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おあずけ

 仕方なく、だ。そりゃそうだ、着替えが無いんだから。

 仕方が無く心許ないバスローブに身を包み、洗面所で髪を乾かして部屋に戻った。

 晴人は、見てはいけない物を目の前にしたように、目線を明後日の方向へ向けた。

 好きな女のバスローブ姿?正気の沙汰じゃない。

「本当に床で寝るのか?」

「ん、寝る」

「じゃ、俺が床で寝る」

「私が床で寝るの!」

「勝手にしろ」

「はいはいそーしますー」

 下らない痴話喧嘩だ。いつもの二人のパターンだ。ライブに来ても、ベランダで駄弁っていても、朝ご飯を食べていても、この調子だ。

 なのに何故か、葉子の目からは大粒の涙が溢れ出てきた。

「おい、そんなに床で寝たいのか」

 葉子は頭を振った。そんな事じゃない。もっと、大切な事。嗚咽を殺して、何とか言葉を紡ごうとする。

「こんな風に、言い合いをしたくないの」

 話しながらも壊れた水道みたいに涙が止まる事が無い。

「本当は、本当は、晴人の事が好きなのに、そうじゃないみたいにしちゃうの、私」

 晴人は葉子の顔をじっと見つめた。バスローブの端で一生懸命涙を止めようとしている。

 言うなら俺が先に言いたかった。先手を取られた事が悔しかった。

 今度は突き放されないように、座る葉子ににじり寄って抱きしめた。

「俺もだ。俺も葉子が好きなのに、好きじゃないみたいになっちゃうんだ」

 葉子は一層嗚咽を強めた。今度は混乱から来る涙ではなく、うれし涙であってほしいと、晴人は思った。

 真っ赤にした目を晴人に向けて「本当に?」と顔を傾げた。声が掠れていた。

「本当だよ」晴人は彼女の揺れる二つの瞳をじっと捕らえた。

 その瞳が俄かに細くなり、「良かった」と囁くように葉子は声を出した。

 上を向いた唇に向けて、晴人はキスを落とした。きっと、彼女にとって、初めてのキスだろうと思った。

 葉子は豆砲玉でも食らったような顔をしたので、晴人は破顔してしまった。


 協議の結果、二人ともベッドで寝る事になった。

「触んないでよ」

 そう、釘を刺された。

 晴人はずっと疑問に思っていた事を口にした。

「なぁ、ピアノずっとやってきたのに、何でパンクにのめり込んだの?」

 天井をじっとみつめたまま、葉子は動かない。「笑わない?」

「私ね、中学に入ってすぐの頃、レイプされそうになったの」

 今度は晴人が豆鉄砲を食らう番だった。

「未遂だけどね。未遂で済んだのは、近くを通りかかったお兄さんのお陰で」

 軽はずみに訊いた質問が、こんなにダークな昔話になるとは、思いもしなかった晴人は、「話したくなかったら話さなくてもいいぞ」と言った。

「大丈夫。ここからが本題。その通りかかったお兄さんが、パンクなお兄さんだったの」

 あぁ、と合点がいった。助けてくれたのがパンクスだった、と。

「お兄さんと警察署に行って、その時お兄さんの胸についてた缶バッヂに『セックスピストルズ』なんて印象的な言葉が書いてあったから、ネットで調べたらバンド名だって知ってさ」

 それから芋づる式に関連する音楽を貪るように聴いた。

 同級生にはそういった音楽に精通する人間がおらず、不遇の中学時代を経て、高校生になり、高校時代はパンクスはいても、大抵パンクスな彼女がついていた、と葉子はジェスチャーを交えて説明した。

「だからね、趣味が合う男の人がいると、すぐ好きになっちゃうんだ」

「じゃぁ俺以外に趣味の合う男ができたら、どうする?」

 葉子は暫く沈黙をし、出した答えが「わかんない」だった。

「わかんない、じゃないでしょそこは。そこは『晴人以外にはいかない』とかいう所でしょうが」

 今まで恋愛をしてきていない葉子には、ノウハウがない。雰囲気を読むだとか、空気を読むだとか、そういう小難しい事が出来ないのだ。

「俺じゃないパンクなお兄さんに、ふらふらついてっちゃ、だめだぞ」

「うん」

 ベッドに入って初めて晴人の方を向いた葉子の顔を、彼は両手で押さえて、キスをした。今度は長く長く、息が詰まるほどのキスをした。

 そのままバスローブに手を掛けた。

「ちょーと待った!!」

「なんだよそこでストップかけんのおかしいだろ。逆転裁判かよ」

 痴話喧嘩のスタイルが再発。

「初めてだから」

「そらみんな初めての時ってのはあるだろ」

「そう簡単にさせない」

「なんだよそれ」

 ベッドの端の端の端の方へ葉子は身体を寄せ、布団を被った。

 晴人は自分の爆発しそうな息子さんに向かって「今日は無しだって」と囁いた。


 そのまま朝を迎えた。

 先に目が覚めた晴人は、横にいる葉子の寝顔を見ようと視線を向けると、あらぬ姿で彼女が寝ている事に気づき、思わず布団を掛けてやった。

 殆ど見えてるじゃないか――。

 掛けた布団が邪魔だったのか、いくらか瞬きをしながら葉子が目を開けた。

「朝だよ」

「朝?それおいしいの?」

「朝にセックスすると気持ちがいいんだよ」

 先程の彼女のみだらな姿が忘れられず、葉子に手を伸ばすと、バシっと叩き落された。

「あのねぇ、好きだけど身体はまだ渡さない」

「何だよ、言葉だけかよ」

「言葉だけじゃご不満?」

「あぁ不満だね」

「下半身でしか恋愛できない人間は猿か犬だ」

 葉子はそっぽを向いて、黙ったままはだけたバスローブを布団の中で直した。

 晴人は猿扱いされても仕方がないような状況だった(それは朝だから、というもっともらしい理由があるのだが)ので何も言えなかった。

 沈黙を破ったのは葉子だった。

「折角気持ちが通じ合えたと思ったのにな」

 初めて相手と心が通じあえた。

 良く考えてみればそうだ、晴人自身だって中学の頃、好きだった女の子に告白して受け入れられ、暫くはそれだけでお腹いっぱいではなかったか。

 ただそばにいる、それだけで、と何かの歌詞みたいだと、思いはしなかったか?

 彼女は今、そういう状況なのだ。それを無理やり「セックスしよう」と仕向けるのは酷い話だ。

「じゃぁさ、葉子が『今日なら』って日でいい。俺が煙草吸ってる時にでも、誘ってくれない?絶対乱暴にはしないから」

「今日なら、って日がなかなか来ないかもよ?」

「待ってるから」

「永遠に来ないかもよ?」

「さすがに待てない」

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