第七話
「………」
「ふう。良い汗をかいた。とりあえず風呂はもう消しておくぞ。何だどうした? 望? まるで燃え尽きたような顔をして。男のくせにしっかりしろ」
……生まれて初めて母親以外の女性に裸を見られてしまった。これがショックでなくてなんだろう。……死にたい気分だ。
「僕は何か、こんな目にあうようなことをしたのか?」
「別にいいじゃないか減るもんじゃなし。それに君の身体、意外と引き締まっていて結構よかったぞ」
部屋の半分の面積を今さっきまで占めていた浴槽が姿を消し、代わりに何の変哲もない灰色の壁と床が現れている。
ラミアはどこから出したのか、真っ白なバスローブを着て濡れた長い赤髪をバスタオルで拭いていた。
「あんたの常識がどうなのか知らないけど、この国じゃこういうのをセクハラっていうんだよっ!」
「ふむ…そうなのか? 私の生まれ育った故郷では、この程度挨拶代わりだぞ。何とも寂しい国にきてしまったものだ」
美しい赤髪を撫でつけながら、冷めたように彼女は言った。あんたは一体どこから来たんだ。こんなセクハラ行為を是とする国なんてあってたまるか。
「もう二度とこんなことごめんだからなっ。なにをそんなにやにやしてるんだっ?」
「いやあ? そんなに顔を赤くして照れ隠ししないでも、私の前でそんなものは不要だぞ。私には君の考えていることは大体伝わってくるのだ。君に植え付けた私の精神から、私に君の感情が流れ込んでくるからな。この生意気なマセガキめ…」
反射的に自分の顔を触った。猛烈に恥ずかしかった。そんなの聞いていない。一体どこまで自分の考えていることが伝わってしまうのだろう。へたなことを考えられないではないか。
「僕の意識の中にまで、入り込んでくるなよっ。吸血鬼にはプライバシーもなにもないのかよっ。うう……ラミア……」
完全に降参だった。僕は諦めて、さっき買ってきた弁当の一つに手を付けた。まだ温かい唐揚げ弁当のふたを開け、割り箸を割って食べ始める。
「ふふ……望はかわいいなあ。つい血を吸いたくなって……いや、食べてしまいたくなるぞ」
「全然フォローになってない」
彼女は、少し遅くなった夕食をとる僕を、椅子に座って眺めていた。僕は床に座って箸を動かしている。彼女の能力なのか、ただ綺麗好きなのかは分からないが、この薄暗い部屋の床は特に埃も目立たなく座っても汚れることはなかった。
「僕の話はいい。それよりも、吸血鬼の話をきかせてくれるんじゃなかったのかよ。これ以上いじめられるんなら、僕は家に帰るぞ」
「……いやね、君をからかうのはおもしろくて、つい長くなってしまうんだ。許しておくれよ」
彼女は実に楽しそうに僕をからかうのだった。もう責める気も起きない。たまには僕の方からなにか逆襲できないだろうか。多分無理だろう。
「ふふ、では吸血鬼についての質問を受け付けようじゃないか。私に答えられる範囲でな」
ラミアは髪の毛を拭き終えると、右手を掲げて指をパチンと、鳴らした。
するとたちまちバスタオルが宙に吸い込まれていくように消え、直前までバスローブを身に付けていた彼女はいつもの真っ赤なブラウスにスカート姿に戻っていた。
望は、今まで気になっていたことをついに口にした。
「……ラミアは、人間だったことがあるのか?」
「……」
当たり前の疑問だろう。吸血鬼というものは、吸血行為によって子孫を増やす。そしてその媒体は人間である。
ならば今は吸血鬼である彼女も必然、最初は人間だったことになるではないか。
彼女は寂しそうな表情をして、暫く無言になった。それはまるで遠い昔を思い出し、何かを…後悔しているような、そんな風に僕には見えた。
やがで彼女はまいったというように苦笑し。
「今はそのことについて話す気にはなれない。悪いが…」
僕は、してはいけない質問をしたとそのとき悟った。
「すまない、ラミア。僕…何もわからなくて」
「いいんだ。当たり前だよ、君はまだこの世界の影の部分をほんの少しばかり…… 知っているに過ぎない。これは私の未だに抱える問題だ。君にそれを察せというほうがおこがましい。気にするな」
「……ラミア?」
彼女は、過去に何かを残してきたような、そんな寂しげな顔をして、それでも僕にはそれを見せまいと強がって微笑んでいた。
なぜだろう。そんな気がするのは。僕に植え付けられたら彼女の精神から、彼女の感情が僕にも少しばかり流れ込んでくるのだろうか。
いつもは尊大な彼女のそんな姿は、とても違和感があった。さっきは彼女にやりたい放題されていたのだから、今こそ一矢報いるときだ、とは流石に思えなかった。
