二十八~争乱の後。ユーベンにて~
クローゼ達が起こした争乱の後、ユーベンの街並みには混沌が流れていた。寛容であった魔王オルゼクスの統治下のそれとは、少なからず違いがあった。
しかし、依然として魔王の約定は守られている。それは偏に、魔と人の混同する都と化したユーベンの一画に屋敷を構える、魔族の男爵によってである。
正確には、人界で育ったとされる人狼の女性によってであった。勿論、その女性がアリッサであったのは言うまでもない。
「あ~、だからよ。で、何とか何とか……と数字を言われても覚えらねぇ」
「仕方ないよ。それが魔術だから」
屋敷の庭で、ヴォルグとアリッサは何人かの人狼共に、魔動術式の習得の訓練をしていた。
――一応に、アリッサがあの事件の折、ヴォルグに治癒の力をかけた事で、ヴォルグが教えてほしいと、アリッサに懇願したからになる――
ヴォルグの「あ~」という声に、アリッサは答えて彼に近付く。そして、彼の体に触れながら、体の箇所に指定された、数字と数式をヴォルグに説明していた。
「だからね。こことここが、これね」
そう言って彼女は、魔動術式が書かれた魔導書を見せながら、ヴォルグに示している。そこには、人体図に数字が書き込まれた頁が開かれていた。
「あ~、だからよ。で、腹のこの辺どこが、それなんだよ。そこんとだけでも、で、五個も六個も数字書いてあんじゃねぇか」
そう、自分のお腹のその辺りを指してから、両手で頭を掻いているヴォルグを、周りで見る人狼達も若干引き気味で見ている。
そんな彼、ヴォルグを見ながら、あの事をアリッサは思い返していた。そう、あの刻の事を……。
記憶を遡るその場景では、アリッサは片膝付きで跪く様にして、玉座に座る魔王の前にいた。激昂するフリーダに、高圧的な視線を受けてである。
フリーダが多数の魔族が見つめる中で、クローゼ達の追撃に失敗した魔族らを、殺意込めた言葉で叱咤した。その後、その場に呼び出されていた、アリッサを魔王の前で膝を付かせたのだった。
「人狼の女よ。人狼ごときが我に逆らい、我を傷つける所業。我の事を差し置いても、魔王様の御前であの様な振舞いをした輩の仲間などと、看過出来ぬ。死をもって贖いをせよ」
アリッサはその声を聞いて、いや、この場に召し出されるとなった時に覚悟をしたそれを、彼女は心に決めていく。ただ、ヴォルグの言葉が頭をよぎっていた。
「アリッサは俺が守る」
アリッサは、あの事の流れでなし崩しに、ヴォルグの屋敷に滞在していた。
そして、この事態なるとなった時、ヴォルグが、彼女にそう言ったのだった。騙していた事には、ヴォルグは何も触れる事も無く。
「私は人で、貴方を騙していたのだから」と、頑なにそれを拒むアリッサに、ヴォルグが「俺がしたいから。で、お前に拒む権利はねぇ」と訳の分からない論理を振りかざして、意気込んでいた。
その雰囲気のまま、彼は屋敷に残されていた書庫の本を何冊も、執事やメイドに出させて何かを聞いていた。
困惑のアリッサが、その場に入ろうとすると、彼は彼女に拒絶を向けた。
「入って来るんじゃねぇ。○△※※□・・・」
言葉の全ては、アリッサには分からなかった。ただ、この屋敷で、いや、初めてヴォルグが彼女に向けたものだった。
「怒鳴って……悪い。……続けて、くれ。お前達……」
扉の外でアリッサが聞いたヴォルグの謝罪は、アリッサに向けられたものではなかった。
その時のヴォルグが、何をしていたかは分からない。しかし、それがもたらした光景は、彼女の瞳の奥にしっかりと残っていた……。
魔王の力が増して僅かな刻だったが、玉座の間に並ぶ魔族の列は、人の身としては耐え難い感じだった。そして、アリッサは、フリーダの声を聞きその中に一人小さくなっていた。
