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異変

 健人と付き合う前に取ったライブチケットがあり、健人の了承が降りたので晴人と葉子は二人でライブに行った。

 最寄駅のすぐ近くで、以前の様に「終電を逃した」なんて事にはならないからだ。

「ウォレットチェーン、どうする?」

 チェーンの先端を持つ晴人が、葉子を見下ろすように言うので、葉子は見上げる形で首を横に振った。

 一月も下旬に入り、外は痛いほどの寒さで、ライブハウス内は熱気を孕んでいるためか、気温差で葉子は体調が悪かった。

「ねぇ晴人」

 ざわつく場内で少し声を張り上げて晴人を呼んだ。

「なに?」

 葉子の顔の所まで晴人は顔を下してきた。

「ちょっとね、気分悪いんだ。多分気温差のせいだと思うんだけど。私、今日はあのドアの所にいるよ」

 場内の横にある赤いドアを指差した。

「大丈夫?」

 葉子は胃の辺りを擦りながら「悪い物でも食べたかな」とぶつぶつ言い、ドアへ向かった。

 ライブ中、葉子の様子が気になり、時々ドアの方を見遣ったが、葉子はライブどころではないと言った様子で、照明が当たる度にその顰めた顔が映った。


「体調悪そうだなぁ、風邪か?」

 晴人は葉子が気になっていて殆どライブに集中できず、汗もかかなかったので、持っていた乾いたタオルを葉子の肩に掛けてやった。

「風邪かもね。こんなに寒いんじゃ。昨日も遅くまでギターいじってたし」

 顰めた顔はなかなか元に戻らない。

「そこのベンチ座ってて。ロッカーの中身持ってくるからさ」

 晴人は足早にロッカーに向かった。葉子はベンチに腰掛け、壁に身を預けて晴人が来るのを待った。やっぱり体調がおかしい。

 二人分の上着と鞄を持った晴人が戻ってきた。葉子の肩に掛かったタオルを取り、紺色の上着を着せてやった。上からピンクのマフラーをぐるぐると巻く。

「ありがと」

 晴人は葉子の顔を見て心配を隠しきれない顔で頷いた。

 歩けないほどではないのだけれど、胃の辺りのムカムカが酷い。

「大丈夫?歩いて帰れる?タクシー呼ぼうか?」

 葉子は首を横に振った。「歩けるから」

 フラフラしながら歩く葉子を後ろから支えるようにして歩き、帰路についた。


「とりあえず今日はこのまま横になりなよ」

 身体を支えたまま、葉子の部屋に入った。ロフトの階段を上がり、葉子をベッドに寝かせた。

「明日休みだし、ゆっくり寝てなよ。スミカ達には明日の朝伝えておくから」

「うん、ありがとう」

 葉子はそれからしばらく、胃のムカムカが解消せず、ベッドで寝返りを繰り返していたが、やがて睡魔が襲ってきて、眠りについた。



「葉子が?」

「うん、ライブが始まる前から様子がおかしくて、結局ヘロヘロのまま帰ってきたんだけど。風邪かなぁ」

 三人で食卓を囲みながら話していた。葉子の分のハムエッグにはラップが掛けてあり、マグカップとトースト用のお皿は空だ。

「後で体温計持って行ってみるよ」

 どこにあるんだっけ?と訊いた健人は、スミカに「あの箱の中」と教えてもらった。


 体温計を手に、葉子の部屋のドアをノックした。返事はない。

「入るよ」

 一応告げた。もしかしたらまだ寝ているのかも知れない。それならまた後で来よう。そんな風に思っていたら、ロフトの上から「健ちゃん?」と蚊の鳴くような声が聞こえた。

「体温計持って来たよ」

 階段を上り、葉子が寝ているベッドの枕元に腰を掛けると、葉子は身体を起こした。

「風邪かなぁ。胃がムカムカするんだよね。起きたら治ってるかと思ったけど、だめだ」

 脇の下に体温計を差し込み、電子音がするのを待ったが、意外と早く音が鳴った。

「うーん、微熱ってとこだね。三十七度」

「微熱だね」

 体温計をケースに仕舞い、健人は葉子の背中を擦った。

