第3話
初会といって今日は顔見世だけ、と千富屋に教えられて上がった座敷では、まだ見習いの振袖太夫が「ようおこしやして」と出迎え、
「こったいさん(太夫の別称)は、おあとでおいでで」
と、なんとも耳の触り好い声で告げられると、立方さんと地方さんと呼ばれる芸奴がぞろりと並び、そうれの掛声と共に賑やかな唄と舞が催される。
其の方一人と命ぜられて、まだ若輩者の己が主君の隣でこうして色香漂う揚屋の座敷に座り、どんな花々もこうも美しくは咲かぬだろう、と思うほど艶やかな舞を見るのはまるで夢のようだと感嘆する間も、あの者は今宵あそこには立ってはおらぬのだろう、と心中では思っていた。
今夜の月は新月、月夜の魔物は出るに出られぬ。
そのように考える己が可笑しくて、耐え切れず口の端を引き上げる。ふとしたときに思い出すのが、月島の白いうなじだと思うとどうにもくすぐったい気持ちにさせられて、参ったな、と華やかな中で独り思う。
この世にはこれほど美しい女人がおるのにな。
差し出された盃を手にとって、ぐいと飲み乾した酒の甘さにすらあの声音を見る。
色とりどりの衣が舞う中、思い浮かんだのは其の方の顔だけだったと次に逢ったら言ってやろう、そう考えていた。
一刻ほども過ぎたろうか、「こったいさんのお出ででございます」との声が掛かり、するすると一間向こうの障子が左右に割れ開いた。新造たちが二重三重に重ねて照らす手提げ行灯の中、現れ出た姿に一時呼吸するのさえ忘れてあたりは静まり返った。
まず一歩、衣擦れの音を立てながら見せた素足は白く小さく、ちらりと覗いた親指に思わず目を奪われた。纏っている着物は薄青と蓬の重ね目で、大きく描かれた水仙の黄色が中の金糸と競うように眩しく映る。胸の前で心の文字に結ばれた帯は亀甲に朱が走り、薄い色目の衣と相対してより華やかに見せていた。太夫独特の髪かんざしは左右に4本ずつ、鼈甲に珊瑚が無数に散らされて、髪の黒と面の白さをより強く比べ見させている。
「よう、お出でなさいまし」
女人にしてはちと低い声だなと思い、顔を挙げて其の瞳を見て。
驚いた。
・・・・・そなたは、月島。
出るに出られぬと思っていた月夜の魔物が、姿かたちを変えて今、目の前に現れていた。
三日と空けずに裏を返して、またも近くに寄らずに姿だけを見せる如月太夫の今日の出で立ちは、まだ闇になりきらぬような濃い青色に赤と朱の花が散りばめられ、其の上に檜扇と朱房が舞っている豪華なもの。柄合わせのような帯は貝扇で、こちらは金銀の糸をこれでもかというほどに使い、打掛けの中に覗く赤の間着がより艶めかしく見えた。
「美しいのう」
御所での歌にまで詠まれたというその美貌を前に、松平容保は目ばかりでなく心まで奪われていた。
「河合、三度目は馴染みと申したな。馴染み金を受け取ってくれれば床を共に出来ると申したな」
すでに300両以上は使っているが、姿を見せるだけで手も差し出そうとしない如月太夫に、怒るどころか何とかしてその機嫌をとろうとする何も知らない主君に対して、河合はどう申し開きをしようかとただそれだけを考えていた。目の前の天女のような女人は実は女人にあらず、と声高に言ってしまえるような状況ではなく、なによりも己がそれを良しとしなかった。いかにしてこの如月太夫を、いや月島を今の境遇から救い出してやれるのか、そのことだけが頭を占めていた。
何か仔細があるのであろう。
それが聞きたくて離れた場に座るその瞳を問いただしげに見据えると、悲しげな色を見せてわずかに面を伏せた。
「なにゆえ、あのように儚げであるのかの」
其の方何事か聞き及んでは居らぬか、との問いにこれはと話してしまうことも出来ず、そのうち衣替えと称して太夫は座敷を後にしてしまった。其ののちはまた唄と舞に酒が加わり、煌びやかな芸奴の姿に見惚れているうちに今宵も子の刻を過ぎ、
「こったいさんはようおやすみやして」
との一言で、今夜も振られたことを告げられたのであった。
三度目の所望は、馴染み金といってこの先通い続けることを約束する手付けを支払うことになる。千富屋正左エ門は、輪違屋の如月太夫はそれを受け取った事がない、と教えてくれた。
「いやじゃ、の一言ですませるんですわ」
いくら京都守護職様と言えども、太夫が嫌だと申しましたら無理強いは出来ませんぞ、と智恵をもらってその日を迎えた。
「河合、今宵こそは、であるな」
何にやら浮き立つ様子の主君に、その儀はかなわぬかもしれませぬとはどうしても言えず、ただ隣で座して待つこと半時。
「こったいさんのお越しでございます」
と幇間が手もみをせんばかりの風で告げてきた。
そうして。
するりと開いた障子から、現れたのはそれまでとはがらりと違った鮮やかな緋色の打掛けで、しゅるりという音が響いて見えた背中には見事なほどの鶴が一羽描かれていた。
「・・・・・なんとみごとな」
今にも飛び立ちそうなその様に、一抹の不安を感じたのは己だけであったろうか。まるで見せ付けるようにぐるりと一回りすると、それに合わせて地方の三味線が一節曲を奏で始めた。
逢うて立つ名が 立つ名の内か 逢はで焦れて 立つ名こそ まこと立つ名の内なれや 思ふうちにも隔ての襖
有るにかひなき捨小舟(合)思や世界の男の心 私はしら浪うつつなき 夜の寝覚のその睦言を
思ひ出すほどいとしさのぞっと身も世もあられうものか(合)締めて名護屋の二重の帯が 三重廻る
深山うぐひす鳴く音に細る(合)我は君ゆえ焦れて細る ああ浮世 昔忍ぶの恋ごろも
(地唄 「名護屋帯」)
愛しいあなたに逢うことも叶わず、その寂しさからこの身もやせ細りいままでは二重に巻いていた帯でさえ、三重にせねばならぬほどにやつれてしまいました。啼けば啼くほど身を細らせる山奥の鶯のように、あなたを想えばまた焦がれて細るばかりです。以前のあなたを想い出しては、この想いが身体から離れることはございません。
まるで、耳元で囁くように衣擦れの音が聞こえる。一つ舞うごとにその指先からは華がこぼれるようだと見えるのに、その瞳は今にも泣きだしそうに潤んで切ない。それを何故誰も気付かない、何故踊り続けさせる。見事じゃ、艶やかじゃと囃し立てる周りの声とは裏腹に、河合はその手を身体を抱きとめて、今すぐ舞を終わらせてやりたかった。
・・・・・河合さま・・・・・
唇が、己の名を形付けたと思ったのは一瞬で。
舞を終えた如月太夫はもうこちらを見ようとはしなかった。
「あれ、こったいさん」
そのまま座敷に移り来るものと思っていた一同の前から、太夫はすっと立ち上がると入ってきた障子を開けさせて裾を返して出て行ってしまった。
「何ごとじゃ」
待たぬかっとの松平容保の声が響いたが、花街ではどれほど位の高い大名や公達でも太夫の意向に逆らうことは出来ぬのが通例で、いかに京都守護職であるといってもそれを翻すことは出来なかった。しかしこの後、いくらお呼びを掛けようとも、いくら金を積もうと言っても、如月太夫が座敷に上がることは二度となかった。
上弦より一つ前の六日月が空に浮かんでいた。