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第九話

 挿絵(By みてみん)

 目が覚めると、そこは自分の部屋ではなかった。一瞬考えて頭がようやく睡眠から目覚め、昨日までのことを思い出す。


 望は隠れ家のラミアの住処である部屋の一角、その隅に横になって寝ていた。彼女が出してくれた棺桶はあまり寝心地が良くなく、熟睡とはいかなかった。こんなもので吸血鬼はよく寝れるものだ。


 辺りを見回すと、ラミアはそこにはいなかった。昨日の夜以降、まだ戻っていないらしい。いったいどこまでいったのだろう。


 それとも、昨日のあれで愛想を尽かされてしまったか。


 取り乱したの仕方ないと思う。望はまだ人の死というものを身近に感じたことはなかった。両親はまだ健在である。自分もいつかは死ぬと形では分かっているが、未だに真剣に考えたことはなかった。それは誰もがそうだろう。皆、自分が死ぬときのことなんて後回しにしたいに決まっている。


 しかし吸血鬼である彼女はどうだろう。吸血鬼は不死身だ。その身体は永遠に再生し続ける。太陽の光に身を投げでもしない限りは。彼女は死というものに縛られなくていいのか。それは果たして、幸福なことなのだろうか。


 いつまでも自分という存在があり続け、周囲の景色だけが変わっていく。誰かと親しくなったとしても、その人はいつかは死んでしまう。吸血鬼なら話は別だろうが。そんな気分は一体どんなものだろう。決して良いことだけではない気がする。


 望は棺桶から身体を起こし、昨日買ったペットボトル入りの天然水に口をつけた。寝起きの乾いた喉にぬるい水が流れ落ち、いくらか目が覚める。どれくらい寝てしまったか、携帯電話の画面を開いてみると既に九時を回っていた。


 休日ならいつもこのくらいに起きるのが普通だ。場所が違っても、身体はいつも通りに目覚めたらしい。自分の家なら簡単な昼食をつくるところから一日が始まるところ。今はそうもいかず、これも昨日買っておいた菓子パンの袋を開けて食べる。


 彼女は吸血鬼だ。生きるためには血液が必要。一体これまでどれほどの人間を殺し、その血を吸ってきたのか。でもそれは彼女にとっては、生きるために普通にしていること。自分が肉や魚を食べるように、彼女は人間の血液を吸う。


 しかし勘違いしてはいけない。自分はそんな化け物の住処にいるのだ。


 何か自分はとんでもない思い違いをしているのではないか。考えて見ればこんな都合のよい話もないだろう。たった今出逢ったばかりの人間を、見返りもなしに助けてくれるなんて。


 自分は彼女に騙されているのかもしれない。そうだ。ありそうなことではないか。


 悪魔に願いを叶えてもらった、その見返りが自らの魂。自分の場合はそれが血液。彼女は自分の血液が目当てなのではないか。


 でもそれならば自分の様な餓鬼は、襲って手足をもいで自由を奪ってしまえばいい。そしてそれからゆっくり血でもなんでも吸いつくしてしまえばいいのだ。それをしないということは、これは自分の思い過ごしなのか。


 いくら考えても自分の頭では何も分からなかった。吸血鬼の考えていることなど分かってたまるか。彼女にしてみれば、望など赤ん坊も同然。見た目は二十代前半に見えるが、それは外見の話し。正確には聞いていないが、彼女は大昔の人間だろう。


 彼女は自分は人間だったときのことになると、途端に口をつぐんだ。それは何か思い出したくない嫌な記憶でもあるのか。……誰にだって思い出したくない記憶の一つや二つあるだろう。それは望も同じである。自分のこれまでの人生は後悔することばかり。


 それが吸血鬼でも同じだろう。もしかしたら彼女も、これまでの人生をずっと一人で生きて来たのだろうか。吸血鬼は徒党を組まないと言った。なら彼女も案外僕と同じようなものかもしれない。


 こんな自分と一緒にされたくはないか。それをすぐに否定する。彼女はそんな下等な存在などではない。


 しばらく考え事をしていると、出入り口の方から物音がして聞き覚えのある声がした。


「望、起きているか」


 扉が開き、ラミアが顔をのぞかせた。


「あ、ああ」


 昨日のこともあってか、何となく気まずい。しかし彼女の方はそんなことはなく、いつもと同じようにふるまっている。色々考えていたのは全部思い過ごしだったのだろうか。


「今日の夜付き合え。そこでお前に見せたいものがある」


「……見せたいもの?」


 彼女はそう言って僕に近づいてきた。そして通り過ぎ、僕の寝ていた棺桶を消して椅子に座り足を組む。


「夜になればわかる。それまで時間をつぶさなければな。私は昼間は表に出られないし……どうしたものか」


 どこに行っていたのかは分からないが、どうやらまた彼女は瞬間移動能力を使ってここまできたらしい。彼女が言うには、物質創造能力の応用でできるらしいのだが、僕には意味不明だった。何でも物質創造はそこにないものを、次の瞬間にあるようにするのに空間を捻じ曲げなけらばならないらしい。


