参
出会ったばかりの藍染めの着物を着た妖を、最近よく夢に見る。
名を碧と云うらしい。飄々としていて、どこかつかみ所の無い妖だ。人の姿を真似ていると碧は言っていたが、本当に人のようだから、ことは時々。碧が妖だということをうっかり忘れてしまいそうになる。
妖、と単に言っても色々だ。ことを喰おうと襲った妖のように恐ろしいものもいれば、何もせずに漂うもの、ことの視線から逃れるように姿を消すようなもの。これまでにたくさんの妖を見てきた。碧は、人を真似たその姿だけでなく、他の妖たちのどれとも違うように、ことの目には映った。
ことの生まれた村では、時々村人が不意に惚けたようにになることがある。それを村人たちは、化け物憑きと呼び、恐れていた。ことの母親はまさにそれであった。父親の顔も知らず、兄弟もいない娘のことは、母の世話を一人で全部やっていた。
村人たちはというと、皆知らぬ顔。すれ違ってもことと目も合わそうともしない。まだ幼い子どもの母親たちが我が子たちに、ことと口をきけば「化け物に喰われる」と嗜めるのも聞いた。同じ家に住んでいる母も、一日中ぼんやりと空を見上げるばかり。濁ったように虚ろな母の目に、やはりことが映ることはない。
まだ、ことが三つの頃。何かから逃げている様子の母が、突然ぱたりと倒れた後、こんな風になってしまったのだ、と村人が話しているのを、偶然ことは聞いた。だから母が化け物に憑かれたのではなく、妖に喰われたのだと気付いた。妖に喰われるとは、即ち魂を持っていかれるということなのだとも、幼心に悟ったことを覚えている。
幼い頃から不可思議な行動を取る質があったと云う母。きっと、ことと同じように妖が視えたのだろう。
それでも静かに暮らしていけているだけ。腫れ物に触れるようにでも、そっとしておいてもらえるだけ、ことはましだった。
……でも。
「ご覧。あの化け物憑き、まだ生きていたんだね」
くすくすと忍ぶような嘲笑。自分がここで生きていくために、唇を噛んで堪えることの気持ちなど、きっと村人たちには分からない。自分のことならば、言い返せるからまだいい。でも、ことの母は自分がどんなに哀れまれ、蔑まれても。自分の口で言い返すことすらできないのだ。母が侮辱されている目の前でそれを耐えるしかない、それがひどく歯がゆかった。違うと叫びたかった。
しかし、この村から追われることになったらということを考えると、恐ろしくて出来なかった。ことの身一つで母と自分とを養わねばならないのだ。酷く惨めな思いをしようとも、ここにはまだ、寒さ暑さや雨風ををいくらか凌げる家がある。
それでも小さなことの背中に全部を背負い込むのには、苦しすぎた。桶を落っことして、汲んで来た水をぶちまけたとき。宙を見つめたままの母を置いて、足の向くまま杜へと走ったのは、何もかもが嫌になったから。この季節に浴びた水は、それはもう、身を切るほどに痛かった。痛みに耐えかねて、全てを終いにしようと思ったのに、死ぬほどの勇気はことになかった。ただもう悲しくて悲しくて、独り寒さに震えて。そこで、初めて碧と出会ったのだ。
物心ついてから初めて、自分を見てくれた碧に。
*・*・*
碧が触れた。冷えてかじかんだ手には、何の感触も無かったが、ほっと心が温かくなった気がした。切れ長で綺麗な碧の目を思い出すと、何だかくすぐったい。だから、いつもは立ち止まって手を振るのだけど、その日は振り返れなかった。耳まで赤くなってしまったのは、きっと寒さのせいだけじゃない。
一気に七本の鳥居を潜って、ことは杜を出た。草履に入った小石が足を刺したが、対して気にならなかった。切れた息で、ことの前はもうもうと白くなる。今まで自分の中で抱えてきたものを吐き出したせいか、心が軽い。ふと笑みがこぼれた。
明日も杜に行くのが楽しみだ。
そんなことを考えながら、ことは人気の無い自分の家路を小走りに行く。
「ただいま」
薄暗い家の中に声をかけたが、返事など無い。後ろ手で立て付けの悪い扉を閉めると、少し寒さが和らいだ。代わりに、ずんと部屋が暗くなる。寒い寒い。手を擦りながら土間を上がったことは立ち尽くす。
敷きっぱなしの布団の上に、母が倒れていた。そこでぼうっと天井を仰いでいるはずの母が。暗いせいか、母の顔は土の色のように見える。震える足で母の元へ駆け寄ると、ことは母の肩を抱き起こす。
「眠っているだけよね? ね?」
返事が無いのはいつものことなのに、嫌な胸騒ぎが止まない。母の頬が冷やっこいのは、自分が外にいたからだろうか。そっと耳を母の口元に寄せる。その瞬間、現実を知ったことに、言いようの無い悲しさが迫った。
嗚呼、とうとう独りになってしまった。
身体中の力が抜けて、母の頭を抱いたままことは、しめっぽい布団に倒れ込んだ。堰を切ったように涙がこみ上げて来る。碧に会ってからは、一度も流さなかったのに。仕舞っておけたはずだったのに。
魂を喰われて、屍のように生きた母。やっと自由になれたのだ。ここずっと、あまり食事を口にしてくれなかった。夜も寝ている方が少なかった。母の身体が直、壊れてしまうのは、分かりきっていたことなのに。やはり、受け入れられない気持ちがあった。それでも、母の亡骸をそのままにしておくわけにはいかなかった。ゆらりとことは立ち上がり、母を抱える。ぐったりと、ただ支えられるだけの母のその身体は、ことが一人で背負うのに十分過ぎるくらい軽かった。
全てを片付けてしまった後で、ことはまた泣いた。気付けばいつも杜へ行く頃合いになっていたが、ことに立ち上がる元気はもはや幾ばくも残っていなかった。母が埋まった冷たい土の上で、いつかのように膝を抱える。
もう、何もかもがどうでもよかった。空っぽの心へと寒さは無遠慮に踏み込んでくるから、心は防ぎようもなく冷え切っていく。
「あぁ、どうして母さん。どうして、私をひとりにしたの? いっそ、いっそ私も連れてってくれれば良かったのに」
行き場のない感情はこんこんと湧き出て、嗚咽となって、ことの頬を濡らした。こんな状態になっても、誰一人として、まだ若いことの身を案じて声を掛けてくれる者はない。あまりにも虚しすぎるではないか。
「……寂しいのか、娘」
そんな日だったから。普段であれば無視できる無機質な声につい、ことは答えてしまった。
「えぇ、とても」
「ならばわしが、お前をもらってやろう」
その誰とも分からない低い声を境に、ぷつんとことの意識は途切れた。




