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 碧はことのいない賽銭箱の隣に腰掛けて、夜の空を見上げていた。まだ雪は止む気配が無く、もう随分と積もって待ち惚けた碧の足跡さえ、とっくに消してしまった。


 ことに自分のことを話すと約束をしたのに。ことのために、霜焼けに効くと人が話していた薬草も、取ってきたのに。


 一体どうしたのだろう。


 いつからか。ことがいない間も、碧はことのことばかり気にかけていた。人であれば杜の外へことを探しにいけるのに。しかし、それは社の外に立つ鳥居が碧を阻んだ。鳥居は妖のこちらと人のあちらを隔てる門のようなもの。妖力の少ない碧には、鳥居を潜ることが出来なかった。


 不意に強い風が吹いて、碧の黒い髪を揺らす。途端、ざわざわと急に杜が騒がしくなる。ただならぬ気配を感じて、碧は暗い杜の中に目を向けた。そして、視線の先に捉えた動く靄のようなモノ。その身体は長寿の木のように大きく、放つ空気も重い。この杜で一、二の妖力を持つ妖だ。


 その妖の手にちらりと、赤い物が見えた気がした。


「あれは」


 見間違うはずが無い。ことがいつも着ていたあの赤だ。


 碧は考えるよりも先に駆け寄り、待てと叫ぶ。振り返った妖の赤く縁取られた目が、ぎょろりと動く。長い爪の隙間から覗くことは、ぐったりとしている。


「何だ? 人……ではないな」


 稀有なものを厭うように、じろりと碧を見やったその妖は、やがて興味を失って碧の隣を過ぎようとした。その行く先に、碧は立ちはだかる。


「行かせない、その子を置いていけ」

「小僧。これはわしの獲物じゃ」


 妖の声に、わっと木々が震え、近くで形を潜めていた小さな妖たちが散っていく。それでも、碧は少しも怯みはせず、自分よりもうんと大きな異形のモノを仰ぎ、云う。


「お願いだ。ことを返してくれ」


 ふん、と大妖は鼻で笑って碧にぬっと顔を近づけた。剥き出しにされた歯は、碧の身体など一瞬で噛み砕いてしまわんばかりにぎらついていた。ぐっと手に力を込めて、相手の妖力に負けないようにと踏ん張る。


「小僧、お前は知らんだろうが。この娘は、愛してくれるもんもおらん哀れな娘じゃ。消えたいと願っておった。だからわしが喰ってやるのじゃ」

「そんなことさせない!」


 ちりん、と碧の耳元で鳴った鈴の音。


「はん! なるほどな。人に焦がれとる馬鹿な妖とは、お前のことだったんじゃな。妖は妖。人にはなれん。弱く、愚かで。付け込む隙だらけの人に憧れるとは、お前も哀れな奴じゃ。……それ以上ほざくのならば、お前も喰うぞ」

「喰ってもいい。俺は喰ってもいいから、ことを返せ」

「下らない」


 吐き捨てるように言った大妖の目が細められ、あっという間にぐわりと目の前に闇より暗い大口が迫る。その瞬間、碧からぱっと光が飛んで一瞬世界が真っ白になる。じっと焼けるように胸が痛んだ。しかし、その光に怯んだ妖の手からことが転げ落ちた。轟々と杜のざわめきのように喚く大妖の声に、びりびりと空気が鳴る。


「碧……?」


 その反動で気を失っていたことが目を覚まし、掠れた声で碧の名を呼んだ。碧は、訳も分からずへたり込んでいることの手を、いつかのように引き上げる。触れてはいないはずなのに、何処からか力が湧いてくるような不思議な感覚だった。


「行こう!」


 言葉より先に、碧は走り出す。立ち上がったばかりのことは、ふらつく足で何とか付いていく。


「低級のお前がそんなに妖力を使えば、消えちまうだろうに。人など腐るほどいるに、なぜわしの獲物を。興ざめじゃ、喰ってやる……喰ってやる!」


 喚き散らす大妖の声に、やっと状況を飲み込んだことは、はっとして手を引く碧を見上げた。


「碧、どうして? 碧が消えてしまうなんて私は嫌! やっと、やっと本当に私を見てくれる人に会えたのに!」


 横を走る碧は、少し驚いたような顔をして。それからふっと笑った。


「そうか、俺はその人になれたんだな」


 一つ目の鳥居を過ぎた。杜をぬけたら……きっと。何かを云わなければと思うのに、出てくるのは自分を責める気持ちばかりだった。ことは、ただ再び泣きそうになるのを堪えた。


