優しき鳥籠***
†††
重たそうな過去を持つゾフさんの話を聞いた後、あたしはどうにかこうにかバンパイアの話題から離れようとした。
なんとなくだけど、ゾフさんの雰囲気からもあまり触れられたくないのだと伝わってきたし。
他にもいろいろと聞きたいことはあったけど、とりあえず今は貴族社会であたしがどういう立ち位置にいて、どんな作法が相応しいか、ということを叩き込んでもらった。
とは言っても、いっぺんに覚えられるのは限度がある。
基本所作や貴族風の言い回しだけを何度も何度も繰り返して覚えた。
昼食を摂った後の授業はそれだけであっという間に過ぎ、気づけば窓から差し込む日射しが低く傾いていた。
「では、今日のところはここまでに致しましょう」
「はい。ありがとうございました。……うう、頭がパンクしそう…」
人生でここまで一気に知識を詰め込まれたことはない。
「ふふ。初日にしては飛ばしすぎましたか。でもお嬢様の呑み込みの早いので、こちらとしては嬉しい限りです」
ゾフさんのこの言葉は絶対にお世辞だ。
だがそう言われると頑張りたくなるのも人情である。
「そ、そう慰めて下さるとあたし……私も嬉しいですわ」
期待に添えるよう、口調を直してみた。
言葉ってけっこうボロが出やすいし、普段から気を付けてみようかな。
それにしても、やっぱり今日のことを覚えきれたかどうかは微妙だ。
そもそも勉強するという行為が庶民の基礎学校以来で慣れない。
何度も飽きそうになって、その度にゾフさんが用意してくれる美味しそうなお菓子やデザートに釣られてなんとか頑張った。
出された甘味たちは、貴族お抱えのシェフが作っただけに非常に美味しかった。
……ワンピースドレスのお腹がちょっとキツい。
この一日でどれだけ甘いものを食べてしまったんだろうか。今さら後悔しても遅いけど。
美味しいお菓子やデザートがあっても、なんでこんなこと覚えなきゃいけないんだろうという反抗心はあるにはある。
……けど、教えてくれているのがゾフさんだとなんとなくその気は萎えた。
相手が伯爵様だったら文句ぶーぶー言えただろうに。
もしかしてそこら辺も見越してたんだろうか。ちょっとだけゾフさんに疑惑の目を向けると、にっこりと微笑まれた。
………くそぅ。いい人選したな、伯爵様。
礼儀作法や歩き方以外はずっと座りっぱなしだったから、お尻や腰が痛い。
凝り固まった身体を伸びをしてほぐしながら、気付いた。
「ゾフさんとクラサス様は大丈夫ですか!?」
「………は?」
「なにがですか?お嬢様」
突然慌てはじめたあたしを、クラサス様とゾフさんが怪訝そうに見つめた。
なんてことだ。迂闊だったというか、自分のことばかりで周りへの気配りを忘れていた。
見る限りお二人の表情に疲労の色は窺えないが―――
「だ、だって……お二人ともずっと立ちっぱなしで……ゾフさんは私に付きっきりで、座っているところを見ていませんし……クラサス様も一度他の騎士様達と交代してから、それ以降ずっと休まれていませんでしたし……」
言いながら声が尻すぼみになった。
人からあんまりにも凝視されたら、誰だってこうなる。
余計なお世話だったかもしれない。ゾフさんにはまた、そんな所まで干渉してはならないと、やんわり指摘されるかもしれない。
何事も上手くいかないなぁと項垂れて、叱られるのを待った。
「我々は慣れておりますから大丈夫ですよ、お嬢様。……それでもご心配下さり、ありがとうございます」
「…そ、うですか……」
良かった。
若干呆れた声色だけど、昨日の夜みたいな拒絶…というか壁みたいなものは薄くなっている……気がする。
希望的な観測なんだけどね。
ホッとして顔を上げると、ゾフさんの肩越しにある窓を通して、黒い馬車が見えた。
その馬車はゆっくりこちらに向かって来ているようだ。
多分、伯爵様の馬車だろう。
「伯爵が帰られたようですね」
クラサス様の言葉で、あたしの予想が正しいことを知る。
いつの間にか皆で窓の外を見ていた。
夕方の普通の光景だ。
