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責任

「葉子、入るよ」

 水色のドアを開けて、ロフトへ続く階段を上る。

 飲み終ったゼリー飲料のゴミが、ゴミ箱にいくつかあった。

「少しは食べられてるんだね」

「うん」

 葉子は力なく返事をした。

「明日会社だけど、休む?」

「行ってみる。ダメそうなら早退すればいいし。培養してる菌がいるから、出社しない訳にはいかないんだ」

「そうか」

 身体を起こした葉子は、深くため息を吐いた。

「三つの中の一つ、決めたんだ。聞いてくれる?」

 居住まいを正して、葉子の方を向いた。「どうぞ」

「シングルマザーになる。一人で育てる。健ちゃんが就職してもまだ私を好きでいてくれたら、お父さんになってくれないかなぁ?」

 健人は暫く考え込んだ。思い描いていた返事は三番だったのだから。

「どうして就職が関係あるの?」

 静かに訊いた。葉子は頭の中で考えをまとめるのに少し時間が掛かった。

「だってね、健ちゃん、就職する時にもう子供がいます、とか、嫁がいます、なんてちょっと恥ずかしいでしょ?」

 やっぱり、そんな事だと思った。健人は頭を抱えた。

「俺は――俺は葉子がどうしたいかを一番に考えるって言ったんだ。俺の事なんて考えないでいいんだ」

「でも――」

「でもじゃない。それに、その時まで好きだったら、だって?好きに決まってる。だから俺は葉子の子供の父親になる事を望んでる」

 隣の部屋から漏れ聞こえてくる音楽の他には何の音もしない。どちらも声を発しない。

 健人は葉子を抱き寄せた。自分の目に涙が浮かんでくるのを悟られたくなかったからだ。

「俺の事なんて心配しないでいいから。大切なのは葉子の考えだ。俺はどうなったっていい」

 震える声はなかなか制御できず、葉子は健人の背中を擦った。背中はとても暖かく、片手で擦るには広すぎるなぁと、葉子は大きく手を動かした。

「三つ目。健ちゃんがお腹の子のパパになって。そして私をお嫁さんにして」

 今度は声どころではなく、全身が震えた。健人の双眸から葉子のベッドシーツへぽたぽたと涙が零れ落ち、吸収されていった。震える健人の身体を抱き、頭を撫で、初めて健人の弱い姿を葉子は見た。愛おしいと思った。

「健ちゃんが博士号をとって大学を出たら、バードハウスから出よう。三人で小さな部屋を借りて、一緒に暮らそう」

 健人は声なく頷いた。そして身体を離し眼鏡を外し、近くにあったティッシュで目蓋を押えた。

「恥ずかしいなぁ、こんな姿を見せて」

 葉子はその姿を目に焼き付けておこうと思った。

「私の為に泣いてくれた男の人、第一号」

「第二号は?」

「子供が男の子だったら子供だね」



「葉子、妊娠してるみたいじゃん」

 スミカはソファに腰掛けて、対面に座る晴人の言葉を待った。

「そうだな、しかも俺の種だな」

 フンと鼻で笑ったスミカは「男は進化しないね」と言った。

「学習能力が無いんだよ。種を撒くだけ撒いて、それが芽吹く事を学習しない。ほんっと、バカな生き物だと思うよ」

「そして俺は芽吹いた新芽を、弟に持って行かれる」

 晴人は首の後ろをぽりぽりと掻いた。「参ったな」

「俺の子供が、俺の甥か姪になるって事だな。何か複雑だな」

 スミカは冷たい目で晴人を見据えた。

「原因を作ったのは晴人でしょ。まだ健人が子供の父親になるって決まった訳じゃない。最悪の場合、葉子はシングルマザーになるかもしれないんだよ?養育費払える?もう少し責任感を持った方が良いよ」

 クッションを顔に押し付けて「シングルマザーかよー」と悔しそうに口にした。

「シングルになるぐらいなら俺を父親として迎えてくれないかなぁ」

 ついにスミカは晴人から視線を外した。

「無理でしょ、確実に」



 その日の夜、葉子が一日ぶりにリビングに姿を見せた。顔面蒼白で、健人に支えられながらよたよたと歩いた。

「葉子!」

 スミカが目を見開いて彼女を見ると、葉子は力なく頬を緩めた。

「話があって出てきたの」

 健人は葉子に肩を貸し、ソファに座らせた。スミカと晴人は向かいに座った。

「まだ産婦人科に行った訳じゃないけど、妊娠してるみたい」

 周知の事実だったので、スミカも晴人も静かに頷いた。

「もし生まれる事になったら、父親は健人になってもらうつもり」

 晴人は予想通りと思い俯き、スミカは驚いていて口を出した。

「だって晴人の――」

「そう、晴人の子。だけど晴人と夫婦にはなれない。でも一人で育てていく強さを私は持ってない。健ちゃんに、パパになってもらうの」

 健人は頷きもせず、ソファに身を沈めたまま中空を見つめている。

「健人はそれでいいの?晴人の子を自分の子としていいの?」

 視線をスミカにやった健人は、片側の口角を少し上げて笑いながら言った。

「よくさぁ、両親を事故で亡くした子供が、おじさんやおばさんに育てられるっていうの、あるでしょ。あれと殆ど同じだと思うし、俺は本当に自分の子供として育てていく自信がある」

 スミカは黙った。そこまで決意が固いのなら仕方がないと思った。

 晴人は俯いていた顔を上げて葉子に視線を遣った。

「葉子、なんつーか、ごめん」

 本当に悪いと思った。それ故に視線を外せなかった。それ以外に言う言葉が見付らなかった。葉子の双眸を見つめると、葉子の顔が優しく崩れた。

「いいの。一生ママになんてなれないと思ってたし、健ちゃんと一緒になる口実も出来たし、パンクな遺伝子も載ってるかもしれないし」

 予想外の砕けた語り口調に、皆笑った。母は強し?ってやつか?晴人は許されない過ちを犯しているにも関わらず、どこか許されたような気がして不思議だった。


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