれた人狼族の山を見て、ラウルは顔を伏せる。
――アインスたちに、見せられないな。
アインスたちに告げてこなくてよかったと、心の底から安堵した。
いくら人狼族が個よりも群を尊重する種族とはいえ、自分たちの肉親が死んだとすれば、そのショックは計り知れない。
とはいえ、いつかは教えなくてはならない。知ってしまったから。
それは、アインスたちを引き取ると決めたラウルが背負うべきことだ。
「あ、なた、は」
「喋れるのか!?」
頂上に積まれていた人狼族の青年が、必死に思いで顔を上げ、ラウルに声を掛けた。
ラウルは丁重に彼を山から下ろす。
……助からないことは、理解している。
ラウルも、人狼族の青年も。
故に、青年は途切れ途切れの呼吸のまま、ラウルを見上げる。
「頼みが、あり、ます」
「何でも言ってくれ。余は、そのために来た」
「あぁ……」
青年は安堵の表情を浮かべ、力の入らない腕を必死に伸ばして、屋敷を指差す。
「お、さが……中、に」
「長はまだ、生きているのか?」
「あのかた、は、特別で……。ど、か。どう、か」
「……ああ。余に、任せてくれ」
それが青年の最期の願いであるというのなら、ラウルはしっかりと受け止める。
抱いていた疑念を、確信に変えるしかない。
領主か、領主に関わる人物が、人狼族をここまで追い詰めた。
そして、その長をいたぶっている。
「……っ」
けれどラウルは、胸に抱いた怒りを必死に飲み込んだ。
怒りに任せて行動することだけは、絶対にしてはならないと。
目を瞑り、湧き上がる怒りの感情を抑え込む。
「よか、った。おさを、おねがい、しま、す」
「……ああ。ゆっくり、眠るといい」
それが最期の言葉だった。伸ばしていた腕から力が抜け、だらんと地に落ちる。
呼吸の止まった青年を寝かせると、ラウルはぐっ、と握る拳に力を込めた。
幸いなことに、屋敷はまだ静寂に包まれている。今のラウルと青年のやり取りは聞かれていないのだろう。
どこから忍び込むべきか、とラウルは思案する。
「声が、聞こえる。この声は……」
思考を巡らせていたラウルの耳に、かすかな声が聞こえてきた。
導かれるようにラウルはその声の元へ歩いて行く。
罠かもしれない、という思考が一旦ラウルの足を鈍らせる。
だが聞こえてきた声は、ラウルがよく知る声だった。
――それも、人間となってから覚えた声ではない。
小さな声は、今にも消えてしまいそうなほど小さくて、かすれていた。
けれどもラウルはその声を聞き逃さない。
脳裏に浮かぶ過去の情景に、目を細める。
たどり着いた扉の前に立ち、ゆっくりと重い扉を開いた。
そこは教会のように左右に椅子が並べられ、奥には祭壇のようなものが置かれている。
その祭壇に、鎖によって雁字搦めにされている小さな小さな少女が一人。
リンより僅かばかり大きいだけの、小柄な少女。
ラウルはその少女を知っている。誰よりも、知っていた。
「エル……エリクシア・ウェアリティ」
「…………おやおや、もはや長い間、その名を聞くことはなかったが……」
ラウルが漏らした言葉に、少女――エリクシア・ウェアリティはゆっくりと瞳を開いて答えた。
月明かりが差し込む教会で、美しい銀の髪は不思議と痛んですらいない。煌めく黄金の瞳がラウルを捉え、鋭く睨み付けられる。
「領主の、差し金か? そろそろ妾を殺すつもりで……っふ。ふふふ」
自棄になっている、とラウルはエリクシアの胸中を察する。
恐らく彼女は、同胞がどうなったかを知っている。そして、子供たちを逃がしたからこそ、もう、生きる目的を見失っているのだと。
きっと、辛い時を過ごしてきたと、ラウルは理解する。
――エリクシア・ウェアリティ。
ラウルがまだ竜王であった頃、最初にラウルの軍門に降った少女であり、以降ラウルが勇者との決戦に相まみえるまで、ずっと傍にいた少女。
(……生きて、いたのだな)
最初の配下として、彼女はずっと竜王の傍らにいた。側近として、誰よりも竜王を理解していたともいえる。
ほぼ絶滅しかけていた人狼族を再興した女王――獣王エリクシア。
勇者の台頭によって勢いを得た人類との戦いの中、竜王を守り続けた。
決戦――勇者との一騎打ちに、エリクシアは最後の最後まで反対した。
