冬咲きのモクレン
遠くの頂が白い冠を僅かに残し、里山に春の色が満ちていた。道々に咲く黄色い草花がもう冷たくはない風に揺れる。
バスを降りた達彦は里山の空気を吸い込んで感慨に浸る。
――やっぱりここはいい。
会社勤めに疲れた時は母方の田舎に赴き、心身の洗濯をするに限る。幼い頃の夏休みには必ず長逗留して遊んだことも懐かしい。三十を過ぎようと昨日のように思い出す。
「パパ、降りられない!」
「ああ、ごめんごめん」
降り口で仁王立ちする娘の両脇に手を差し入れ、お気に入りの里山の土に降ろす。今回は学校に上がる前の娘にも見せたくて連れてきたのだった。渋る妻を説き伏せてきたのに、これでは面目が立たなくなってしまう。
娘、深雪もいつまで手を繋いでくれるかわからない。せめて今のうちにこの原風景を共にしたかった。
「こっちだよ」
陽射しを受けて水面をきらめかせている小川に沿って歩いていく。祖母の家までのんびりと。
茅葺きの古民家が間近に迫り、人影が映ると深雪が駆け出した。
「ばーば!」
「おう、来よった来よった」
「バアちゃん、世話になるよ」
幼児の突進を難なく受け止める祖母――深雪から見て曾祖母がいた。到着時間がわかっていたかのようにいつも庭先で出迎えてくれる。
垣根もなく、どこまでが庭で、どこから道路なのか判然としない、古いのに何十年も変わらない懐かしい家に着いた。
そして達彦は視線を上げ、家の裏手から少し離れたところにある小高い丘を見る。そこ一面に広がる樹木に咲き乱れる白い花を。
縁側で出されるのは季節を問わずいつも麦茶。そして子供には不評がちな仏壇菓子。深雪はきな粉菓子が気に入ったらしい。それだけを寄っている。達彦は達彦で苦手なフルーツ味の寒天ゼリーを見て苦笑いを見せる。
「ばーば、あそこのお山白い。なんで?」
ひと心地ついた深雪が指差す。最前達彦が見上げた方だ。
「んー? ああ、あいはハクモクレンばい。今年もよう咲いとるけぇね」
山も見ずに言う祖母のシワだらけだが柔和な顔に影が差す。
「ハクモクレンていうお花? 見たい、近くで見たい!」
「わいは行ってはいけなせん」
「ばーば、何て言ったの?」
「あの山に行っちゃだめだって。深雪がもっと大きくならないと危ないんだよ」
「むー、つまんない」
愛らしく頬を膨らませるひ孫に婆の目尻も下がる。
「それそいぎぁ、聞かせちゃろうもん」
「バアちゃん! 深雪には早いってば。夜、寝られんくなるから」
慌てるのは達彦だった。自分が聞かされた時は寝小便を繰り返したものだ。
「ほうけ、知らんほうがひやかばい……」
祖母が深雪を抱き上げ膝に乗せる。天真爛漫の幼女は頭を撫でられご満悦だ。このままモクレンの山について関心が薄れてくれればいいと思う。
そんな娘を見て胸元が暖かくなる達彦は思い出す。かつて祖母の語ってくれた昔話を――
◆ ◆
昨秋の不作はかなり深刻であり、この里も川魚や木の実をかき集めて冬を越せるかどうか、という有様だった。雪が積もる頃にはどの家でも鳥獣捕獲に躍起となるほどに。
「ダメんなる家もあろうが……」
「今年は猪もあまり見よらんけ……」
「雪解けて山さ越えらるんと、庄屋さん、なんば売りに行くっちゅうが……それまでどうやろ」
里では顔を会わせればこんな会話に溢れていたという。
武松という壮年の男は頑強な体躯に恵まれ農作業にはうってつけだった。誰よりも深く広く耕すことが自慢できるくらいに。子供も授かり、上の子は五歳になったか。下は母親のお腹の中で育っている最中だ。
そんな一家も食糧難は免れない。
そして武松は体力と引き換えたのか致命的なまでに不器用だった。木の実拾いはいいが、魚も釣れず霞網で小鳥も捕れない。雑役で余所の家から幾らか分けてはもらえたが限度がある。食糧を余している家など今年はどこにもいないのだから。
「山芋探しに行ってくるばい……」
武松は土間にある鍬を手に取り妻に告げた。山芋掘りは得意分野だ。見つけられさえすれば武松一家の台所も良くなる。身重の妻はあの滋養の塊でなんとか生き延びているようなものだ。
「おまんさぁ、雪ん中、見つかるもん? そいより、小川でシジミでも浚ってきて欲しかぁ」
