壱
以前、別名で投稿していた時の作品を少し修正して再投稿しています。
杜をぬけたら、伝えようと思う。
ことが、もうあんな悲しい顔をしなくていいように。
*・*・*
「碧」
いつもするように杜の中を宛ても無くただ、ぶらりぶらりと歩いていたときだった。つと名前を呼ばれた碧は歩みを止める。名を呼んだ者を振り返れば、草影からこちらをじっと覗く一つの目。その姿は茂みの高さほどしか無く、全身が影のように黒々としている。
「まだお前は、そんなちんちくりんな姿をしているのか」
一つ目は、その手のひらほどもある大きな目をこちらに向けて、真っ赤な口で笑った。少しむっとして、顔を背けた碧の視界に映った黒の髪。それは、人の姿を真似た碧のものであった。そして今し方、目の前にいる妖が嗤ったのは、碧のこの姿である。
何を隠そう、この碧も、姿は人形をしているとは言えど、一つ目と同じ妖なのだ。
ここは妖たちの息づく杜。ひそひそと囁きあい、行き交う者たちは、人からすれば異形の者ばかり。杜の奥ともなれば人など滅多に来ない。隙あらば時たま迷い込んでくる人を喰わんとする、そういう輩が済む場所だから。妖ものたちにとってみれば、人は非力で愚かなーー旨い、生き物でしかないのだ。そんな物の姿を真似るのは、真っ当な妖にしてみれば滑稽極まりないと、そういうわけである。
「そんなの俺の勝手だろ」
ぽそりと言い返した碧を、一つ目はからからと独特な嗤い声で揶揄った。
「人なんかのどこがいいのかね」
ずるずると太い身体を引きずるようにして、一つ目は茂みの向こうへと姿を消す。その後ろ姿に言い返すことも出来ず、ほう。とただ息を吐いて、碧は顔を上げた。
冬の吐息は白き。ふわりと上へ立ち登って行く。その先に揺らぐ、木の葉の隙間から見える空は高く、青い。
すっと手を空に向けて伸ばし、碧は宙を掴むように握りしめてみた。
「……人とは、面白い生き物だ」
呟いた言葉は、真っすぐに碧の胸に落ちて来る。百年、それよりも前からずっと思っていた。
面白い生き物だ、人は。
もう一度心の内で呟いた碧は、再び杜の道を行く。近くの村と杜を繋ぐ七本の鳥居の先にある小さな神社。特にすることがないとき、そこへ碧はよく足を運んでいた。
碧が知る限り、ここには神様などいないのだが、信仰深い村人がたまにこの神社へとやって来る。今はこうして人の訪れも少ない寂れた神社だ。しかし、毎年秋には質素ながらもこの小さな神社は祭で賑わい、小さな神輿や幾らか屋台も出て、お囃子も聞こえる。そこへ来る人たちを見るのが、碧の楽しみの一つでもあった。来る日も来る日も杜の中に閉じこもっているから、時には退屈もする、そんな時の暇つぶしに人を眺めているのだ。
妖力の強い妖たちは、杜の外へ出たり、もっと自由に動き回っているようだが、生憎碧が持つ妖力は微々たるものだった。かれこれ百余年杜の中を飽きること無く見て回り、こうして細々と生きているだけ。それでも日々杜を歩いていると、新たな発見がある。御陰で、杜の中のことには随分と詳しくなれた。
社に辿り着いた碧はいつものように、賽銭箱の隣に腰掛けようとして、はたと固まってしまう。いつもは開いているはずのそこに、既に先客がいたのだ。膝を抱え、俯いているせいでその顔は分からないが、肩にかかる艶やかな髪を見るに、年若い人の娘のようであった。楠んだ赤の着物には継ぎ布が充ててあり、履いた草履も大分すり切れてしまっている。縮こめられた足先や指先は、哀れになるくらい酷く霜焼けていた。暮らしぶりはあまりよくないのだろう、碧はぼんやりと他人事のように考えた。
妖の姿は人には見えぬし、声も人には届かぬ。
人とは違う世界に生きているから仕方の無いことだと、この杜のヌシサマが教えてくれた。ヌシサマがいうには、妖力が強ければ人と話すことも出来るそうだが、やはり妖力の弱い碧が何度試したところで、言葉も姿も人には分からなかった。いくら同じ容姿をしてみても、決して交差することのできない存在、妖は——碧は。人にはなれないのだ。だからいつも、碧は人をぼうっと眺めるだけ。
ただ何をするでも無く、いつもするようにじっと少女を眺めていると、俯いていた少女がおもむろに顔を上げる。伏せられていた長いまつげが持ち上げられ、その奥の真っ黒な瞳が瞬く。
目が、合ったような気がした。そんなことはありえないはずなのに。
「誰?」
長い静けさの後に、彼女が掠れ声でそう言葉を発したとき、碧は思わず後ろを振り返ったが、そこには誰もいない。ゆっくりと少女に向き直った碧の視線は、彼女のそれとぶつかる。
ちりん、と鈴の音がした気がした。
「お前、俺が視えるのか?」
恐る恐る尋ねると、少女は幾度か瞬きをしてふっと白い息を吐きだす。
「うん」
初めて言葉を交わせた。偽物であるはずの胸が、ひどく痛むような気がする。
——人と初めて言葉を交わせた
呆然と見つめる碧を目の中に映した少女は怪訝な顔をした。風に触れる彼女の鼻先が、頬が赤い。寒いのだろうな。寒さを感じない妖である自分は、それを想像することしか出来なかった。
「それがどうしたの?」
「俺が視えるのは、その。お前が初めてだから」
戸惑いながらも質問に応じると、少女は一瞬きょとんとして、やがて納得したようにふふりと笑う。
「もしかして妖? 随分上手に化けているんだね、本物の人かと思った」
そう言えばヌシサマが言っていたっけ。稀に妖たちの姿が視える人がいるのだと。
戸惑う碧とは違って、碧が妖だと知っても少しも動じるところの無い彼女は、その場にすくっと立ち上がった。
「私はこと。貴方は?」
冬の杜。朽ち葉の敷かれた道は、人が歩くだけでかさかさと音がする。それも、もうすぐ雪が振り積もるようになれば、一面の真っ白に覆い隠されてしまうだろう。そんな冬の入り、出会った”こと”と名乗る少女は、それから毎日杜へと来るようになった。




