第5話
角屋の座敷でお待ちしております。
その言伝を聞いて、月が顔を出したと同時にその揚屋へと赴いた。
「河合様でございますね。太夫がお待ちでございます」
今までとは違い、少し年を取った妾が案内を務め、これまでは入った事のない奥の部屋まで連れて行かれた。
黒々と磨き上げられた廊下を滑るように歩く妾の後をついて、迷路のような壁をいくつも曲がった後、こちらでございます、と開けられた襖の向こうに望んでいた姿はあった。
「如月太夫・・・・・いや、月島」
細く開いた窓から月を見ていた後姿は、黒地に金銀で眩いばかりに輝く満月が浮かび出ている打掛けに、裾から見える白と緋の間着が艶かしく、太夫独特の大櫛や花かんざしは見られずに、兵庫に結った髪には赤の漆の櫛止めを差しているだけで。
「・・・・・河合さま」
振り向いた顔に白粉のあとはなく、それでもなお白い面には一筋の涙が光って流れていた。
「ああ、ほんとうに・・・・・いらしてくださったのですね」
崩れるように縋り付いた手を取って、「泣くでない」と言いながらそのぬくもりをひしと抱きしめた。姿が見えなくなってから、この手に再び抱くことが出来るのだろうかと危ぶんでいただけに嬉しくて、また狂おしいほどの愛しさが込み上げてきた。最後に月島の顔を見たのが臥待の月の夜、あれからさして日も経たぬはずなのに、もうずいぶん遠くに引き離されてしまったように思えていた互いの身を、こうして近くに感じることのできる幸せを手放したくはなかった。
「・・・・・もう、離しはせぬぞ」
想いの丈をこめて言葉を吹き込む。
「いいえっ・・・」
いいえ、このような浅ましい身をこうして抱きしめていただくだけでも本望でございます。この姿、あなたさまには知られたくはなかったのにわたくしは・・・・・
わたくしは、あなたさまのことが忘れられなかった。
見つめあったその瞳から、また新たな涙が零れ落ちた。
嫌々をするように腕の中で頭を振るその様を抱きとめて、忘れるなどと云うな、とかき抱いた。
重ねた打掛けの下に着ていた間着は白の総紋で、島原褄と呼ばれる独特のものだった。わずかに見える緋色は肌のすぐ上につけた内着、透ける素肌に映えるそれは、なおさら色香を匂いたたせた。
ゆるりと解かれた膝の合間に手を差し入れて、しっとりと温かいその手触りを確かめるように撫でる。上にすりあげた手をゆっくりと戻して、わずかにまた開いたその隙間に指を伸ばした。
もう一度、また撫で上げて。
ふるりと震えた背中の上で、甘い鬢付け油の匂いが左右に揺れた。
もう、離しはしない。
重ねていい募って、答えぬ唇を戒めるようにきちりと噛み付き、こじ開けて嬲った。ひゅうと乾いた声をあげて、逃げを打つその顎を捉えて己の方を向かせる。その濡れた瞳はこの顔しか映してはいないのに、なぜこうまで不安に揺れるのだ、何故そのように心を塞いでいるのだ、と聞きたくて。
応えてようとはせぬその喉元に舌を忍ばせ、荒々しく攻め立てた。
「あ・・・あっ」
差し入れた指が湿った茂みにたどり着いて、やわりと息づく証を握りこみ、その形を変えるようにゆっくりとなぞった。切なげな声をあげたその顔を覗き込み、ただ目をつぶり吐息を洩らすその口元から覗く白い歯に魅入られた。
ああ、この身体もこの心も全て手に入るのであれば、後は何もいらぬと今そなたに誓ってやれるのに、そう考えて。
不意に己のことを振り返った。
この手を取るのは、きっと許されることではない。それを知って応えぬのか。そなたの父は己の主君とは相対する攘夷派、そして輪違屋の太夫としての身を欲しがられているのは己の主君。
それを思ってそなたはその嘆息をつくのか。ただこの一夜を今生の思い出にして、あとは忘れるというのか。
・・・・・そうは決してさせぬ。月島、其の方はこの河合のものだ。
うねる身体の言いようのない媚態に、その頬の吸い寄せられるような赤みに、白い歯の間に見え隠れする甘い舌に。
魅入られたこの身がどうなろうと、そなただけは。
そなただけは、誰にも渡さぬ。
「たとえそれがあの世でも・・・・・」
思わず洩らした言葉に、組み敷いたその瞳がゆるやかに開いて。
・・・・・うっとりと、微笑んだ。まるでこの世のものでないように。
見ていたのは、端の少しかけた月だけだった。
「河合さま」
耳元で聞こえた声に目を開けて、まだ薄暗い部屋の中を見やった。飛び込んできたのは、暗さに浮かぶ艶めかしいまでの緋色の内着で、それに反するように見えるうなじの白さは、初めて出逢ったときと同じようにすんなりと弧を描いていた。
「夜が明けまする、もう・・・・・お別れでございます」
「離さぬと、約束したぞ」
「いいえそれだけは」
伏せた瞳にもう映してはくれぬのか、と言い寄れば、それは違います、とはっきりと返された。
「もう、あなた様だけを見続けるわたくしはあとは何も映しませぬ」
ならば何故、そう迫った河合にゆるゆると首を振る。
ですがこの先はこれをわたくしと思って、河合さまのお心に住まわせてくださいませ。
そういうと、鮮やかな緋の小袖をびりりと引き裂いて、赤の櫛止めをそれに包み込んだ。載せられた手に吸い付くような柔らかな絹は、今まで抱いていた身体に似てすぐに肌になじみ、尚更抱いた身体の温かさを思い出す。
「・・・・・きっと、迎えに来る」
いいえ、と続ける声は抱きしめた胸の中にかき消して、聞かなかったと言い張った。
最後に歌を、お聞かせくださいませ。
明けきった空に目を向けて、月島はそう強請った。
「わたくしが先に、河合さまは後の句を」
そういうと、薄く開いた窓から見える朝日に背を向けて、半身を起こしたしどけない姿で言葉をつむぎだした。
「・・・・・いつ来ると つれなく思う 暁に」
柔らかい声に引き出されるようにして、日が差し込む。
白い光に掻き消されるようなその気配を、押し止めるためにひたりと見据えた。
「思い望むは 立待の月」
返した言葉にその瞳を見開いて、零れんばかりの端から涙が一雫流れ落ちた。
「待っている」
今宵の月はそなたとはじめて出逢った月。迎えに行くのが悪いなら、月夜の魔物に逢いに行こう。逢えるまではいつまでも、立待ち続けるぞとその耳に囁いて、名を呼んですがる身体をきつくきつく抱きしめた。
『いつ来ると つれなく思う 暁に 思い望むは 立待の月』
夜が明けてしまうと愛しいあなたともお別れしなくてはなりません。ああ、そう思うとこの夜明けが恨めしくてならないのに、今夜の月は立って待てばすぐに出てくる立待ちの月。その月のようにあなたと逢える時間もまたすぐにやってくるといいのに。
後朝の別れに交わした約束を胸に。
その日から、河合は陽に隠れた月を追いかけたのだ。




