竜王、旅立つ。
老人たちの家を出たラウルは、少しずつ肌寒くなってきた夜を、月を見上げながら帰路についていた。五分も掛からない家路が酷く遠く感じられる。
足取りは軽いわけではない。ハナユリを信じてはいるものの、不安が無いわけでは無い。
家に戻ると、ハナユリはまだ起きていた。静かな部屋であることから、リンはもう寝ているのだろう。
「おかりなさい、ラウルさん」
「……うむ、ただいま」
慣れたやり取りも、今は少し心苦しい。微笑んでラウルを迎えてくれたハナユリを悲しませてしまうと考えると、話を切り出すのを躊躇われる。
だが躊躇っていては話は進まない。リールたちに受け入れてもらえたからこそ、ラウルは踏み出さなければならない。
「ハナユリ、余は――」
「人狼族を、助けに行きたいんですよね?」
「む……」
先にハナユリに用件を言われてしまい、ラウルは言葉に詰まる。
どうして、という疑問の言葉よりも、微笑んでいるハナユリの表情が気になった。
大人の人狼族を助けに行く。それがどういう意味か、わからないハナユリではない。
「……いいのか?」
「いいも悪いもありません。ラウルさんが、したいこと、なんですよね?」
「……ああ、そうだ」
「でしたら私は反対しません」
「だが……余は、魔族を助けようとしているのだぞ。お前や、村の老人たちから同胞を奪った存在を――」
「誰かを恨んで、あの人が……みんなが帰ってくるのなら、私はきっと剣を手に取っていました。でも、現実は違います。そうですよね?」
「……そうだな。死者は蘇らない」
「だから、恨んでも意味がないんです。それに……」
言葉に詰まったハナユリに、今度はラウルが問いかける番だ。
少し躊躇い、ハナユリは顔を上げた。
「アインスくんたちを見て、私は思ったんです。……人間も、魔族も関係ないんだって。お腹が空いて、助けてくれる人もいなくて。それって、凄く怖いことだと思います。ラウルさんが手を差し伸べなかったら、アインスくんたちは、どこかで死んでしまったかもしれません」
あの時、ラウルが語りかけることを、手を伸ばさなかったら――アインスたちは人間に捕まり殺されるか、良くて奴隷生活に戻っていただろう。
そこに彼らの幸せは存在しない。ラウルと偶然出会い、ラウルが手を伸ばしたからこそ、アインスたちは笑顔を取り戻した。
「魔族に、大切な人たちが奪われたことは事実です。村の人たちも、憎んでいる人もいるでしょう。……でも、それは魔族にも言えるんだと、私は考えています」
「……そうだな。人間も魔族も、お互いを滅ぼそうと戦を続けている」
「魔族だって、生きているんです。家族を奪われた人だっていると思います。だから、私たちが一方的に被害者として生きてちゃ、ダメなんです。……奪われたから、奪っていいなんて理由、ありませんから」
ラウルの想像以上に、ハナユリはしっかりと自分の意思を持っていた。確固たる信念を抱いていた。大切な人――夫を奪われたというのに、ハナユリは魔族を認め、受け入れようとしている。
「お互いに、許し合うべきだと、私は考えています」
「余も、同感だ」
「認め合って、許し合って、手を取り合って。……魔族とも、わかりあえる。そう、私は信じています」
「……ハナユリっ!」
ハナユリの言葉が、ラウルにはたまらなく嬉しかった。他ならぬハナユリが、魔族を受け入れることを認めてくれている。人間と魔族はわかり合えると信じてくれている。
感極まって、ラウルは思わずハナユリを抱き寄せていた。すっぽりと胸の内に収まるハナユリを強く抱き締め、言葉に出来ない感情が胸を突き動かす。
ハナユリはそっと、ラウルの背中に手を回し、抱き締め返してきた。
ラウルにはそれが、自分を受け止めてくれたような気がして、愛おしさを感じてしまう。
「ラウルさん、行ってあげてください。人狼族の人たちを助けて、この家に、帰ってきてください」
微笑みながら見上げてくるハナユリに、ラウルも微笑みを返す。