「望。吸血鬼はね、大抵過去の話をしたがらない。私のように比較的お喋りなのは珍しい方だ。それでもそのことについては、私は口を閉じる。それを今まで誰かに話したことはないんだ」
「……」
当たり前なのかもしれなかった。異形の存在に襲われ、それに留まらず自分までもがその異形へと変化せしめられたのだ。
吸血鬼に、されてしまったのだ。思い出したくもないに違いない。俺だったら立ち直れないだろう。その自信がある。
一体何があったのだろう。気にはなるけれど、今は聞かないことにしよう。
それは今語られるべきことではないだろうから。
僕は話題を切り替えるためにそれとなく話を逸らした。
「ところでラミアは、何か食べなくてもいいのか? 吸血鬼というくらいだから、血液が主食なのだろうけれど、人間の食べ物だって食べれないわけじゃないだろう」
「……ああ、確かに血液は吸血鬼にとって生存に不可欠というだけで、それだけしか口にしないというわけではない。この国の料理は結構美味だったぞ」
「ん? ということはここにくる前にどこかで何か食べたのか?」
「看板にはラーメン屋と書いてあった」
吸血鬼がラーメン屋でラーメンを食べていた。この前から思っていたが、この吸血鬼、庶民的すぎないか。
「確かにラーメンはうまいけど……」
「私は担々麺というのが好きだ。濃厚で辛みのあるスープに麺がよく絡んで、美味しかった。私はあれは初めて食べたな。少し前まではヨーロッパを飛び回っていたが、あれはパスタともまた違うし」
「なら知らないのも無理ないだろ。ラーメンはアジア特有の食文化だ」
「そうなのか? 昔この国にいたときに箸の使い方は覚えていたが、そのときはそれどころじゃなかったというか、そんな暇はなかった」
「? 昔って、ラミアが言うといつのことか分からないけど、大変だったって何があったんだ?」
「ああ、昔この国で吸血鬼と人間同士の、戦争……のようなものがあったんだ。そのときに私は吸血鬼側についていてな。この島国の南端から北端まで、行ったり来たりの血で血を洗う戦いだった。吸血鬼が珍しく派閥個人関係なくひとまとまりになって、戦ったんだ。あいてはこの国の吸血鬼狩りギルドだ」
「戦争……」
「といっても、吸血鬼狩りギルドはそのときほとんど殺してしまったから、今はその生き残りがわずかいるだけだ。中に何人か死なずに吸血鬼化したものもいたがな……そいつらもほとんどがそのことに耐えきれずに太陽に身を投げて死んだわ。…………なんだ? そんなに強張った顔をして?」
「いや……そんなんじゃ」
僕はそう彼女に言われて、反射的に顔を手で隠した。
殺した。
殺した殺した殺した殺した殺した。
そのとき初めて思い出した。彼女は、目の前の彼女は吸血鬼である。人間ではない異形の存在。人間の血を吸い、吸血鬼へと変えてしまう。それが彼ら彼女らの存在意義。
途端に全身から出る冷や汗。頭の中を何回も、そんな思考がぐるぐると回転して酔いそうになる。僕は何の考えもなく彼女と一緒にいるけれど、それはとてつもなく危険なことではないのか。
「人間を、殺したのか」
「そうだ」
彼女は何をそんな質問するのかというように、即答した。
「殺さなきゃ、ならなかったのか?」
望は自分の声が震えているのに気がついた。
「そうだ」
「…………」
「では逆に聞こう。奴らは私たちを殺しに来たのだ。それを黙って見ていろとお前は言うのか? お前は自分の身が危険に犯されるかもしれないのに、何もしないで見ているのか。だとしたらお前はやっぱりおかしい」
「…………」
「奴らは私たちを殺しにきたんだ。なら殺されても文句はいえないだろう。戦争とはそういうものだ。お前たちはそうやって、歴史を積み上げてきたのではないのか? そうやって今の世界ができているんだろうが」
望は何も言い返せなかった。返す言葉を持たなかった。
「お前は生きるために、殺された牛や豚や魚を食べるだろう? 私たちはそれと同じように、人間を吸血する。それの何が違うのだろう。生きる者は例外なく、生き残るために何かを犠牲にしなけらばならない。そんなことは当たり前のことだろう」
ラミアは、僕を睨みつけて言った。返す言葉を持たない僕に向かって、痛烈な言葉を投げてくる。
「……今日は、お前はもう寝ろ。私は外で散歩でもしてくる」
「ラミア……」
「もう寝ろ。話は明日だ」
彼女は、冷たい声でそう言い放って、扉から出て言った。この部屋には望だけが一人取り残された。望はしばらくその場から動くことができなかった。