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第6話

 月日が流れた。

 京の都に、いつからとなく人の口に上がった噂があった。

「輪違屋の如月太夫が禁裏に召しあげられたと」

「とうとうかえ、やはりあの美しさは禁裏にこそ在って良いものだわいな」

「しかしあの姿が見られなくなったのは残念なこと」

「道中でも見かけなくなったのはそのせいかいな」

 市中を練り歩く花魁道中で、如月太夫の姿が見えなくなってから次第に増えていったその噂は、半年も経つころには噂ではなく本当のこととなっていた。

「月島様、いかがなされました?」

 街角に立って話し込んでいる町人の声に耳を奪われていた月島は、「いや、なんでもない」と返事をすると、小姓の葵丸の先に立って歩きだした。葵丸には今しがた訪ねてきた千富屋から、河合にと預かってきた物を持たせていた。



 年号が変わった慶応2年、河合は幕府の命によりロシア訪問団の一員として外国奉行小出大和守に随行し欧州へ渡ることとなった。それまで松平吉保を守ること、そして京都の治安を守ることに専念していた河合にとって、この欧州行きは古いものからの脱皮を決意させるものになった。

「河合様も何かとお忙しいことと存じますが、どうかこれをお渡しくださいますか」

 千富屋正左エ門が差し出したものは一抱えほどの四角い箱だった。

「これは写真機と申します。出島に出入りしていたものから手に入れましたが、あちらではカメラと呼んでおると申しておりました」

「カメラ?」

「左様でございます。これこうして構えてここを押して、しばらく動かずにおりますと先にある景色がこの中の紙に写りまする」

「写る?」

 両手で抱えた箱の中を覗き込んで、いったいどこに何があるんだと洩らす月島にふ、っと笑い掛けると千富屋は失礼いたします、と声をかけて後ろに回った。

「こう持っていただいて・・・そう、ここをこう持つのですよ」

 手をとって箱の使い方を教えていくと、月島の白いうなじが目の前で伸び上がって、その上にある小さい耳があらわになっているのがなんとも艶かしく見える。今はこうして若衆の姿になっているというのに、どうにも甘い鬢付け油の匂いがふわりと浮いてきそうで、一瞬戸惑って回した腕を宙で止めた。

「いかがした、千富屋」

 わずかに振り返った顔が間近で、思わず仰け反った。

「月島様、後生ですからそのように以前の顔をなされないでくださいまし」

「以前のと・・・」

「はい、如月太夫のお顔でございます」

 その名を聞いて、ぎょっとしたように身体をこわばらせた。「それは・・・」と声が続かなくなった月島に、これは本当に申し訳ないことを言ってしまったと千富屋正左エ門は慌てて後ろに下がり頭を下げた。

「申し訳ございません、私の慢心でございました・・・あなた様は会津藩家老、京都守護職さまお側付きの河合様の想い人でいらっしゃいますのに」

 顔を上げられないでいる千富屋に向かって、怒るのなら当然と思えたが、月島はそうはしなかった。

「なにを言い出すかと思ったら・・・昔の話ですか、懐かしいこと」

 ふふふ、と笑い出すと止まらなくなったように顔をほころばせて、目の前にある千富屋の肩に手を伸ばした。

「そんな話が出来るのも、あなたと宗兵衛の2人だけだ」

 今は白粉も塗っていないその顔が前にも増して天女のように神々しく見えて、如月太夫のときよりもなおさらまぶしく感じる。ああ、河合様もこのように美しい方を手に入れられるまでにはそれ相応の苦労はなさったが、こうして市居にいる今のほうがよりご心労のことだろう、と思わず苦笑する。

 そう思うと大変だと思いもすれ、またご自得のことよ、とも思う。そうして、今は顔を出していない月が鮮やかな満月だった夜の翌日を思い出していた。



 月島に立待続けると言った河合が、その足で向かった先は伏見の両替商、千富屋正左エ門のところだった。

「これはこれは河合様、お久しぶりでございます」

 奥座敷に通されて、人払いをと所望して茶を出す女中がいなくなったあと、河合は座していた敷物から外れるとすいと手を突いて頭を下げた。

「千富屋正左エ門殿にお願いの儀があって参った」

 いきなりのことに千富屋が驚いていると、どうかこれから申すことは他言無用でお願いしたい、と言い置いてそれはそれは信じられないことを言い出したのだ。今をときめく輪違屋の如月太夫が本当は男であること、しかもそれを河合に知られてこの先二度と如月太夫として皆の前には出ないと誓ったことにも驚いたが、それよりも今生の最後の思い出にと、河合と契りを交わしたというのにはなおさら驚いた。

「・・・・・失礼ながら河合様、私を謀っておいでではないのですか」

「ならばもう少しましな事を言おうぞ。これはすべて誠の事、そこで其の方にお願いしたい」

「私に出来ますことで?」

「そなたにしか出来ん」

 にやりと笑ったその顔は、有無を言わさぬ強いものだった。


 待ち続けるといった河合を信じぬわけではなかったが、しかし如月太夫としての自分を残したままあの方の元へ行くわけにはいかぬと決めて、月島はいっそのこと京を離れようと考えていた。その頃の京都は尊皇攘夷派の力が増大し、その鎮圧に来ている京都守護職の役割はなかなかに重く朝廷側からの圧力も日増しに強くなっていた。そんな中で幕府から命を受けている河合、ひいては松平吉保に自分の存在が明らかになっては迷惑になる、と考えたのだ。河合を涙とともに見送ったあと、しばらくは何も出来ずに泣き濡れていたが、そうと決めると置屋のあるじである宗兵衛に身分を捨ててここを出て行くと告げたのだった。

「月島様、千富屋のご主人がお話しがあると申しております」

 月島の話を聞いて、何か言いにくそうな様子で宗兵衛は話し出した。

「千富屋様が?」

「はい、先ほど使いのものが参りました。今宵夕刻、揚屋の座敷でお待ちいたしたいと」

「如月に会いたいというのなら、どうかご勘弁をと・・・」

「いえ、月島様にと申しておいでです」

 それまでの弱々しい風情が一変して、月島の目にきつい光が宿った。

「今・・・なんと」

「千富屋正左エ門様は月島様にお話ししたきことがあると申して参りました」

「なぜ、なぜに千富屋は私のことを知っておるのだ」

「・・・・・いらしていただければ判るとの言付けでございます」

 そう言うと輪違屋宗兵衛は、ここを出て行かれるも月島様のご自由でございますが、千富屋のご主人が何用でお話したいと申しておるのかそれをお確かめいただいてからでも遅くはございますまい、と進言してきた。

 はたして千富屋の真意はいかに、と胸のうちがざわめくのを感じながら、ただ一つ母から譲り受けた父親の証という懐剣を抱いて行こうと心に決めて、

「わかった」

とすでに如月ではない声で一言答えた。


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