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短編小説

ホワイトシチュー

作者: 怜梨珀夜


 嫁がさ、妊娠したんだよ。結婚三年目、初めての子供だ。

 会社から帰ってきていきなり報告されたからさ、俺もう嬉しくて、疲れなんてぶっ飛んで小躍りしちゃったよ。


 確か二か月目くらいかな、つわりがひどくてさ。その頃の嫁、座ってるだけで辛そうだった。立ち上がろうもんならこっちにフラフラ、あっちにフラフラ、危ないったらありゃしない。

 そんな調子なのに俺の食事作ろうとするからさ、叱って無理やり寝かせたんだよ。

 そしたらさ、嫁、泣きながら俺に謝るんだよ。ごめんなさい、何もできなくてごめんなさいって。

 バッカヤロウ、何かしてもらうために結婚したんじゃねぇよ。いいから今は俺に任せて、体大切にしとけって言ったら、じゃあ一段落ついたらまた頑張るねってニコニコしながら言うんだよ。俺なんかにゃ過ぎた嫁だよまったく。


 そっから半年ぐらいだ。だいぶ嫁の腹がでかくなってきた。どうやら女の子らしい。名前はあれにしようこれにしようって言って、A4サイズのコピー用紙五、六枚びっちり埋めてやがってさ。バッカヤロウ、何人産むつもりだって笑っちまった。

 まぁ、俺は俺で、まだまだ先だっていうのに、休みのたびにオモチャやら何やらしこたま買ってきて、嫁に見せびらかしてたな。今思えば、相当浮かれてたと思う。嫁はずっと笑ってた。