まぁお城がこんなに近いことが普通かと言われるとうーんと唸りたくなるけど。
しかし、その光景に引っ掛かりを感じてもう一度窓をじっと観察する。
景色が歪むほどの分厚い硝子越しでも、夕陽がオレンジ色の光を振り撒き、白いお城を優しく染める様は美麗の一言に尽きる。
木々や建物の影が長く伸び、その中を豪奢な馬車が悠々と進むのも合わせて、窓枠で切り取った動く絵画のようでもあった。
………これといって、外の景色に変なところは見当たらない……
「では私は伯爵をお迎えせねばなりませんので、クラサス様、お嬢様をお頼みします」
ゾフさんの言葉で我に返り、諦めて窓から視線を外そうとして―――やっと気付いた。
「…あ……ゾフさん」
思わず呼び止めると、ゾフさんは退出しようとしていたのを止めて、あたしの方を見た。
「はい。お嬢様?」
あたしが喋るのを待つように首を傾げて佇むその姿が、出入口近くの本棚の前にある。
本棚に張られた硝子を見れば、中に納められたたくさんの本の背表紙が見てとれる。
もう一度、あたしは混乱したまま部屋のほぼ全体を写す大きな窓硝子を確認した。
そこにはあたしのびっくりした顔と、クラサス様が腕組みしてこちらを見ている様子が写っていた。
けれど。
「……姿が、ゾフさんだけが、硝子に写ってない……です」
びっくりして、途切れ途切れに話すのが精一杯だった。
†††
バンパイアは鏡や硝子、水面などに姿が写らないそうだ。
ゾフさんの場合、魔力が無いだけで、肉体自体はバンパイアであるから鏡や硝子に写らないらしい。
「そういえば言っていませんでしたね。別段隠していたわけではないのですが、当たり前のこと過ぎて忘れていました。……バンパイアを見分けるには一番わかりやすい方法なので、しっかりと活用してくださいね」
と、ゾフさんに念をおされた。
…いやいや、ゾフさん。そんな知識どこで活用するんでしょうか。
普通の人かバンパイアかを見分けなきゃいけない立場って、どうしても危険な香りがします。
…あたしはそんなに、バンパイアを警戒しないといけない立場なんだろうか。不安だ。
「やぁ!帰ったよ。お出迎えとは嬉しいなぁ、子羊ちゃん!………………えーと、何だい?」
じぃっと睨み付けるように、ハイテンションな伯爵様を観察した。
うん。優美であるはずの笑顔がどこまでも軽薄そうに見える。残念だ。
そして、近くに嵌め込まれた窓を見ると、そこにはあたしの顔が見返すばかりで、目の前にいるはずの超絶美形の姿が見当たらない。
なんだか変な気分だ。
もう一度じぃっと伯爵様を観察した。
窓ガラスの世界には、あたしだけで立っているのだ。本当に目の前の人は、存在しているのだろうか。
「……そんなに熱く見つめちゃって、もしかして僕のことがお気に召したのかな?」
嬉しそうに薄い唇で微笑まれた。
…どうして睨み付けられてそう思えるのか。甚だ疑問だ。
下町の友人相手なら「ウザイ」と一言で切り捨てられるんだけど、目の前にいる人は貴族。しかも目上の人だ。
反射的により強く睨みを利かせ、直ぐに事情を話すことにした。変な解釈されたままは嫌だ。
「今日、ゾフさんからいろいろと教えてもらって。バンパイアの方は鏡に写らないというのを初めて知ったので、伯爵様もそうなのか確かめに来てみただけです」
「ああ。その見分け方はこれからの君に役に立つだろうね」
…もう深く考えないことにしよう。
「でも鏡やガラスに写らないなら、どうやって自分の顔を見るんですか?」
自分の顔が見えないって不便な気がする。
化粧とかへアセットとかどうするんだろう。
あ。バンパイアという魔法持ちはどういうわけか男性しかいないから、化粧は考えなくてもいいのか。
そもそもバンパイアの方=貴族だから、へアセットやら身だしなみやらはメイドさんとかに任せればいいのか。少なくともお城のバンパイアは不自由しなさそうだ。
自分で訊いておきながら一人納得していると、手袋をしたままの伯爵様の手でクイッと顎を軽く持ち上げられた。
