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 ことは決まって、羊刻ひつじのこくを過ぎた頃に杜へとやって来て、日が暮れる前には帰って行く。

 いつも同じ赤の粗末な着物と履き古した草履を身につけて、手を擦りながら、鼻を赤くしたことは、碧に今日も寒いねと笑う。


 たったそれだけのことが、碧にはとても温かかった。人の云う寒さ温かさは感じなくとも、気持ちが温かいとそれだけで嬉しいのだと、初めて知った。

 気がつけば、杜も一日中雲がたれ込んでは雪を降らせるような、本格的な冬になっていた。昨日の夜からずっと降り続いていた雪が、朝にはもう足首を隠せるくらいに積もっている。


「どうして碧は、そんな姿をしているの?」


 例のように神社に来たことは、賽銭箱の隣に座り込んで碧を見上げた。


「どうしてことは俺を怖がらないんだ?」

「答えになってないじゃん、それ」


 ぷぅっと頬を膨らませ、ことはつまらなそうに言う。そして、はぁっと真っ白な息を吐き出した。


「私が答えたら、今度は碧が答える番だからね?」


 うんともいいやとも言わず、ただ碧はことの言葉を待った。ことはすんすんと鼻をすすって、膝を抱え直す。


「私は、小さい頃から妖が見えていたの。覚えているのは、物心ついた時からだけど、それよりも前からかもしれない。変な形をしてるものが多かったから、初めは怖かったけど、今となっては、私にとってそれが当たり前になっちゃって。変わった隣人さんぐらいにしか思ってないよ」

「襲われたりしなかったのか?」

「あったよ。たまに、ね」


 僅かばかり目を伏せて、ことは表情を曇らせた。そんな彼女の顔を見るのが何だか申し訳なくて、碧は視線を落とす。裾から覗く彼女の足先が今日も今日とて真っ赤で、痛々しい。今度、霜焼けに効く薬草を贈ろうと、碧は密かに心に決めた。


「でも、助けてって言ったところで他の人には視えないから。本当に怖い目にもあったけど、私以外の誰にもソイツが視えなかったから。騒げば、皆私が可笑しいんじゃないかって。何かに憑かれてるんじゃないかって言うから。だから、自分で何とかしなきゃって」


 彼女が口を開く度に、言葉が白く染まっていく。冷えきった空気に、その言葉の一つ一つがいつまでも残っているような、そんな気さえした。


「だから一時期は視ないようにしてた。なるべく外に出ないようにして、外の世界に目を塞いで。だけど、そんなことしたって周りは私を分かってはくれなかった。変な奴だとしか思わなかったみたい。いつしか、もうどうでもよくなっちゃってさ」


 自嘲するような笑みを含んだことに、碧はどんな顔をすればよいか分からずに、ただひたすら彼女の複雑な笑顔を見つめた。人は、人ならどういう言葉をかけるのだろうか。当然、妖の碧にはわかりっこない問答だ。


「いっそ、妖に喰われちゃえばいいやって思うようになってた」


 それは、冬の空気よりも、ずっしりと重い呟きだった。これまでの、ことの苦しみや不安や……そんな如何にも人間らしい、複雑で渦のような感情を目の当たりにして、頬に触れる空気が、急に肌を切り裂かんばかりに冷たいものに感じられる。感じるはずのない寒さに、思わず碧は身を震わせた。


 あぁ、これが寒いというものなんだな、と思う。何と痛く寂しいものなのだろう。


 妖である自分が無闇に触れれば、人の子であることを傷つけてしまいそうに思えた。碧はゆっくりと膝を折り、ことに目線を合わせた。それでも。


「寒いな、こと。ここはひどく寒い」

「え? う、うん」


 若い少女のものとは思えないほどに、よく働いていることが一目で分かることの手。それを碧は取る。驚いて目を瞬かせることの手を碧は自らの白い手でそっと包むようにする。妖が触れても、人がそれに気付くことは滅多にない。それも、人と妖の住む世界が違う場所である故。でも、意味がない行為ことではないという確信が、ことと出会った碧にはあった。


「ことは温かいんだな」

「……碧って変な妖ね」

「よく言われる」


 大真面目な碧の返事に、ことは頬を緩ませる。碧の気に入りのことの笑顔だ。


 また、ちりんと鈴の音が聞こえたような気がした。


 立ち上がった碧の手に引かれるようにして、腰を上げたことは、ほんの少し気恥ずかしげに笑い、着物に付いた埃を払った。


「今日は私、もう帰るね。明日は碧が話をする番だよ、絶対よ」


 じゃあね。手を振りながら去って行くことの背を、碧はいつものように見えなくなるまで見送った。いつもは途中で立ち止まり、振り返ることが、一気に走っていってしまったのはこれが初めてだった。


 雪に残ったことの小さな足跡をいつまでもいつまでも、雪が覆い隠してしまうその時まで。碧はひとり、見送った。


 その次の日、いつもの時間にことは杜へやって来なかった。


 もしかするといつもよりも遅くなるのだろうか。そう思って待ってはみたが、結局その日一日碧はただひたすらに、神社の前でしんしんと降る雪ばかりを迎えていた。

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