けれども竜王は、ラウルはそんな彼女の思いを無視し、勇者との決戦に挑んだ。
あの時、彼女は何を想ったか。
「……変な、匂いがするのう。はは。混じったような、匂いだ」
エリクシアは力なくうな垂れ、顔を上げようとはしない。
力が入らないのか、いや、もう力を込める気力もない。
「……余は、領主とは関係ない。お前を助けに来たのだ」
「騙されんぞ。人はすぐに嘘を吐く。助ける、と告げて希望を抱かせて、そして殺すのだろう?」
「違う。違うのだエル――」
「その名で妾を呼ぶなッ!」
「っ――」
かつて呼んだ愛称を口にすると、途端にエリクシアの表情が変わった。
激昂だ。鎖によって拘束されていなければ、今にもエリクシアはラウルの首元にその鋭い牙を突き立てていただろう。
「その名は、妾が忠誠を誓った御方のみが呼んでくれた名だ! 人間風情が、その名で妾を呼ぶなッ!」
――こんな状況だというのに、ラウルは胸が熱くなる。
百年だ。長い年月だ。記憶すら曖昧になってしまうはずの歳月を経ても、エリクシア・ウェアリティという少女は、竜王を想い続けていた。
ラウルはエリクシアへ歩み寄る。ガシ、と小さな肩を掴み、エリクシアの瞳を覗き込む。
いくら怒りを露わにしても、エリクシアの表情は疲れ切っている。無理をしているその表情こそが、ラウルにはいたたまれない。
昔の、彼女の笑顔を知っているから。
「情けないぞ、エリクシア・ウェアリティ」
「な――」
「貴様は、姿形で判断するほど浅ましかったか? 余の言葉を、余との約定を忘れたのかっ!」
「なにを、何を言っている。人間が、人間と約定など、何一つ!」
「貴様が孤独であるのなら、余が理解しよう。孤高にして美しき銀の姫を、余は尊重する!」
「――!」
勇者との一騎打ちにおいて、エリクシアは最後まで竜王に加勢しようとしていた。
それが許されぬことではないと百も承知で。それほどまでに、エリクシアは竜王に心酔していた。
彼の為なら、恥も外聞もなにも要らないと言い切れるほどの忠誠だった。
「竜王、様……」
「……お前はずっと、余を想ってくれていた。この言葉こそ、余とお前の出会いと始まりだ」
「ちがう。竜王様は死んだのだ。勇者に敗れたのだ。ちがう、ちがう。お前じゃない……」
ふるふると、エリクシアは力なく首を横に振る。信じたくないと、希望を持ちたくないと。
つまりそれだけの間、エリクシアは何度も希望を抱き、絶望してきた。
人狼族を守り、導き、人間に捕まってもそれだけは死守してきた。
「信じられないのならば、信じなくてよい。だが余は、アインスの言葉によって此処に来た。お前たち人狼族を救う為に、此処に来た」
「アインスが……そっか、無事、なのだな」
「お前以外の大人たちは、逝ってしまった。彼は最期まで、お前を救ってくれと、余に頼んできた」
掴んだ手が震えていることに、エリクシアは気付いた。見つめてきていた瞳を覗き返せば、涙を溜めて潤んでいた。
密着するように接近したからか、エリクシアの鼻にラウルの匂いが届く。
エリクシアの優れた嗅覚は、血や人の匂いだけを嗅ぎ分けるだけではない。
匂いによってその人物像を判断することさえ出来る、特殊な力である。
ラウルの匂いは、エリクシアにとって、本当に、本当に懐かしい匂いだった。
同胞よりも心地良い、暖かな――想い続けた、主君の匂い。
百の年月が過ぎようと忘れることが出来ない、愛しき想い。
混ざり物だと、最初は判断した。
だがその根底に、確かにその匂いがあった。
「……あなたは、本当に、竜王様、なのですか?」
「……ああ! 余は、竜王だ。竜王ラウル・グレシャスだ。今はどうしてか人となったが――余は、在りし日のお前とのやり取りを全て覚えている。あの戦いを、一時の安らぎを。全てを覚えているぞ、エル!」
「ああ、ああ、ああ……! こんな、こんな奇跡があるのですか? 竜王様、竜王様、竜王様っ!」
がしゃがしゃと鎖を千切らんと、エリクシアは必死に抵抗する。
ラウルはそっと暴れるエリクシアを抱き締める。冷たい鎖が抱擁を阻害するも、今の二人には何の障害にもならない。
「よく、よく生きていてくれた。よく、子たちを守ってくれた。もう大丈夫だ。お前は余が守る。かつての約束を、もう一度、余に守らせてくれ」