それも含めて、その場の雰囲気に声どころか顔を上げる事も出来ず、アリッサの小刻みに震える体に心が悲鳴を上げそうになった。
そんな孤独と絶望を感じた空間と瞬間に、それは起こる。
序列だと思うその並びの、上座に位置していた彼。ヴォルグの足の運びを感じて、動かない体でアリッサは、ヴォルグの動きを探ろうとしていた。
それは、ゆっくりと。そして、明確に自分に近付いてくる。その足取りに、体の震えが軽くなるのをアリッサが感じた頃。彼は……黒銀のヴォルグは、彼女自身の前に立っていた。
「魔王陛下」
その声を聞いて、アリッサは心が少し軽くなるのを感じる。
ただ、ヴォルグの行いは、その場を緊張に包むには十分だったと言える。フリーダとヴォルグの関係は周知だが、それを踏まえても有り得ない。
また、単純にあの出来事の後で、それが許容出来ぬものであるのは、その場にいた者の大方の認識であったのだろう。
ただ、その声は強者に対する敬意を表しており、堂々と行われたヴォルグの行動は、その場の者に声を発する事を許さなかった。
本来、彼の上位者で、簡単に言えば主人であるフリーダを見もせずに、魔王を見つめるヴォルグの目の奥の決意に、彼女すら声を出せなかった。
「名を授けし者、黒銀のヴォルグよ。魔王である我に何用だ?」
「……魔王、オルゼクス様。 ……突然の非礼……御詫びいたします」
魔王の声に、ヴォルグはゆっくりと答えた。魔王がその気なら……前にもあった様な光景を、フリーダは見る事になっていた。そして、ヴォルグの行いを何とか理解した彼女が、魔王の顔を見つめていく。
「重ねての非礼を……御許し、頂きたく。発言を……願います」
「堅苦しい言は良い。なんだ?」
魔王の声に、ヴォルグは大きく息を吐く。そのまま、吐いた息を再び吸う様な勢いで深呼吸をした。
「魔王……約定を貰いたく……で、無くて褒美を」
「褒美?」
吐いた勢いで、出されたヴォルグの言葉に魔王は聞き返していた。
ヴォルグの言葉について考えて、怪訝な顔の魔王は、自身の記憶片隅それがあったのを思い出す。
そして、ヴォルグの顔を見てその後ろ側に意識を向けていた。
――なるほど。奴の女か?
あの刻の前のどうでも良い事の流れに、フリーダの声を聞いていた。
目の前の女がその時に、ヴォルグが俺の女だと言っていた事に気が付いて「はい」と答えるヴォルグに魔王は意識を戻していた。
「思い出した。確かに言ったな。それで、その女の助命を我に願うか」
「絶対の……強者。……魔王の約束を果たす事を。で、願います」
ヴォルグの言動は特段、魔王にとってどうとではなかったが、普段と違うそれに若干の興味を持った。そして、それをヴォルグに向ける。
「良かろう。と言いたいところだか、我が妻を傷つけた罪は重いぞ」
「フリーダ様の命は……助けたと思います」
そのヴォルグの言葉に、魔王の隣に立つフリーダの視線が魔王に刺さっていた。それに気が付いた魔王はフリーダの顔を見て、何が言いたいのか理解はしていた。
「確かにな。その対価と褒美がその女か?」
「はい、その通りです」
ヴォルグの微かな安堵の様子に、魔王は何かを考えて、彼に詰める様を見せる。
「その女に、それほどの価値が有るとは思えんが、非礼なこの所業の対価を、お前が払うなら考えてやらんでもないぞ」
その言葉の後に、魔王は人差し指をヴォルグに向けて突き出した。その動きに、ヴォルグの安堵は消し飛んだ。……そんな雰囲気がその場に出来ていた。
「その女の大きさなら、一本で良かろう。どうた黒銀の?」
地に顔を伏せるアリッサには、何が起きているか分からないが、少なくないヴォルグの動揺は伝わっていた。
その指が『魔神の爪痕』であるのをヴォルグは認識し、魔王の意図を一瞬で理解した。それは、魔神の爪痕をアリッサの体に刻む――生殺与奪は魔王の意――と魔王は言っているのだと……