驚いて目を見開くと至近距離にコンスタンティン伯爵の顔があった。
「こうやって見るんだ」
「はぁ?ってか、近いです。放してください」
これでもかなり抑えたけど、口調も心拍数も乱れた。
もちろん恐怖で、だ。
バンパイアにここまで接近されて気づかなかったなんて。迂闊だった。
町でそれらしい人がいるときは、かなりの距離を置いても知覚できていたのに。
たった1日で慣れるほどのバンパイア嫌いではないはずなんだけど。
伯爵様はあたしの鋭い口調に堪えた風もなく、すぐにあたしを解放して肩を竦めた。
「どうやって僕らバンパイアが自分を見るのか、君が訊いたから実践してあげただけだろう?僕らが自分を見つけることができるのは、生き物の瞳の中だけだ…ってね」
あたしがあからさまに数歩下がっていく様子を薄く笑いながら、伯爵様はご丁寧に解説してくれた。
「そう…なんですか」
実践なんて望んでないっ!そしてあたしを鏡代わりにするなッ!
この人、絶っっ対あたしの反応を見て面白がってるじゃん!!
心の中では悪態の嵐だ。
相手は貴族、相手は貴族と、呪文のように自分に言い聞かせる。
距離を詰めてくることを警戒して睨み続けた。
伯爵様はまたニヤニヤと笑いながらあたしを観察して、不意に興味が失せたように目を転じた。
「ゾフ、面会の日が決まった。明後日と明明後日だ。形にはなりそうかい?」
「ええ。お嬢様はとても飲み込みが早いので」
「ふぅん。そうなんだ」
またもやあたしを見て薄く笑う。
綺麗すぎて怖いという美貌の微笑みも、こう何度も見せられると慣れる。というか飽きる。
恐怖を感じなくなったのはいいけど、小馬鹿にされているように思えて「ケッ」と言いたい気分だ。
だが今は細かいことにかまけている場合ではないのだ。
「…面会ってなんのことですか」
なんとか気を落ち着かせて、あたしを置いて進んでいく話にストップをかける。
「ああ。『血の祝福』として君は方々に挨拶回りをしなければならないからね。
まずは明後日には、ルビウス殿下」
「待って!ルビウス殿下って、もしかして第二王子の!?あのルビウス殿下!?ですか!?」
あたしの動揺ぶりにまるで頓着せず、伯爵様は頷いた。
「そうだよ。あの第二王子以外、いま王宮でルビウス殿下と呼ばれてる人はいないだろう?」
いや知らないですよ。お貴族様のことなんて。
でもルビウス殿下はあたしでも知っている。
第一王子ジークヴァルト皇太子殿下の弟で、軍部の総司令官である方だ。凱旋パレードでしかお見かけしないけど、柔らかな笑顔を浮かべていた皇太子殿下に比べると、なんだか強くて厳しそうな方だった。
「な、なんだってそんな方と……」
王族っていうだけで尻込みするのに、よりによってあの怖そうなルビウス殿下なんて。
こちとら庶民なんだから、もっと手加減のある人を選んで欲しい…。
「この屋敷も城の一部だからね。ここに住まうには王族の誰かの許可と後見が必要なんだ。書類上は許可されてるんだけど、明後日に正式な儀式が行われるってわけだ」
ええー。その正式な儀式とやらは、普通の位のお役人さんじゃ駄目なんだろうか。
…駄目なんだろうなぁ…。
伯爵様は甘いようでいて、まったく隙のない笑顔を浮かべているし。
あたしが何も言えないでいると、伯爵様はまた続きを話し出した。
「子羊ちゃんなら大丈夫だよ。なんたってゾフのお墨付きだしさ」
たった1日でなにが分かるのでしょうか。
ゾフさんのさっきの言葉はあからさまにお世辞じゃないの。
でも多分、伯爵様もそんなことは知ってて言ってるんだろう。
けれど王城の決定事項だから、伯爵様も無理とは言えないのだろうし、それならあたしが駄々をこねたところでどうにもならない。
貴族がこちら側の事情を汲んでくれるわけがないのだ。
「そう緊張しなくても明後日の儀式は定型文句があるし、君のセリフは短い。1日で所作も含め、なんとか詰め込めるだろう。それより問題の面会は明明後日だ」
「どんな問題ですか?」
あたしが言わなければいけないセリフが多いとか、準備期間がないとか?