妻が大きなお腹を揺らさないように近づいてきた。頬はこけ、顔色も悪い。このままでは嫌な未来を想像するばかり。
五歳の新太が裾を掴んでついてくる。こちらは元気だが、やはり痩せすぎだ。
「見つからんばそうするったい」
「おっとー、おいも行くー!」
「坊? わいにゃあまだ無理ばい」
新太が飛びかかってくるも、武松は揺るがず受け止める。この子は父親に甘えるのも上手だった。
「おいも行くっけん! おっかーにうまいもんめっけるばい!」
「わーった、わーったけ。温い恰好し。そい籠も持たんば」
「あい!」
元々大きな瞳が痩せ細ったためにいっそう大きく見え、女の子にも間違われる愛らしい顔に隈をつくっていた。
山道が埋まるほどこの辺りはまだ積雪しておらず、籠を背負った新太の足取りは悪くない。山道から見える範囲の山芋は取り尽くしてしまったが、武松は木の幹に絡まる蔓に目を配りながら新太の手を引いた。
この子が一緒にいる以上山奥には入れない。早々に切り上げシジミ採りをしたほうが良さそうだ。そう考えながらも気づけばそこそこの深さまで来ていた。
少し開け、実のつかない樹木が多い場所に出た時だった。
「おっとー、疲れたー」
「ほうじゃなー。少し休まんね。坊、こっちゃこう」
籠を降ろした新太を膝に乗せると、振り向きニカっと歯を見せ笑いかけてきた。
「おっとー、温いけぇ」
この可愛い盛りの息子にも腹いっぱい食べさせてやりたいのに、それを許さない現実と自分自身が腹立たしい武松だった。
そんな時に差す。魔が差す。
――もしこん子がおらんようなれば……家内にもっと食わしてやれる。腹ん子にも栄養が行くじゃろう……おいもギリギリまで削っとおが、そろそろ限界やろうもん……。
――いやいや、なん馬鹿んこと考えっちゅうが……しかし……。
「坊、あん木ぃば見やんと」
「あん木ぃがどぎゃんしよっと?」
父の差す木を見ても何の見当もつかない五歳児はきょとんとするばかり。なんぼなんでもそこらの木が食べられないことは知っている。
「あいはモクレンっちゅうが、雪が解けた頃、白い花が咲きよる」
「雪のうなって、また白くなるが?」
「ああ。赤が混じるやつもあるが、ここんあるは全部白か。そいで、間違うて冬に咲く花があるったい」
「あはは、アホな花もおんね」
ツボに入ったのか、コロコロと笑う。
「そいじゃき、馬鹿んできん。間違うて咲くやつは食えっけんね。そいもべらいうまかよ」
「お、おお。おいモクレンば探す! おっかーに食わしちゃるけん」
「任せるばい。こい先、みんなモクレンばい。気張って探しや。おっとうは山芋探してくっけん」
「あい!」
籠を背負ってモクレン並木に突撃していく小さな姿。それは武松が生きてる新太の姿を見た最後。
一人の父親が我が子を見殺しにした結果が残る。それだけではなく――
「新太坊! 新太坊! 目を開けんしゃい! おっかあじゃ! 新太坊!」
「おっかー、モクレンの花ば……めっけるけん……食べやん……」
「坊ー!」
降り出した雪に埋もれている中、突き出た籠を見つけた母親は愛する我が子の姿に絶望する。掻き抱くも体温は感じられず、意識は混濁していた。
降る雪はやがて吹雪となり、懐妊中にもかかわらず無理をした母親に容赦しなかった。
独り帰ってきた武松を激しく罵った妻が身重の体で山に入り、やはり帰らぬ人となる。里の男衆で捜したところ、折り重なって息絶えている母子を見つけるという最悪の結末。碌に探しにいかなかった武松を里の民は総出で詰ったという。
◆ ◆
まだ陽は高いはずなのに、何となく背筋に肌寒さを覚え達彦は意識を戻す。そう長いことぼんやりはしてなかったように思う。
現に帰ってみると視線を感じる。それは祖母と娘しかいないはず。ぼんやりした自分を心配させたかと思い、笑顔を向けようとした。
ところが絶句する。天使と見紛う愛らしい娘が虚ろな表情をしているのだ。黒い瞳が白く濁っているのが異様さを増す。達彦は驚愕し目を丸くすることしかできなかった。
更にはその虚ろな天使から発せられた言葉に戦慄させられる。
「おっとー、モクレンの花ばめっからんき、どぎゃんしよ」
和モノ布教し隊の和モノ春花企画に参加いたしました。
頂戴したお題目に添って書くことができるのか、ひとつ勉強になったと思います。




