第六話
「……月の映える良い夜だ。それにしても、最近は月が良く見える。私は月明かりが好きだ」
月明かりに照らされながら、真っ黒のコートを身に付けて、同じように真っ黒なマフラーを身に付けた彼女が言った。
「なんと神秘的なものだろう。あれはきっと神様の宝物に違いない。あれほど綺麗に夜に映える宝もなかろう」
夜空に登る満月を眺めながら、彼女は満足したように言った。
「でもあれって、もとは地球の一部だったって話だよな。隕石が墜ちてきて、その衝撃で分離して……でも地球の重力に捕まったまま球状になったって」
彼女はこちらの方をジト目で見返す。
「確かにその通りだが、お前夢のないことを言うな」
どうやら彼女の機嫌を損ねてしまったらしい。本で得た知識を、つい話し相手ができたからと考えもなしに晒したのはまずかったか。
「……ごめんラミア」
「まあ別に良い。許す。それにしてもお前、意外なことを知っているじゃないか。確か自分で自分は、勉強ができないって言っていた癖に」
僕達二人は、食料調達の為に駅前のスーパーに向かっていた。もうすでに陽は落ちており、辺りは真っ暗で電灯以外に明かりはない。
そもそも彼女は吸血鬼なので、陽の光が出ている間は外に出ることができない。その為に、今まで隠れ家の中で待っていたのだ。
「本で読んだだけだよ。趣味で伝奇ものとかを読んだりするんだけど、たまに科学雑誌とかそういう系を読むときもあるんだ。こんなこと知っていても何の役にも立たないけどな」
「そんなことはない。君たち若者が今勉強していることは、それは大抵すぐには役に立たないことばかりだよ。だけれど、それは必ず後で役に立つ。しかしそれは本当に分かりづらいから、勉強をすることに意味を見いだせない人間が増えているのだな。……それを教えられる人間が少ない、とも言えるか」
彼女は真剣な眼差しになって、まるで学校の先生のようなことを言った。
「君は、もっと勉強もするべきだ。望はきっと頭は悪くないよ。ただ勉強と自分の未来を結び付けられないだけで。なんなら私が教えてやる」
彼女は僕を見て、そう言った。
「……考えておくけれど、ラミアは人に教えられる程ものを知っているのか? 僕はまだあんたのことをよく知らないけれど、吸血鬼ってのは人間の知識を学んだりもするものなのか。なんだか人間みたいだな」
これまで人間の世界に、吸血鬼という存在が露見していないのだから、彼ら彼女らは人間達に紛れてうまくやっているということになる。ならば彼らの歴史は、人間とともにあったのだろうか。少し気になった。
「アメリカの大学に、しばらくの間学籍を置いていたのだ。そのときに大抵のことは学んだ。もう一世紀くらい前の話になるか。あのときは良い時代だった……」
一体何歳なんだこの人、いや吸血鬼は。
吸血鬼は不死身、と言われている。ならば彼女もそうなのだろう。
どれだけの歳月を、彼女は吸血鬼として生きてきたのだろう。そしてこれから生きていくのか。
「今のこの国の若者は、昔のような必死さがない。何か大変な事が起こっても、自分には関係ないと……向き合おうとしない。勉強することを無駄なことだと思っている人間はまだまだ多いな。自分たちの国への、大人への尊敬も軽い」
自分がこれまで勉強を真剣にやってこなかったのは、父親である彼の存在が大きいのかもしれない。学業優秀な彼だが、その末路があれである。勉強は必ずしも人を正しい方向へと導くことはしないのだと、どうしても思ってしまう。こんなの、ただの言い訳なのかもしれないけれど。自分が優秀でない理由を、自分の父親に押し付けているだけかもしれないけれど。
「そうだ。若者よ、今こそ学ぶときなのだ。学ぶことこそ何より尊い。何より純粋であり、何より有益だ。……なんてね。君はまだまだ若いじゃないか。これから勉強なんていくらでもできる。羨ましい限りだ。私なんて……」