「気持ちが悪い?」

「うん、そんな感じ」

「何も食べられそうにない?」

「普通のご飯は食べたくないな。下から上ってきたハムエッグの匂いにもウッってなった」

 健人は暫く無言で考え事をしていた。悪寒がした。

「変な事訊くけど、兄ちゃんと、ゴムつけないでセックスした事ある?」

「あるけど――うそ、そんな事って――」

 健人は背中を擦る手を止め、彼女を再び横たわらせた。前髪をかき上げるように撫で上げ、「ゼリー飲料みたいなのを買ってくるから、待ってて」と葉子に言った。


 葉子は妊娠しているのかも知れない。しかも、時期からも避妊の面からも俺の子供ではない。兄の子に間違いない。

 ドラッグストアでゼリー飲料と、妊娠検査薬を買って帰ろう。

 もし妊娠していたら――どうする?兄にはどう伝える?遺伝学的な父親は間違いなく兄だ。それを隠しておくか?


 まずは、彼女がどういう道を選択するか、が先決だ。


 ドラッグストアにつくと、カゴの中に数種類のゼリー飲料と、ピンク色の箱に入った妊娠検査薬を入れてレジに並んだ。

 クリスマスプレゼントを買うのは恥ずかしかったのに、妊娠検査薬を買うのは恥ずかしい事じゃないんだな、ふと思った。


「葉子、歩ける?」

「うん」

 検査薬を箱から出して彼女にそれを握らせ、一人でトイレに向かわせた。健人が一緒にトイレまで付いて行くというのも何だか変な感じだったし、リビングには晴人がいたからだ。

「大丈夫か?」

 兄の大きな声が聞こえた。

 それから暫くして、足を引きずるように葉子が部屋に戻ってきた。ラグにへたり込んだ。

「妊娠、してる――」

 悪夢が現実になった。これは風邪なんかじゃない、つわりだったんだ。

 葉子は事態に狼狽えていると言うよりも、茫然自失と言った状態で、何と声を掛けたらいいのか分からなかった。

「葉子は――葉子はどうしたい?」

 葉子はラグに身体を横たえようとしたので、頭を支えて健人の脚を枕にさせた。

「私のお腹に宿った命だから、私に会いにきたんだから、産みたい。けど――」

「父親が、でしょ」

 無言で頷く葉子の目には、涙が浮かんでいた。

「一つ目は、シングルマザーとして出産する。二つ目は本当の父親である兄ちゃんと育てていく。三つ目は――」

 涙が零れる寸前の双眸を健人に向けた葉子は「三つ目は?」と小さな声で訊いた。

「俺が父親になる。葉子さえよければそうしたい」

 葉子の目から涙が線となって流れ出た。

「お腹の子は、俺との血のつながりはないけど、兄ちゃんの血が流れてる。俺は兄ちゃんと半分は血が繋がってる。そう遠くないと思わない?」

 葉子は少し笑った。笑うとまた涙の量が増す。

 晴人とはやっていけない、そう心に決めて、健人と付き合うことを決めたのは、他でもない葉子本人だ。

 お腹の中の子供が晴人の子供であっても、晴人との将来なんて考えられない。

 かと言って、子供を父親なしで育てていく勇気はない。

 健人の気持ちが有難かった。だけどそれでいいんだろうか。健人は、自分と血のつながりが無い子供を愛してくれるのだろうか。不安だった。

「一日、考えさせて。その三つしか選択肢はないと思うから、一つ選ぶよ」

「分かった。皆には体調が悪いみたい、で通しておくから、ベッドで横になってなよ。何かあったら携帯鳴らして」

 葉子の携帯を掴み、葉子を支えるようにしてロフトにあがり、ベッドに横たわらせた。

「葉子の気持ちを尊重するから。おれは三つのどれになってもいいから」

 そう言うと健人は立ち上がろうとしたが、葉子が健人の手を掴んだ。

「健ちゃん、大好き」

 しゃがみ込んで健人は葉子の髪をかき上げ、触れるだけのキスを落とした。

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