肆
碧はことのいない賽銭箱の隣に腰掛けて、夜の空を見上げていた。まだ雪は止む気配が無く、もう随分と積もって待ち惚けた碧の足跡さえ、とっくに消してしまった。
ことに自分のことを話すと約束をしたのに。ことのために、霜焼けに効くと人が話していた薬草も、取ってきたのに。
一体どうしたのだろう。
いつからか。ことがいない間も、碧はことのことばかり気にかけていた。人であれば杜の外へことを探しにいけるのに。しかし、それは社の外に立つ鳥居が碧を阻んだ。鳥居は妖のこちらと人のあちらを隔てる門のようなもの。妖力の少ない碧には、鳥居を潜ることが出来なかった。
不意に強い風が吹いて、碧の黒い髪を揺らす。途端、ざわざわと急に杜が騒がしくなる。ただならぬ気配を感じて、碧は暗い杜の中に目を向けた。そして、視線の先に捉えた動く靄のようなモノ。その身体は長寿の木のように大きく、放つ空気も重い。この杜で一、二の妖力を持つ妖だ。
その妖の手にちらりと、赤い物が見えた気がした。
「あれは」
見間違うはずが無い。ことがいつも着ていたあの赤だ。
碧は考えるよりも先に駆け寄り、待てと叫ぶ。振り返った妖の赤く縁取られた目が、ぎょろりと動く。長い爪の隙間から覗くことは、ぐったりとしている。
「何だ? 人……ではないな」
稀有なものを厭うように、じろりと碧を見やったその妖は、やがて興味を失って碧の隣を過ぎようとした。その行く先に、碧は立ちはだかる。
「行かせない、その子を置いていけ」
「小僧。これはわしの獲物じゃ」
妖の声に、わっと木々が震え、近くで形を潜めていた小さな妖たちが散っていく。それでも、碧は少しも怯みはせず、自分よりもうんと大きな異形のモノを仰ぎ、云う。
「お願いだ。ことを返してくれ」
ふん、と大妖は鼻で笑って碧にぬっと顔を近づけた。剥き出しにされた歯は、碧の身体など一瞬で噛み砕いてしまわんばかりにぎらついていた。ぐっと手に力を込めて、相手の妖力に負けないようにと踏ん張る。
「小僧、お前は知らんだろうが。この娘は、愛してくれるもんもおらん哀れな娘じゃ。消えたいと願っておった。だからわしが喰ってやるのじゃ」
「そんなことさせない!」
ちりん、と碧の耳元で鳴った鈴の音。
「はん! なるほどな。人に焦がれとる馬鹿な妖とは、お前のことだったんじゃな。妖は妖。人にはなれん。弱く、愚かで。付け込む隙だらけの人に憧れるとは、お前も哀れな奴じゃ。……それ以上ほざくのならば、お前も喰うぞ」
「喰ってもいい。俺は喰ってもいいから、ことを返せ」
「下らない」
吐き捨てるように言った大妖の目が細められ、あっという間にぐわりと目の前に闇より暗い大口が迫る。その瞬間、碧からぱっと光が飛んで一瞬世界が真っ白になる。じっと焼けるように胸が痛んだ。しかし、その光に怯んだ妖の手からことが転げ落ちた。轟々と杜のざわめきのように喚く大妖の声に、びりびりと空気が鳴る。
「碧……?」
その反動で気を失っていたことが目を覚まし、掠れた声で碧の名を呼んだ。碧は、訳も分からずへたり込んでいることの手を、いつかのように引き上げる。触れてはいないはずなのに、何処からか力が湧いてくるような不思議な感覚だった。
「行こう!」
言葉より先に、碧は走り出す。立ち上がったばかりのことは、ふらつく足で何とか付いていく。
「低級のお前がそんなに妖力を使えば、消えちまうだろうに。人など腐るほどいるに、なぜわしの獲物を。興ざめじゃ、喰ってやる……喰ってやる!」
喚き散らす大妖の声に、やっと状況を飲み込んだことは、はっとして手を引く碧を見上げた。
「碧、どうして? 碧が消えてしまうなんて私は嫌! やっと、やっと本当に私を見てくれる人に会えたのに!」
