【漢字一文字】ピアス 〜あなたは誰ですか〜
綾乃は床にきらりと光るものを見つけて、掃除機を持つ手をとめた。
花びらの形をした薄桃色のピアスだった。綾乃のものではなかった。
つまみあげると花びらは西日を受けてほんのり赤らみ、かわいらしくゆらゆらした。
「ただいま」
哲生の澄んだ冬空のような、からっとした声がして、綾乃はピアスをポケットに隠した。
買い物袋を下げた哲生は冷たい外気をまとっている。
「寒かった?」
「三寒四温で言うなら温のほう」
マフラーを取ると哲生の真っ白な首筋が綾乃の眼に鮮やかに飛び込んできた。
伸びすぎた後ろ髪が耳の下で柔らかく前方にカールしていてそれがきっとこそばゆいのだろう、桃色の引っかき傷が縦に三つ走っている。
「でも夜は冷えるらしいよ」
コートを掛け終えると、哲生はしっかりと袖をまくって石鹸で手を洗い、音を立ててうがいをした。
そして外で着ていたものを躊躇なく全部脱いでしまって、洗濯カゴに投げ込んだ。
哲生は綾乃の目の前でいつもそうした。綾乃が見ているからどうだなんて考えもしないかのようだった。
「じゃあ今日のバイト休むことにする」
綾乃はやかんを火にかけながら言った。
哲生は部屋着のズボンに半分足を入れたまま顔を上げぽっかり口を開いて
「どこか悪いの?」
と目を丸くした。
青いトランクスのお尻を出したまま見上げる哲生が間抜けでおかしくて綾乃は笑った。
哲生はますます目を丸くして首をかしげた。
「うそだよ。紅茶がいい? それともココア?」
底の平たいやかんはすぐにヒステリーな叫び声を上げる。綾乃はいそいそとマグカップをお盆にのせた。
「ココアがいい」
哲生は太陽のように明るい笑顔を見せた。綾乃はまぶしくて仕方がないといったように目を細める。
「ねえ、本当に行かないの?」
哲生はマグカップを両手で囲んで息を吹きかけた。白い湯気の塊が風の形に揺れて流される。
「行くよ」
綾乃は熱い紅茶をすすり上げた。
「遅刻するよ」
見あげると時計は十分前を指していた。綾乃はあわてて立ち上がりコートと鞄を引っ掛けた。
「いってらっしゃい」
ココアの湯気に顔をうずめた哲生の目が綾乃を追いかけた。
綾乃は右手を上げて応え、外へ飛び出すと胸いっぱいに冷たい空気を吸って階段を駆け下りた。
もう息が白い。綾乃は左の耳にピアスを引っ掛け自転車を出した。
それからアパートを見上げて
「寒の方だよ、哲生」
と呟いた。