第1話
時は文久2年、14代将軍徳川家茂の世、それまで尊王派の天誅により悪化の一途を辿っていた京都の治安維持と幕府の威厳回復のため、すでにあった京都所司代、大阪城代をも越える役職として「京都守護職」をあらたに置き、そこに徳川宗家の流れを汲む会津藩藩主松平容保に白羽の矢が立った。
人望が厚く、広く忠義のものとの覚えの高かった容保はまだ27歳の若さで、そのため守護職の任は重いと再三固辞していたが、『将軍家の為には忠義を尽くす』との家訓に従い、同年12月家臣藩兵を引き連れて上洛した。
国許に居た時より君主の身辺警護を司っていた河合は、このとき物頭として付き従って京に入り、朝廷と幕府との折衝などを行う京都守護職公用方、公用方勤を賜っていた。
話は、京の都は会津に比べると格段の華やかさで、それの治安を護るという責務はいささか難儀なもの、と思い始めた翌年の春のことである。
格子の隙間から、行灯に勝るかのような明るい光が差し込んでいた。
「月夜の晩は、魔物が出ると申しますよ」
したたかに飲んだ夕刻、なじみの親爺の一言にふと嗤って答えた。
「まだ宵の口だ」
魔物なぞ、出たところで一刀の元に切って捨てればよいではないか。
そう高笑いを繰り出す男に、いやいや、とこれまた嗤い顔で親爺が言葉を返す。
「だんな、切って捨てられる魔物と、そうでない魔物がおりやすからねぇ」
お気をつけんなって。
チャリンと音を立てて金子を置くと、じゃあまたな、と言いおいて暖簾をくぐる。一足じゃりっと突き出して、月夜と言われた闇を仰いだ。
「ほう、こいつは風流な」
見上げた空に浮かんでいるのは真白く輝く丸い月一つだけで、常には煩いぐらいに瞬く星々も、今夜は月に遠慮をして姿を見せてはいなかった。
それだけに、昼のように明るい月の下を闇に解けるような黒の着流しで歩く姿は男の気配をより濃くし、歩くたびに見える裾の返しの朱の色が、なんとも言えぬ色香を漂わせていた。
こんな夜なら、あの者の申すとおり魔物が出てもおかしくはないな。
思いついた考えに我知らず笑みを湛えている矢先、目の前の橋の上にいつの間にいたのかぼんやりと人の姿が見えた。
・・・・・まさかな、早々のご登場とは言うまいな。
酔いも手伝ってか、クククと嗤うと慣れてきた目がその人影を明らかにした。
若い男のようだ。
橋の欄干に寄りかかって、ただ一心に月を見上げている。年のころは17、8か、明らかに己よりは年若に見えた男は、すぐ傍に寄っても微動だにせず顔を上に向けたままだった。
「何をしておる」
振り返らないその顔を、どうにかして己に向かせたい、そんな気が動いたのかもしれない。行き過ぎてしまえば良いものを、何故だかその横顔に声をかけねばならないという観念に囚われて、足を止めて聞きただした。
ゆっくりと下りてきた瞳は暗闇の中でもキラリと濡れて輝き、そこだけが際立つ白の視線をひたりとこちらに合わせると、瞬きもせずに言った。
「月を見ておりました」
響いた声はやはり男のものだが、、触りよく軽やかに耳に届くと、また視線を上に持ち上げた。
「とても美しいので、勿体なくて」
うっとりと囁く声はすらりと伸びた首筋を通って発せられ、無造作に縛っただけの髪が言葉に合わせて揺れるのが、まるで現世のものではないようだと思いながら見続けて、
「そなた、名をなんと申す」
黙ってはいられなくて一歩近づいてそう問うと、
「見ず知らずのお方に名乗る名は持ち合わせておりませぬ」
こちらを見もせずに言って、男はゆらりと立ち上がった。
「・・・・・お侍さまは?」
差料に目を合わせて聞かれたのに、答えねばこの次はないと言い詰められたように何故だか焦って、身分を正直に明かしてしまった。
「松平様にお使えしておる、河合という」
「松平様・・・・・」
では、京都守護職の。
薄明かりにクスリと笑った気配がして、思わず刀に手をかけた瞬間、そこにやんわりと手の平が載せられた。
「わたくしは、月島と申します」
ほんのすぐ前でその名を聞いたはずなのに、手のぬくもりが消えたと思ったときにはその姿を見つけることが出来なかった。
まさかな。
月夜の晩は、魔物が出るといいますよ、切って捨てられる魔物と、そうでない魔物がおりやすからねぇ。
そういって嗤った親爺の顔を思い出した。
・・・・・またここで、お待ちしております。
最後に聞こえた声はまことだったのか、そうでなかったのか、問いただす相手を見失ったまま、闇が己の周りを取り囲み、全てを覆い隠して其の時の様子さえ消し去っていった。