第4話
「だんな、あちらさんがお待ちでございますよ」
月がその顔を全て出し始めた頃、なじみの親爺が小上がりの奥を指して声をかけてきた。
月夜の魔物はあれから一度も姿を見せず、果たしてその生死さえも気がかりになってきた時のこと、
「・・・・・おぬしは輪違屋の」
見知った顔だとこちらが気付いたのを見てとって、深々と頭を下げたのは輪違屋のあるじ、宗兵衛であった。
「河合さま、本日はお願いの儀がございましてお待ちいたしておりました」
頭を上げぬまま、すり下がって言う声にはどこか戸惑う色がみえた。そうして願い事があるという割にはしばらくそのままの姿でいて、こちらが向かいに座るまでぴくりとも動かなかった。
「・・・・・某もおぬしに聞きたいことがある」
差料を脇に置き、顔を上げよと申し付けて普段は抜け目のない顔をしている置屋のあるじと向き合った。聞きたい事がある、とこちらが言った所為か、己の出方を待つように目を伏せじっとしている様子にこれは何かあると思ったが、それよりもこちらが先に、この輪違屋のあるじにどうしても問いただしたいことがあった。
「宗兵衛、あの者は・・・・・如月太夫は女人ではあるまい」
いきなりの問いに、ぎょっとしたように身体をよろけさせると「もっ・・・申し訳ござりませんっ」と畳にすり付くように這い蹲り、
「松平様を欺くつもりは、これ一つもございませぬ。これには仔細がっ」
とおろおろとして身を小さくさせた。いつも人の心の裏側まで見通しているようなあしらいをする者と、同じとは到底思えぬ様子である。
「それ、その仔細。なぜに如月太夫は・・・・・いや月島はあのような姿をしておるのだ」
月島、と口に出したとたんにばっと顔を上げると、
「・・・・・月島さまを、ご存知でございましたか・・・・・」
とても信じられない、と言ったように震える声を出した。
「月島さまは、お名前こそ出せませぬが、さる高貴なお方の落とし種でございます」
その昔、輪違屋で都一と名を馳せた太夫が添い遂げられぬとわかっている相手と深い仲になり、身籠った末に生まれ出たのが月島であり、そのときその太夫はわが子の顔を見ぬまま命を落としたのだとあるじは語りだした。
「私どもが悪かったのでございます。まだ小さな童であった月島さまが、あるとき戯れに身の回りの世話をしていた芸奴の打掛けをかぶってお座敷へ転び出たのでございます。きっとあまりの賑やかさに惹かれたのでございましょう。そこでやんやと囃し立てられ、次もとお召しがあるうちにそのお美しさをお隠ししてはおけず、あっという間に引く手あまたになってしまわれたのです。そうして押しも押されぬ太夫となってしまっては、その本来のお姿をお隠し続けるしか、無くなってしまったのでございます」
ですがそれも、のちのちお聞きするとお考えあってのことと、月島様はお話しくださいました。
母親に瓜二つと噂され、その美しさは傾城とまで言われるご自分のことを、もしや父親が聞き及んだら会いにきてくれるのではないか、たった一つ母親が残してくれた血筋の証を胸に、これをいつの日か父の前に差し出し親子の名乗りを上げる日が来るのではないか、そう望みをかけているのだと明かされまして、私は月島様のなさることをお止めすることが出来なかったのでございます。
「母親と同じ源氏名で座敷に上がるのも、そのお気持ちあってのこと」
ですがそれもこれも、私が悪かったのでございます、太夫には、いえ月島さまにはなんの悪いところもございません。罰をお与えになるならこの私に、と言い募るあるじに、
「なんということ・・・」
とすぐには他にかける言葉を見つけられずにいた。
「したがその父親の事は、おぬしは知っておるのだろう」
「・・・はい」
「何故引き合わせてやらぬのだ」
ここで輪違屋のあるじは、ぐっと詰まって畳に頭をこすり付けた。
「めっそうもございません、おしるしにと月島様にお預けになられたお品についておりますのは三横菊紋、こちらから我はここにと名乗り出るわけには参りません」
「・・・三横菊紋と」
それは、京都守護職である松平容保とは立場を違う、攘夷派で国事御用掛を任じられた有栖川宮家の紋所ではないか。
はっと顔をあげた河合に、輪違屋のあるじはなお一層頭を下げて言葉を続けた。
「月島様はそれをご存知でございます。みだりに名を挙げられぬならば、せめてそのお姿を偲ぼうと、ご自分にお与え下されました名前の月をおしるしに重ねて、月の出る夜はいつまでも眺めてお出ででした」
そこで月島様は、あなた様に出会われてしまった。
河合様のことをお話くださるときの月島様は、なんともお幸せそうでした。ですがあなた様はご自分の父親とは対立の立場をおとりになるお方、会ってはならないと何度もお思いになられたとも、私めにお話くださいました。
「そうして、思いもかけず如月太夫の姿までお見せすることになってしまったご自分の運命をお恨みになられて・・・」
ううう、と唸るように言葉をつまらせたあるじは、どうか、どうか月島様をお助けくださいませ、と重ねて願い出た。
「・・・まさか、世を儚んでと言うことではなかろうな」
「いいえ、そのようなことはっ」
その心配は私どもも同じでございます。まさかのことにはならぬよう、お一人にはならぬように気は配っておりまする。
とあるじに聞かされて、ほう、と息を吐いて安堵した。
よかった、あの者は生きておる。
生死の心配はないとなると、では願い事とはいったい何ごとだと考えた。黙ってしまったこちらを伺うようにこぶし一つにじり寄って、あるじは話を続けた。
「松平様から再三太夫の身請けのお話を戴きましたが、いくら積まれましてもそれはお受けできませぬとお断りいたしました」
「なに」
それは初耳だった。
主君松平容保はそこまで、本気だったのだ。
「そのお召しがありましてから、とうとう月島さまはお部屋にお篭もりになってしまわれました。そうして七日の日が経ちました昨日、私めにこう申されたのです」
河合さまに全てをお話して、今までのことお許しを請いたいこと。これから先、如月太夫として姿を見せることのないことをお約束したいとのこと。そのことを河合さまにお伝えしてくれないかと、涙ながらにお話になられたお姿があまりにも切ないご様子で見ているこちらが泣きたくなる様でございました。
あるじの話を聞くにつれ、この場から今すぐにも駆けつけたい思いにかられ、「案内せい」と立ちかけたが、「お待ちくださいませ」とすがって差し止められた。
「まだ何かあるのかっ」
「・・・月島さまは明日と。満月のあくる日にお越しいただきたいとのお願いにございます」
言われて窓を振り仰いでみた月が、きらりとその輝きを増したように思えた。