横を走る碧は、少し驚いたような顔をして。それからふっと笑った。
「そうか、俺はその人になれたんだな」
一つ目の鳥居を過ぎた。杜をぬけたら……きっと。何かを云わなければと思うのに、出てくるのは自分を責める気持ちばかりだった。ことは、ただ再び泣きそうになるのを堪えた。
「なぁ、こと」
ことの名を呼ぶのは、優しい碧の声。あぁ、染み入るような優しい声だ。ふっと冷え切っていた心が温くなる。
「ことは本当に誰にも愛されなかったのか?」
二つ目の鳥居を過ぎて、ことは確かめるように、ぎゅっとそこにあるはずの手を強く握った。気のせいか、心なしに碧の手が温かい気がする。
「分からない。……唯一の家族だった母さんが死んだの。もう訊くことも出来ない」
ことが答え、三つ目の鳥居を過ぎたとき。ことの手の中にあった、ほんの僅かばかりな感触が失われて、ことの手は宙を彷徨った。視線を落とせば、人肌に触れた雪のように、碧の指先がじわりじわりと欠けていた。
「碧?」
当人は驚く素振りも見せず、困ったように笑って、まるで語りかけるように言った。
「まだ、ことの質問に答えてなかったな」
「そんなこともう、いいよ。お願いだから私を一人にしないで」
そうは言っても、いつあの大妖に追いつかれるか分からないから、足を止めることもできず、ただ碧の言葉の続きを待つことしかできなかった。
「こと、俺が人の姿をしているのは、人が好きだからだ。誰かのために祈ったり、些細なことで怒ったり。笑ったり泣いたりと忙しない。だから人は面白い。そして、とても温かい。形だけでも真似てみたかった」
あぁ、だから。さっき貴方は、あんなに嬉しそうな顔をして私に笑ったのね。
碧を引き止める術の無いことは、彼の言葉を声をその姿だけでもせめて、と。しっかり心に引き止める。
そうする間、鳥居を潜る度にも。碧の姿はどんどん視えなくなって。縋るように、碧の藍染めの着物を掴んだ。
風が強まり、咆哮も近い。最後の鳥居を潜る前に、碧はやっと立ち止まって、ことと向かい合った。
「杜をぬければ妖力はいくらかは弱まるし、妖は人の弱いところにしか手を出せない。ことが、付け入る隙を見せさえしなければ、大丈夫だから。生きてるものは強い。生きることはとても強いことなんだ。だから、しっかりと生きて、こと」
頷きながら気がつけば、ことはまた泣いていた。
すると、碧はまるで人のするように、整った眉を下げる。不意に碧の顔が近づき、とんっと額に確かに触れたのは、紛うことない温かさ。睫毛が触れるか触れないかの距離で、碧は宥めるように云った。
「確かに妖は妖力を失うと消えてしまう。でも完全に、無くなってしまう訳じゃない。それは、人——ことの母親もそうだ。思い出してくれるモノの中でなら、いつまでだって生き続けられる」
離れていくぬくもり。辛うじて姿を保っていた碧も、ことの背を杜から押し出した瞬間安堵したのか、手のひらに落ちた雪のように呆気なく形を失っていく。
「だから忘れるな、こと。俺はお前を愛したモノだ」
碧の前だと、自然と笑顔になれた。この時もそうで良かった。
「あり、がとう……碧」
最後の一片が溶けた後、ちりんと音を立てて転がった古びた鈴。結わえられた碧の紐ごと拾い上げて、ことは自分の胸にそっと充てる。立ち尽くしたことの耳元で聞こえた舌打ちも、優しい鈴の音が消してくれた。
*・*・*
冬は長い。
杜をぬけた先に待つまっさらな白のように、今なおも降り続ける雪が、いつかは杜を駆けてきた二人の足跡も埋めてしまう。けれど、この愛しいぬくもりは。どれほど雪が積もろうと、たとえ春がこようとも。決して消えてなくなってしまうことはないでしょう。
ずっと私の胸で生き続けるのだから。