 楽しみだった。俺と嫁の血を分けた赤んぼが生まれるのが、楽しみでしょうがなかった。世界のすべてが、俺に味方してるような気さえしてたんだ。

 そんな幸せが奪われるなんて、その時の俺は、これっぽっちも考えてやしなかった。


 嫁はある日の午後、信号無視で突っ込んできたバイクにはねられて死んだ。


 嫁の両親は、その時一緒にいた嫁の友達をめちゃくちゃに責めてたけど、違うんだよ。その子は何も悪くない。

 昼間っから酒飲んでて、時速百キロもかっ飛ばして向かってきたバイクなんかに生身でどうにもできっこねぇって。相当な酒気帯びだったってな、ヘドが出るよ。


 その時の嫁な、俺の誕生日にってプレゼント買いにいってたんだよ。俺に内緒で、友達に同伴頼んで。俺と二人でよく行ってた、ショッピングモールにさ。

 そう。

 あの、よく知ってる交差点で。

 切り替えが早すぎて、渡ってる途中で点滅しだすせっかちな信号機のある、あの場所で。

 嫁が。

 嫁の体が。

 天空から吊り上げられたように、宙を舞う。

 硬いアスファルトに、背中から落ちる。

 横断歩道の白線が、真っ赤に染まる。


 甲高い悲鳴。狂ったように鳴り続けるクラクション。嫁のくぐもったうめき声。

 嫁は、最後まで、腹を庇って。最期まで、子供を、庇って。


 嫁は、動かなくなった。


 ……だから、俺のせいなんだよ。全部、全部さ。

 酔っぱらってたクソ野郎は、もちろん殺してやりたいほど憎い。いや、あいつももう死んでるけどな。

 とにかく、嫁が死んだのは俺のせいなんだよ。俺が悪いんだ。

 よっぽど自分をブチ殺してやろうかと思ったけど、どうしてもできなかった。

 ヘタレ野郎だろ、笑ってくれよ。……笑えねぇか。


 嫁の友達は、どんなのがいいか言ってくれれば買ってくるよって言ったけど、嫁は直接選ぶって言って譲らなかったんだってよ。

 バッカヤロウだよな、ホントに。

 俺は何も要らなかった。嫁と、赤んぼが元気で笑ってればそれでよかった。

 他のものなんて、何一つ要らなかったのに。


 葬式の時のことは、なーんにも覚えてない。気がついたら俺は喪服で、骨壺持って家の玄関に立ちすくんでた。全部、終わってた。

 なんとか家に上がって、リビングの椅子に座ったけどさ。

 広いんだよ、すっごく。

 一人だと。

 当たり前だよな。夫婦二人だけじゃなく、子供のことも想定して家買ったんだから。


 なんかさ、それで気づいちゃったんだよ。

 このポツンとした広さは、寂しさは。丸ごと、嫁の存在の大きさそのものだったんだって。


 信じたくなかった。現実なんて、見たくなかった。

 だから俺、呼んだんだよ。震える声で、嫁の名前を。


 そしたら、台所ではーい、って間の抜けた声が聞こえたんだよ。


 そりゃもうびっくりしちまって、さっとそっちの方見るとさ、嫁がいるんだよ。

 いつもと変わらない笑顔でさ、鍋の中かき混ぜてんの。一瞬全身から力が抜けそうになったけど、嫁の体、透けてんの。

 ああ、もう死んでるんだなって思ったよ。


 そんで嫁がさ、言うんだよ。赤ちゃん駄目だったけど、でも約束したから。一段落ついたら頑張るってね、って。

 バッカヤロウ。何が一段落ついたらだよ。

 確かについたよ、全段落。

 終わったんだよ、何もかも。

 お前、死んじまったんだぞ。なに俺の心配してんだよ。俺のせいで死んだようなもんなんだぞ、お前。


 ……分かってるよ、俺だって。俺が何かしたわけじゃない、俺が悪いわけじゃないってことなんざ。

 でも、心がついてかないんだよ。

 俺さえ誕生日じゃなかったら嫁は死ななかった。

 事前にプレゼントを断ってさえいれば嫁は死ななかった。そもそも、外出禁止にしておけばよかったんだ。


 怒られたって嫌われたっていい。怒鳴りつけて、友達にも根回しして、家の中に閉じ込めておきさえすれば。


 嫁は、死ななかったのに。


 そうブチまけたら嫁、やっぱり優しいね、って笑うんだ。バッカヤロウ、どこが優しいんだよ。死んじまった自分の嫁に、バカなんて言うような男なんだぞ。

 そう言ったら今度はあいつ、あら、あなたの「バッカヤロウ」は私、「愛してる」って意味だと思ってたんだけど? だと。

 バッカヤロウ。そんなわきゃねぇだろ。言いてぇことは、そのまま言うっつうの。

 愛してるよ。

 大好きだよ、お前のことが。

 今までも、これからも、ずっとずっと。


 そしたら嫁、笑ってんの。泣きながら笑ってんの。そんでさ、私の分まで幸せになってね、とか言うの。

 幸せになんかなれねぇよ。

 もう地球上のどこ探したって、お前はいないのに。


 逝かないでくれとか、俺も一緒に連れていけとか、いろんな言葉が頭ン中グルグルすんだけどさ。俺の口から出たのはどれでもないんだよ。ふっつーの言葉なんだよ。

「ありがとう」

 それ聞いた嫁、顔グッシャグシャにしてさ。

 私の方こそ、ありがとうって言って、どんどん薄くなってくの。

 そんでさ、あちこちどんどん崩れてくの。華奢な足が、八重歯の覗いた口が、ゆるく巻いた短めの髪が、崩れてくの。

 例えるならそうだな、あの、桜の花びらが散る感じ。あんな感じで、ほころんでくの。


 そんでもっぺん、ありがとうって。そう言って、嫁は消えた。


 嫁が消えたあとさ、嫁が立ってた台所からいい匂いがするんだよ。ミルクとか、コンソメとか、にんじんとか、数えきれないぐらいの香りが混ざった、とろけるように甘い、惹きつけられるような匂い。その匂いがさ、すっげぇ懐かしいの。

 フラフラしながら台所に行ったらさ、鍋の蓋のちっこい穴から湯気が出てんの。

 おそるおそる開けたら、できたてのシチューが入ってた。

 俺の大好物。そんでもって、嫁の得意料理。

 クリスマスに、誕生日に、バレンタインに。結婚するずーっと前から、何かしらのイベントがあるたびに嫁が作ってくれてた料理。

 その匂いを嗅ぐだけで、そのやさしい色を見るだけで、今までのことが津波のように襲い来る。

 何年経とうが、いや何十年経とうが、きっと。

 俺の心が、覚えてる。


 もう目の前がグシャグシャに歪んで、息もできないぐらい泣きじゃくったよ。超常現象だとか幽霊だとかそんなのどうだってよかった。

 俺の嫁が、俺に好物作ってくれたんだよ。いったい何の不思議があるんだ?


 その時の嫁のシチューは、最高に旨かったよ。あの味は絶対に忘れられない。



 ――そう思ったところで、頬の痛みで目が覚めた。


 目を開けたら、ふくれっ面の娘が両手で俺の頬をさ、力いっぱい引っぱってんだ。

 そりゃもう、(いて)ぇのなんのって。三歳児ってかなり力強いのな。


 おはよう、って言ったら、ねぼすけ! って怒られた。

 寝ぼすけったって、まだ十時だってぇの。残業明けの休日ぐらい、もうちょっと寝かせてくれたっていいと思わんか?

 まぁさすがにご機嫌斜めなワガママ姫を置いてさ、もう一回寝るわけにもいかねぇからな。下のリビングに降りたんだよ。

 その降りてる途中でさ、すっげぇいい匂いがしてくるんだ。あのとろけるようにやさしい、惹きつけられるような匂いがさ。


 台所では、嫁がメシの支度してくれてた。嫁、透けてない。

 パパ起こしてきてくれた? ってなんだよ、小さな怪獣けしかけたのお前かよ。

 お仕事お疲れさま、早起きして作っちゃった。好物でしょ? って言って、嫁が出してくれたのは野菜や肉がごろごろ入ったホワイトシチューだった。

 バッカヤロウ、余計な気ぃ回しやがって。お前だって、家事やら娘の相手やらで疲れてるくせによ。

 だいたいシチューなんて朝に食うもんでもねぇだろ、って言ったら夜の分もあるわよ? だってさ。敵わねぇよな、ったく。


 パパにやけてる! って、うるせぇやチクショウ。お前だってママのシチュー大好きだろうが。


 ……あ、夢オチかよ死ねって思ってる? だろうな。

 俺だって、チクショウベタなネタ使いやがってって思ったよ。まぁ、夢でほんとによかったけどさ。


 なんとなく嫁の名前呼んだらやっぱり、はーい、何? って間の抜けた返事が返ってきた。思わず笑っちまったよ。


 娘と一緒に食べた嫁のシチューは、夢ん中と同じ味がしたよ。

 最高に旨かった。


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