もしくは伯爵様やゾフさん、クラサス様、マリーさん、その他の使用人の方のように、溢れんばかりの気品を兼ね備えろとか言われるんだろうか。
どれも一朝一夕で身に付くものない。
けれど伯爵様が危惧していることはそんなことではないようだ。
「明明後日の面会は非公式なものだからね。礼儀作法はそれほど重要ではないんだ。10日後に行われる『血の祝福』を迎える儀式のための打合せだ。
――つまり、君は他のバンパイア達ともその時に顔を合わせなければならない、ということだ」
伯爵様の漆黒の目がこちらを真っ直ぐ射抜いた。
その真剣な姿勢に気負され、ごくりと唾を飲み込んだ。
「そ、んなに危ないんですか…?」
「そうだね。君の血は、僕らにとってとても美味しそうな匂いがするからね…」
伯爵様は少し目を伏せた。
男のくせに長い睫毛が伯爵様の頬に濃い影を作った。
あたしはその時初めて悪感情なく、ただ単純に「綺麗だ」と思った。
本当に、息が詰まるほどに綺麗だった。
しかしその物憂げな雰囲気はすぐに霧散し、伯爵はパッと視線を戻した。
その急激ともいえる変化に驚いて瞬くと、伯爵様とがっちり目が合った。
良いことを思い付いたと言うように、その瞳はキラキラとしている。
……嫌な予感しかしない……
「そうだ!君が僕に恋をしたらもっと美味しそうになるのかな?ねぇ、僕のこと好きになってよ」
「ふ、ふざけないで!!絶対好きになるもんか!!」
反射で言い返して、敬語はぶっ飛んだ。
シリアスな雰囲気を醸し出したと思ったら、結局それかい!!
うっかり綺麗だとか思った三秒前の自分を取り消したい。
そもそも前後の繋がりがまったく分からない。なにが「そうだ!」なんだか。
色気をふりまいて迫ってくる様は確かに優美だが、言ってることが酷すぎてまったくときめかない。どこまでも残念だ。
「そうやって焦らさなくても、僕は君の虜だよ?」
「うわっどこまでもウザい!!ですね!!」
さすがにまずいと思って、慌てて口を塞ぐ。
勢いのまま出てきた本音を誤魔化そうと、丁寧な語尾を付けてみたけど……今の、完璧にアウトだよね?
