第2話
あくる夜。
男は橋の上で待っていた。
その姿を目に捉えて、河合ははやる心を抑えつつ、じりと足を進めて行った。
「河合さま」
掛けられる声音の低さは確かに男の持ち物なのに、耳の届くのはしっとりと艶のある女の色香を含んでいて、なんとも言えずこの身に絡みつく。
「お待ちしておりました」
闇の中に浮かび上がるのは、縛り上げた髪のほつれから覗くうなじの白さとゆらりと揺れる瞳の濡れ。ずいと一歩近づけば、押されるようにして仰け反り欄干についた手の甲が白く映って力が入るのが見て取れた。
「・・・・・待っていたと」
「はい」
明日もお待ちしていると申しましたので、同じ刻、同じ場所でこうして月を見ながら待っておりました。
柔らかい物言いがすぐ傍から聞こえて、たばかるな、と言ってやろうと其の肩を強く握る。
「今宵は月など出ておらぬ」
掴んだ肩を引き寄せて、その顔を仰のかせると、
「いえ、あそこに」
間近に見える瞳の動きにつられる様にして首を廻し、己の後ろに浮かぶ、端の少し欠けた月を見つけた。
「いつの間に・・・・・」
「・・・・・あなた様と共に、現れでて参ったのですよ」
わたくしが待っておりますのも、あの月が出てくれる故のもの。
「月夜だけは、こうしてお逢いしてくださいませ」
その声に捕らわれた身体はただ動きもせずにいて、縋りつく両の手が襟の合わせを辿り、指先が喉元へ触れるその前に、己の腕がその細腰を抱き反った背中に指を滑らせた。
「河合さま」
名を呼ぶ声が、まるでむせ返るような甘い華の匂いを放ち、それに抗えぬままかき抱いた身体を尚もきつく抱きしめていた。
月の夜は、と言ったその言葉通り、其の形を半分隠した辺りから男の姿を橋の上で見ることはなくなっていた。
「・・・・・月夜の魔物、か」
親爺の言うとおりだったかも知れぬ、切って捨てられぬ魔物がそこに居ったのだ。そう思い始めた頃、君主松平容保より呼び出しがかかった。
「河合、島原は知っておるか」
「島原でございますか」
その名だけはかろうじて知っていた。
「左様、其の方は行ったことがあるか」
「いえ、そのような場所には縁がございませんので」
河合は京都守護職公用方、公用方勤を賜っていた。そのため常に御傍近くに居ることの多い河合にしてみても、このときの容保の要求は意外なものだった。
火急の用件、との呼び出しに急いで来てみれば他のものを全て払った上「近う寄れ」と手招きされ、ほんの一段下がったばかりの御前でなんとも容易ではない事を聞かされたのだ。
「輪違屋の如月太夫の座敷に上がりたい」
輪違屋と言えば、御所に上がることの出来る太夫を何人も抱え、その顔見世道中には花見客よりも見物人が集まるので有名な置屋である。それをこの俗事とは無縁の松平容保が口にするのを、信じられない思いで耳にした。
「聞けば大層な美形だそうな。その傾城とまで言われる美貌を間近で見て、世知辛い思いを晴らしてみたいものだ」
ああやはり、と言われた一言が胸に響いた。
将軍直属の役職で京都の守護を全てまとめ幕府を代表するという責務は、まだ若い君主には担いきれないものだったのかとそのあまりに重いお役めを省みて思った。
「・・・・・では、手配いたしましょう」
両手を付いて深々と頭を下げると、その上から「其の方も」との声がかかった。
「其の方一人が付いて参れ。他のものには内々にな」
下がってよい、と言われるまで頭を下げたままでその実、いったいいかにしてこの難題を解きましょうぞと、その額に皺を寄せて考え込んでいた。
京の花街のなかでも唄と舞に洗練され、独特の文化さえ産み出していた島原はそこに行き着くまでにもずいぶんと込み入った手筈を必要とされた。まず「一見さんお断り」として、どんなに名の通った大名であろうとも馴染み客の紹介でなければその大門をくぐるだけに留まり、揚屋(現在でいう高級料亭)に足を入れることは罷り成らんとして追い返されてしまう。そこで、例の親爺にくわしい事情は話せぬが、と言い置いた上で島原の馴染み客を紹介してはくれぬかと聞いてみた。
「ようございますが、どちらか馴染みをご所望の揚屋がございますか」
格の高い島原の太夫は自分の座敷と客用の座敷を揚屋に用意させている。どの揚屋に上がるかで、呼べる太夫も決まってくるというものだった。
「実は・・・・・輪違屋の如月太夫の座敷がよいと」
誰がとは言わず、言葉を濁したこちらの顔をうんうんと訳知り顔でうなづきながら、親爺は「左様でございますか」と言うと、
「それでは、なじみの口入屋に話を通しておきましょう。三、四日ほど待っておくんなさいまし」
にたりと笑って、ではとぐい飲みを差し出した。
親爺に話をしてからさして日を置かずして、口入屋の手筈で伏見の両替商、千富屋正左エ門と顔を合わすこととなった。
「河合様はどちらのお武家様でございますか」
京でも一、二を争うと評判の両替商である千富屋のことは、その名は知っていても勘定方畑は一度も携わった事のない己には用のない商人であり、そのため相手方も此方を知らぬのはいた仕方ない事、とは思ったがここで素性を明かしてもよいものか、と訝しく思った。しかし、
「花街は身分の上下など無用のところでございますが、嘘偽りは通じませんぞ」
顔こそ笑い顔ではあるが、その内は偽ることなど許さずと強く向けられるその言葉の潔さに感じ入った。
「・・・・・失礼をした、某は京都守護職松平容保にお仕えし、公用方勤を賜っておる」
「では、輪違屋の如月太夫をご所望は松平様で御座りますか」
ほほう、と驚いた顔をした千富屋は次に居住まいを正すと、一つ下がって両手を畳に着ける。
「かしこまりました。其の儀千富屋正左エ門、しかと承りましてございます」
ゆったりと笑った顔は、しずしずと下げた頭に隠れて見えなくなった。
下弦を一つ過ぎた、二十三夜月の宵の事である。