ラミアは、そのときなぜか表情を暗くして、途端に顔を背けた。どうしてだろう、尊大な彼女には似合わない仕草だ。
「……ラミア?」
「いや、なんでもない。勉強なら私が教えてやろう。私は勉強を教えるのは好きなのだ。そこらの家庭教師よりは有益な時間を提供できるだろう。ぜいぜい感謝することだな。この私が直々に教えてやるのだ」
いつもの彼女に戻った。それとも今のは何でもなかったのだろうか。
「……それは、嬉しいけど」
「さて、食料の調達は済んだことだし、今日は夜が明けるまで私に付き合うのだ。……ふふ、楽しみだな。やはり話し相手がいるというのは新鮮なものだ」
「まあ……そんなに喜んでくれるのなら、僕も付き合うにやぶさかではないけど。そんなに、誰かと話すのは久しぶりなのか?」
「そうだな……最後にこんな風に話したのはヨーロッパの吸血鬼狩りと戦ったときだから、数年前だったかな。あのときは本当に死ぬかと思った」
もうさすがに驚かない。そろそろ僕も、そちら側の世界に慣れてきてしまっているらしい。
「吸血鬼狩りって、そんな奴らまでいるのかよ。なんだか穏やかじゃないな。もしかしてそれって人間なのか? 吸血鬼の存在を知っている人間もいるのか」
「人間もいるし、吸血鬼もいる。吸血鬼を討つ理由はそれぞれだ」
どうやら、複雑な事情が絡まっているらしい。吸血鬼と人間の関係は一筋縄ではいかなそうだ。
「吸血鬼が吸血鬼を狙う理由は単純に、縄張り争い等だな。吸血鬼は人間程まとまっていないから、私のように単独で行動していたり、多くても数人で一まとまりとして動く。そいつらの衝突も良く起こるんだ。何せ気性の荒い奴らばかりだからな。一度争いが起これば、その辺りは血を血で洗う惨状になる。それによってまた、憎しみが生まれ、また争いが繰り返される」
「……」
彼女はもう、うんざりというように溜め息を吐いた。彼女自身、何か抱えているものがあるらしい。
僕達は食料調達を終えて、再び彼女の隠れ家に戻ってきていた。既に夜は遅く、スーパーでは値引きされた廃棄寸前の弁当と総菜を買ってきた。一日くらいなら これでもつだろう。
ここはどうやら水道が引いてないらしく、飲み水となるペットボトルの水も購入してきた。しかしお湯の入った浴槽を物質創造できるなら、水くらい簡単に出せるのか?
「……さあ、望。食事の前に身体を清めねばな。服を脱ぐのだ」
いきなりそんなことを言われた。
「は?」
「……恥ずかしがることなどないぞ。私はこれでも、男の裸など見慣れている。今更君のような子供の身体を見たところで、何も……何も感じたりはしないから、さあはやく」
「……あのラミアさん? 顔が怖いんですが」
彼女は着ていたコートを脱ぎ捨て、僕の方へと手を伸ばしてにじり寄ってきた。まるで獲物を捕まえる猫か何かのように。
「なにを言っているのだ君は。そんなの気のせいだ。さあいつまでもこの風呂を出していると力を無駄に消費してしまう。二人で入ればさっさと終わるのだ。大丈夫、望の身体は私が背中からあそこまで、隅から隅まで清めてやる」
やばい、と思ったときにはもう手遅れだった。僕は抵抗も許されず羽交いじめにされてしまう。
「うわ、何を…ラミア、あの…離してくれないか」
彼女は獲物を捕まえた猫のように、笑顔で言った。
「嫌だ」
ああ、もう逃げられないな。
「久しぶりの話し相手もそうだが、男の身体も久しぶり……ゴホゴホッいや何でもない。さっさと脱がすぞ」
「おいっ? 今のは聞き捨てならないぞ…。ちょっ、僕に何をする気だっ……うわ」
「大丈夫大丈夫。悪いようにはしないから」
「いや明らかに、犯罪の匂いが……や、やめろっ!」
「ふふ、もう遅い」
そのまま僕は、一糸纏わぬ姿にされ、彼女に身体の文字通り身体の隅から隅まで清められてしまうのだった。