しかし冷や汗をかいたのは一瞬だった。
「ふふっ可愛い囀ずりだね。小鳥ちゃん」
―――コイツ殴りたい。
そう思ったのが、あたしだけじゃないことを祈る。
………まぁでも。
鳥っていうのは、いい比喩だ
†††
「もういいです。今日は疲れたので失礼します!!」
一応今日習ったばかりの貴族風の礼を形ばかりにして、オリヴィアはプンプンと歩き出した。
「任せた」という視線を受けてクラサスも礼をしてその後を追った。
同じくオリヴィアに付いてきたマリーもそそと振る舞っているため、辺りはとても静かだ。
静寂ばかりがある廊下で、しばらく軽い女性達の足音と重い軍靴の音だけが響いていた。
事前に告知されていたよりも面会が早まったのは、今日の彼女を“視て”決まったのだろう。
『血の祝福』として連れて来られた娘は、塞ぎこんだり、オドオドとしてしまったりするだろうから、しばらくは様子見だと思われていた。
しかし予想に反してオリヴィアは気丈で、礼儀作法も城下町にいた頃から多少の素地はあったのか、レッスンの飲み込みも悪くない。
そんな彼女の授業中の様子は、どうせ千里眼を持つ魔法持ちに今日一日観察され、城に筒抜けだった違いない。
伯爵をこんな夕刻まで本殿に留めたのも、伯爵の魔力で干渉させないため、目の届くところへ呼び寄せたのだろう。
とにかくオリヴィアは平凡で従順な、予想よりも手間のかからない町娘だった。
それが分かった上層部はさっさと雑事を済ませようと面会の日をぐっと早めたのだろう。
彼女が努力すればするほど、嫌がっているバンパイアとの接触に近づいてしまっている。
事実を教えられないことを申し訳なく思った。知らせたところで、いやがおうにもバンパイアと接触する日は逃れられないのではあるのだが。
そして彼女の従順さや平凡さを悪く言い換えれば、これといった印象がない、とも言える。
クラサスにとって益にも害にもならないオリヴィアは、護衛対象でなければ認識もしなかっただろう存在だ。
けれど、さきほどの伯爵との言い合う彼女は強く印象に残った。
しっかりとした意思を持ち、誰もが惑わされる美貌に真っ向から楯突いたのだ。印象に残らないわけがない。
垣間見せたあの威勢の良さこそが、彼女の素なのかもしれない。
……それを見た後だと、クラサスは自分と居るオリヴィアに違和感が生じ始めた。
具体的には言えないが、どことなく……
「……オリヴィア様」
心のどこかに据わりが悪いものを感じて、思わず声をかけてしまった。
しかし自分の職分を越える行為であることに気付き、すぐさま後悔する。
「はい?なんでしょうか」
けれどオリヴィア自身はそんなことに頓着しているようでもなく(――そもそも護衛の職分のさじ加減など、彼女は知らないかもしれないが――)、後ろを振り返った。
いくつも灯された柔らかい蝋燭の光の下で、紅茶色の髪が深みを帯びて腰元で揺れる。
それとなく今日の授業に参加して、自分とオリヴィアとの身分についても伝えたのだが、遠回しすぎていまいち理解されていないようだ。
本来バンパイア達の至宝である『血の祝福』は、近衛副隊長の自分より上の身分なのだから、わざわざ振り返る必要はない。顔など見ずに返事をすることが当然であるし、気に入らなければ一言で黙らせることもできる。
しかし、どうやらオリヴィアは話している相手の顔をじっと見つめる癖があるようで、誰が話し掛けても自らが動いて、相手と真正面から顔を合わせる。
昨日急に街から連れて来られたばかりだから、貴族のように振る舞えないのは仕方ないと思うが。
―――それも、あと一年したら変わるだろうか。
「クラサス様?」
沈思した自分を真っ直ぐな瞳が見つめていた。
こうして自分やゾフ、マリーと話すときは気品があるとまではいかないが、落ち着いていて分別のある娘なのだ。
さきほど伯爵に暴言を吐いたようには見えない。
……アレは、相手の伯爵の側に問題があるとは思うが。
なにはともあれ、こちらを見上げる様子は平静で、もう伯爵に対しても怒っていないようだ。
「コンスタンティン伯爵は」
ついて出てきた言葉に、またしても臍を噛んだ。これではせっかく彼女が水に流そうとしていたのも台無しだ。
案の定、名前が出ただけでオリヴィアの顔に一瞬苦みが走り、鎮火しかけていたものを掘り起こしてしまったようだ。
「……伯爵はあんな態度ですが、アレであの人なりに貴女のことを気にかけているんですよ」
「……?……ああ、あたしが『血の祝福』だから、ですよね?」
唐突に始まった話題にオリヴィアは怪訝そうにしている。
「そういった面もあるとは思います。しかし、それだけではありません。伯爵はかなり若作りで誤魔化されがちですが、あれで数百歳は越えた方ですから、老獪さと根性の曲がり具合では王城でも一二を争います」
「それ、誉めてますか……?」
「誉めてます」
真顔で言い切ったら何故かオリヴィアの顔が引き吊った。なぜだろう?