ぎゅう、とハナユリが抱き締める力を強くしてきた。より密着し、ハナユリの身体の柔らかさが感じ取れる。
かすかにだが、ハナユリの身体が震えていることに気が付いた。ハナユリの表情は、いつの間にか不安げな表情に変化していた。
「帰ってきて、ください」
「ああ、もちろんだ」
きっと、亡き夫のことを思い出してしまったのだろう。だからこそラウルは、抱き締める力を強くする。お互いの温もりを感じて、ハナユリはそっと目を伏せた。
「行ってくる」
「あ……ちょ、ちょっと待ってください」
身体を離し、背を向けたラウルをハナユリが呼び止める。
何事かと振り返れば、ハナユリは奥のタンスを開き、中から一振りの剣を取り出していた。
剣を受け取ると、確かな重さを感じる。
鞘は大分痛んでいたが、少しだけ抜いて出てきた刀身は不思議なほど銀の光沢を放っている。
「護身用に、ですけど」
「ハナユリ、これはもしかして――」
このような剣が、ハナユリの生活に必要であるはずがない。狩りは他の村人が行うし、狩猟してきた獲物を解体する時には剣ではなくナイフを使う。
だとすれば、この剣はハナユリのものでは無い。――ハナユリの、大切な人の剣の筈だ。
ハナユリは愛おしそうに鞘を撫で、潤んだ瞳でラウルを見つめた。
「きっと、守ってくれます」
「そうだな。余も、そう思う」
確信はない。魔法が付与されているわけでも、なにか特殊な加工が施されているようにも見えない。何もない、ただの有り触れた剣だ。
もう一度、剣を引き抜く。刃こぼれもしていない剣は、使われた形跡すら残っていない。
「……ハナユリ、余は、やりたいことが見えてきた」
「はい」
「余は、笑顔が見たい。人間の、魔族の。……いや、余の手が届く場所にいる、全ての。リンの、そして、お前の笑顔が見たい」
「……はい」
「これからも、お前の笑顔を守りたい。守らせて欲しい」
伸ばした手に、ハナユリはそっと手を重ねる。お互いに言葉はない。
重なった手を、ハナユリは自分の頬に当てる。ラウルはされるがままに頬を撫でる。
それ以上の言葉はないとばかりに、二人は見つめ合う。
少しの静寂と、かすかに聞こえてくる虫の鳴き声。
ラウルは微笑み、ハナユリもまた微笑んだ。
「アインスくんの言っていた大きな屋敷、というのは……多分、領主様の屋敷だと思います」
「ああ。リールもそう言っていた」
「お屋敷はこの村から北にまっすぐ行った所にあります」
「助かる」
ありったけのパンと干し肉が詰め込まれた袋を渡され、剣を腰に差し、旅支度を整える。
月明かりが眩いとすら感じる夜に、ラウルは始めて村を出る。
かつての配下であり、未来を守ろうと戦った魔族を助ける為に。
そして、村人たちに、知ってもらう為に。
――笑顔を守る為に。
ラウルはまっすぐに北を目指し、地面を蹴った。
――嗚呼。それにしても腹が減った。
銀の古狼は静かなうめき声を漏らした。
どれくらいこうしていただろうか。
眼を閉じれば昨日のように、百年前の光景を思い出すことが出来る。
あの子たちは、逃げれたのだろうか。無事に暮らしているのだろうか。
気がかりは多い。自らと共に戦った者たちはどうなったか。
思考が纏まらない。バラバラな思考は古狼を苛ませる。
――嗚呼、最後にもう一度だけ、あの御方に会いたい。不可能であることは承知であれど、また――
自決することだけは、古狼の選択肢にはなかった。
それは、"あの方"に禁じられたから。死してもなお、それだけは忠実に守り抜いている。
「……でも、もう、疲れました」
百の年月は心を摩耗させる。未来を逃がせたことで、古狼はもう限界を迎えてしまっていた。
身体の痛みはすでに感じなくなっている。どうでもいいと思ってしまったから。
ポロリと零れる一滴。頬を流れる涙にすら、古狼はもう気付けない。
「……ああ。向こうに行けば、会えるのでしょうか」
遠き日を思い出し、古狼はぽつりと言葉を漏らす。
「我が王。愛しき王。竜王様……」
古狼は一時の眠りにつく。眠っている間だけは、餓えも渇きも、満たせるから。