「なぁ、こと」


 ことの名を呼ぶのは、優しい碧の声。あぁ、染み入るような優しい声だ。ふっと冷え切っていた心が温くなる。


「ことは本当に誰にも愛されなかったのか?」


 二つ目の鳥居を過ぎて、ことは確かめるように、ぎゅっとそこにあるはずの手を強く握った。気のせいか、心なしに碧の手が温かい気がする。


「分からない。……唯一の家族だった母さんが死んだの。もう訊くことも出来ない」


 ことが答え、三つ目の鳥居を過ぎたとき。ことの手の中にあった、ほんの僅かばかりな感触が失われて、ことの手は宙を彷徨った。視線を落とせば、人肌に触れた雪のように、碧の指先がじわりじわりと欠けていた。


「碧?」


 当人は驚く素振りも見せず、困ったように笑って、まるで語りかけるように言った。


「まだ、ことの質問に答えてなかったな」

「そんなこともう、いいよ。お願いだから私を一人にしないで」


 そうは言っても、いつあの大妖に追いつかれるか分からないから、足を止めることもできず、ただ碧の言葉の続きを待つことしかできなかった。


「こと、俺が人の姿をしているのは、人が好きだからだ。誰かのために祈ったり、些細なことで怒ったり。笑ったり泣いたりと忙しない。だから人は面白い。そして、とても温かい。形だけでも真似てみたかった」


 あぁ、だから。さっき貴方は、あんなに嬉しそうな顔をして私に笑ったのね。


 碧を引き止める術の無いことは、彼の言葉を声をその姿だけでもせめて、と。しっかり心に引き止める。


 そうする間、鳥居を潜る度にも。碧の姿はどんどん視えなくなって。縋るように、碧の藍染めの着物を掴んだ。


 風が強まり、咆哮も近い。最後の鳥居を潜る前に、碧はやっと立ち止まって、ことと向かい合った。


「杜をぬければ妖力はいくらかは弱まるし、妖は人の弱いところにしか手を出せない。ことが、付け入る隙を見せさえしなければ、大丈夫だから。生きてるものは強い。生きることはとても強いことなんだ。だから、しっかりと生きて、こと」


 頷きながら気がつけば、ことはまた泣いていた。


 すると、碧はまるで人のするように、整った眉を下げる。不意に碧の顔が近づき、とんっと額に確かに触れたのは、紛うことない温かさ。睫毛が触れるか触れないかの距離で、碧は宥めるように云った。


「確かに妖は妖力を失うと消えてしまう。でも完全に、無くなってしまう訳じゃない。それは、人——ことの母親もそうだ。思い出してくれるモノの中でなら、いつまでだって生き続けられる」


 離れていくぬくもり。辛うじて姿を保っていた碧も、ことの背を杜から押し出した瞬間安堵したのか、手のひらに落ちた雪のように呆気なく形を失っていく。


「だから忘れるな、こと。俺はお前を愛したモノだ」


 碧の前だと、自然と笑顔になれた。この時もそうで良かった。


「あり、がとう……碧」


 最後の一片が溶けた後、ちりんと音を立てて転がった古びた鈴。結わえられたあおの紐ごと拾い上げて、ことは自分の胸にそっと充てる。立ち尽くしたことの耳元で聞こえた舌打ちも、優しい鈴の音が消してくれた。


*・*・*


 冬は長い。


 杜をぬけた先に待つまっさらな白のように、今なおも降り続ける雪が、いつかは杜を駆けてきた二人の足跡も埋めてしまう。けれど、この愛しいぬくもりは。どれほど雪が積もろうと、たとえ春がこようとも。決して消えてなくなってしまうことはないでしょう。


 ずっと私の胸で生き続けるのだから。

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