そういえば実兄からよく「お前は思ったことをそのままズバズバ言い過ぎる。女性にモテないぞ」とたびたび忠告されていた。
まったく失礼な話だ。
自分で言うのもなんだが昔から女性にはモテるし、何度か交際もした。
……なぜか長続きしないだけだ。
それはともかく、王城仕えで鍛えられた遠回しな言い方ではオリヴィアに伝わらないのは、今日の授業で確認済みだ。
「そんな伯爵があなたの第一後見人でありますから、王城での扱いも厚待遇を望めるでしょう」
「はぁ…そうですか…」
貴族の、とくに貴婦人たちなら伯爵と繋がりができたと喜ぶところで、オリヴィアはむしろ不安そうにした。
まだ貴族社会を実際に見たことがないから、伯爵が味方である事がいかに自分に優位に働くか分からないのかもしれない。
クラサスに合わせて相槌をうっているのが丸わかりだ。
「もちろん私どもも貴女のためにあります。どんな不自由もさせませんから、もっと遠慮せず言いつけて下さい」
クラサスとしては、オリヴィアの不安を取り除くための言葉であったし、またより彼女が貴族然として振る舞えるようにと思っての発言だった。
「…ええと……機会がありましたら、是非」
しかしオリヴィアはそう捉えなかったようだ。
どうしても彼女にはそれがただの社交辞令に聞こえ、自分が返すべき失礼のない言葉を探して、やっとこさ返したという感じでしかなかった。
口下手なことを自覚しているクラサスは、オリヴィアの不信をうっすら認識したが、なんと言って言葉を繋ぐべきか分からなかった。
どの言葉を取ってもオリヴィアに届かない気がして、歯痒い。
「…本当、ですよ?」
結局出てきたなんの捻りもないその言葉に、オリヴィアは困ったように苦笑した。
「クラサス様…もしそれが本当でも、嘘でも、ここが―――」
大きく周りを見渡すように身体ごとくるりと回って、オリヴィアは元の方向を向いた。
クラサスからはその背が見えるばかりで、オリヴィアの表情は見えなかった。
「――ここがあたしにとって、鳥籠であることに変わりはありませんから」
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重たい過去を嗅ぎ付けて、それを追及しないのは空気を読んでのことだと思った。
誰に対しても他人行儀なのは、まだまだこの生活に慣れていないからだと思った。
ただ従順に指示に従い、人当たり良い態度を崩さない。
クラサスの中で、そんな姿が先ほど揺らいだ。
過去を追及しないのは、こちらに深く関わるつもりがないのでは?
印象が薄いのではなく、印象を残すことすらしたくないのだとしたら?
―――どんなに住み良い鳥籠でも、この外へ行けないことに変わりはないのだ。
薄く頼りない背中から、そんな思いがこちらに伝わるような気がした。
そしてこちら側の誰にも心を許さないことが、自由のない彼女にできる、精一杯の抵抗なのだとしたら。
……伯爵に言い返したあの一瞬だけが、こちら側の人間に見せた唯一の、彼女の偽らざる姿であるのかもしれなかった。
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