第八話
私は吸血鬼だ。人間の血液を摂取し、生きる西洋の怪人である。
もうどれくらい昔だっただろうか。あるところに一人の少女がいた。彼女は特に不幸というわけではなく、特に幸福というわけでもなく、普通の家庭に普通に生まれ育った一人の少女であった。たったその時までは。
彼女の運命はそのときに決まった。異形の存在と行き逢ったのである。
幼い彼女は、単純にそれをさも美しいもののように感じた。もう少し生きれば誰でも備えるようになる、危険を察知する感覚をまだ持っていなかったのだ。
そのときの彼の存在は、ただただ強烈で、鮮烈で、圧倒的であった。それまで平穏で、平凡な人生を生きていた彼女にとっては、それはそれは衝撃的だった。
それでも決して、それは手を出してはいけないものである。彼女は拒絶するべきだった。
そのときは彼女は、その安易な決断がその後の自分の運命を左右するなどとは全く思ってもいなかった。
吸血鬼の男に、幼くして恋心を抱いてしまったのである。一緒に少しの間話しただけで、彼女は彼に心を奪われてしまった。
吸血鬼は人間の心に干渉できる。それはときに人の心を操り、魅了し、意のままにされてしまう。心中を暴くことも、自らの精神を植え付けることもできる。
その吸血鬼が彼女に能力を行使したかどうかは定かではない。彼女が勝手に彼に恋したのか、彼がそうさせたのかはもはや確かめようがない。もう世紀をまたぐような過去のことである。
吸血鬼は彼女を噛んだ。噛んで血を吸い、彼女を吸血鬼へとならしめた。彼女はそのとき、ようやく気付いたのだ。
自分はとんでもないことをしてしまった。
もう手遅れである。もう遅すぎた。幼くして彼女は、異形の存在へと成り果ててしまったのだ。
彼女は泣きながら吸血鬼に言った。
私はどうすればいいの。
吸血鬼はこう答えた。
お前の好きなようにすればいい。
吸血鬼は消えた。彼には彼女の想いに答える気がなかったことだけは確かであろう。彼女は一人取り残されてしまった。
親にも友達にも話せない。話せるわけがない。信じてもらえるはずがない。
自分が吸血鬼になってしまっただなんて。どうしようもなく彼女は故郷を出た。
一人で生きるしかなかった。吸血鬼に成り果てた彼女に残されたたった一つ道は、孤独な修羅の道である。
彼女は自分の愚かさを呪った。軽はずみな決断を後悔した。もうどうしようもなく取り返しのつかないことだけれど、それでも後悔せずにはいられなかった。
心が壊れてしまいそうになった。涙が枯れるまで泣いた。誰もいない一人きりの夜道で泣いた。声を押し殺して泣いた。そのまま消えてしまえたらどんなによかっただろう。
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだろうか。自分は何か悪いことをしたのだろうか。この世に神様はいるのだろうか。もしいるのなら、何故自分はこんな目に遭わなければならないのだろう。
幼い彼女が、放り出された暗く険しい影の世界。地獄のような、光の差さない世界。それは彼女にとってあまりにも辛く、険しいものだった。彼女は懺悔し続けた。
しかし、彼への想いだけは消え去ることはなかった。忘れることはできなかった。自分を異形の存在へとならしめて、自分を地獄へと突き落とした張本人のことを、こんなになってまでまだ、想っていたのである。
自分でもなぜか分からなかった。彼は憎い。憎くて憎くて仕方ないはずなのに、それが愛おしくて愛おしくて仕方ないのだ。もうどこにいるのか分からない彼のことを、彼女は心の全てで愛し、求めていた。
彼女はその強い気持ちだけで生き続けた。それがなければ途中で野たれ死んでいたかもわからない。それが彼女をただ生に縛り付けていた。
何度死んでしまいそうになったか。孤独に襲われて家に帰りたくなったか。
血液に餓える感覚を覚え、最初は小動物を襲って食いつないでいたが、それでは物足りないことに気付いてしまう。
彼女は人里に降りた。もう誰が見ても、彼女だとわかるものはいないだろう。その瞳は赤く腫れ上がり、唇の両端には八重歯が覗き、ぼろのようなものを身にまとった彼女のことを。
頭の中で「血を吸え」と、誰かが大声でがなりたてる。その声で頭痛がし、吐き気がし、彼女は血液を求めて人間を手に掛けた。
ああ、自分はどうなってしまうのだろう。心の一番深いところで、彼女はそんなことを思った。