――守るんだろ? 俺が。誰でもない俺が。
時間にしては、ほんの僅かな自問自答をヴォルグはしたのだろう。続けられた原動には覚悟が乗っていた。
「魔王でも、それは許せねぇ。で、いくら強い魔王でも、オルゼクス様でも。で、出来ねぇ。自分の女が、他の男の手付きなんてのは、で、許せるわけねぇ」
ヴォルグの言葉に、絶望的な表情を浮かべたのはフリーダだった。従属者の人狼の中で、ヴォルグは彼女にとって特別であった。
彼が自身を何で在るのか、まだ知らぬ頃からフリーダの側にいた。ある意味、子を成せぬ彼女にとってそれと同義と言える存在であった。
――信のおけるバーラルを失い。ヴォルグまでも……そんな風に育てた覚えはないぞ。馬鹿者。
彼女の心の声は、魔王の言葉によって遮られる。
「では、どうする? 黒銀。魔族の法に従うか?」
ヴァンダリアと名乗ったそれが使った言葉であるが、魔王は敢えてそう言った。
「それなら。で、ヤるしかねぇ」
「黒銀のヴォルグ……我に勝てると思うのか?」
「そう言う問題じゃねぇ」
そのやり取りで、魔王自身の魔力が高まるのがその場にいた魔族達にも感じられて、場の雰囲気が変わるのがオルゼクスにも分かった。
――力でねじ伏せる。それこそが我だ……だが。
魔王の視線には擬態のままだが、魔王次第で即応の構えを見せるヴォルグの姿があった。
また、魔王自身の腕には先程から、フリーダの白く美しさを戻していた震える手が、掛かっていた。その様子にオルゼクスは、思い直した様に背中を、預けている椅子に重さをかけた。
そして、ヴォルグに声を掛けようとした時に、彼の目の前の光景に言葉をと止めた。
それは、ヴォルグ自身が自覚している、無謀なそれを押し止めようとアリッサが、ヴォルグの腰に手を回して抱きついていた。その光景にであった。
魔王の前で、交わされるその二人の会話は魔王の意識の中には入って来なかった。それとは無関係に、震えるフリーダの手に自ら手を重ねて、それを止める様に意を込めていた。
そのまま彼は、ヴォルグ達に魔王らしくない言葉を告げる。
「戯れ言だ。……牙を剥く相手が違うぞ。それに、その女はまだお前のものではない筈だ」
何故か鎮静化した魔王の雰囲気に、ヴォルグは勿論、アリッサも周りもある種の驚きを持って、魔王に視線を集めていた。
「その女の責は問わぬ。勿論、お前もだ」
続けて言葉を発して、徐に立ち上がりフリーダに向けて「今宵は、我と共に」と告げて、その場を立ち去っていった。
そして、これがアリッサが「あの時の事」と思った光景の全容であった……
「……ビアンカ。お願い」
アリッサの声が向けられたのは、ヴォルグの屋敷の庭に集まっていた人狼の一人である。彼女はアリッサと同年代の人狼だった。
「ヴォルグ。ちゃんと見て。嗅いで? かな、 じゃなくて、どっちでも良いけど。彼女にやってもらうから流動を感じてね」
「おう」と答えたヴォルグが何かを嗅ぐ仕草をしてビアンカを見たが、突然声を出した。
「あの野郎。……また来やがった。で、この前来たばっかだぞ」
ヴォルグの声が終わると同時に、魔力の流れがその場に起きて、中空に魔方陣が水平に展開して――それが緩やかに地面に降りる。
それと同時に、その魔方陣の中心に黒色の仮面をつけた男が現れた。
「よう。お疲れ」
その男は軽く手を上げながら、その場に挨拶をした。それを見たアリッサが、笑顔を向けていた。
「クローゼ。今度は早かったね」
「いや。久しぶりだろ」
「三日前にも来ただろ。で、殺すぞてめぇ」
「おう。受けてた~つ!」
「やめなさい二人とも。怒るよ」
アリッサに怒られて、「うっ」となる二人をその場の人狼達は呆れた顔をして見ていた。