 そこで僕は、今まで忘れていたことを思い出す。


「あ、そういえば学校の宿題があるんだった」


 すっかり忘れていた。土日のうちにやっておかなければならない課題があったのだ。


「ん……そうなのか。ならここでやればよい。一体どんな課題なのだ」


「……化学だな。この先生の教え方がいまいち分かりづらくて、躓いてるんだ。ええと……」


 持ってきていた鞄の中からノートを取り出す。


「これでも私は、大学に在籍していた頃は化学を専攻していたのだ。みせてみるがいい」


「そうなのか。それはありがたい。ここなんだけど」




 彼女の教え方は実に独特だった。独特だが、とても分かりやすい。それを理解する為の基礎的な知識をまず分かりやすく解き、それから問題へと応用する道筋を示してくれる。こんなにすらすらと頭に入ってくるのは初めてだった、学校のどの先生よりも教えるのがうまいと思った。


「化学平衡とは、ある反応がいずれ集束する状態のことだな。どの反応も、いずれは必ず平衡状態に達する。反応にはその反応物によって反応の起こりやすさが違う。それによって反応物からどれだけ生産物ができるかが異なるわけだ。こうやって反応式をよく書くかもしれないが、反応物が全てこの反応で生産物になるわけではない。例えば水溶液中では酢酸はほとんど解離しない。そういうのは弱酸というのだな。この反応の起こりやすさは反応物によって決まっているから、その反応によって反応物と生産物の比をとった平衡定数という数値が決まるのだ」


「色々な反応によって、その値が常に一定なのか。でもなんでそんなことが分かるんだ?」


「これは想像してみればわかる。ここに試験管が一本あるとしよう。……実際に出してみた方が速いか」


 彼女はその手を振ると、どこからともなく一本の試験管とピペットを取り出した。試験管には液体が入っていて、彼女はそこにピペットで別の液体を加えた。何て便利な能力だろう。


「白衣も出した方が雰囲気がでるか?」


「いや……別にいいよ」


 実は少し気になった。やっぱり来てもらったほうがよかったか。彼女の白衣姿。


「こんな風に水溶液中で反応は進む。水の濃度は純粋で55.5Mだ。これに実際にアボガドロ数をかけたものが一リットル中の水分子の量だから、膨大なのが分かる。これに反応物を1Mずつ入れでもしたら、反応も無数に起こるわけだ。例えばだが、コインを一億回投げたとしたら、裏と表はどれぐらいになる?」


「それは……ほとんど一対一になる……そうか」


「そうだ。さらに加えてアボガドロ数は10の23乗の桁であるから、比べ物にならないくらいの数だな。この試験管のなかで、無数のコインが回っていると想像すれば、このからくりが理解できるだろう。何回やっても裏と表の比はほぼ一対一だ」


「この場合は、コインの裏か表がでる確率が同じだから、……化学反応なら反応の起こりやすさによって決まる……なるほど、そういうことか」


 望が自分で考えていつまでも分からなかった疑問に、彼女はいとも容易く答えを示すのだった。


「化学は世の中の自然現象を計るための物差しだ。これを知っているのといないのでは、世界の見方がまるで違う。物理法則を知ることは、この世界の根底に存在するものに迫れることだ。私はそれに興味を持って一時他の人間達と共に学問に身をやつしていた。私の持つ能力は、そのときに作り上げた理論をもとにして組み上げた、私固有なものばかりだ」


 吸血鬼は人間のできない不可能を捻じ曲げる、特殊な能力を備えている。しかし彼女の使う特殊能力は、その中でも更に異質。彼女が独自に作り上げたものなのか。確かにただの吸血鬼にしては、手品師じみていると思っていた。


 純粋に凄いと思った。自分が何の役にも立たないと思っていた物で、ここまでのものを作り上げた彼女が単純に凄いと思った。それは並大抵の努力ではないはずだ。


「これは馬鹿にしたものではないぞ。学問を下らないと言う者こそが、くだらない。それはどんな暴力よりも、どんな凶器にも勝る力だ。これは吸血鬼の力ではなく、人間の力だ。人間が積み上げて来た文明の宝だ。私はそれを心から尊敬している」


「……人間の力」


 彼女はそれを使い、何をしようとしているのか。


「私は根っからの理学者なのだよ。戦うのはどちらかというと本意ではないのだが、それはこの身に流れる血が許さない」


 彼女は右手の平を広げ、それを眺めた。そしてそれを空中で振ると、試験管とピペットは宙に消えた。


「君は、戦いは苦手か?」


「戦う……」


 自分は今まで何かと戦ってきたことはない。いつも逃げてばかりだった。何かに怯えながら、何かに背を向けていた。父親とも母親とも、学校の同級生とも、言葉をぶつからせたことすらない。


「少し荒療治だが……それしかないだろう」


 彼女は望に聞こえるか聞こえないかの小さな声で、呟いた。


「何か言ったか?」


「いや? なんでもない。さあ次の問題にとりかかろう」


「……そうか。じゃあ次は酸塩基平衡の問題で……」


 その日の昼間は、彼女の授業で過ぎていった。

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