第五話
「おまえ気持ち悪いんだよ。何笑ってやがる」
「え……」
今日は八回殴られた。六回蹴られた。学校の彼らが根城にしている空き教室でのことである。
なぜだろう。殴られて、蹴られてみじめで仕方がないはずなのに、僕は笑っていた。自分でも気がつかなった。不思議である。別に誰も面白いことは言っていない。唐突なことである。
「殴られすぎていかれたか。気味悪い、死ねよお前」
その後更にその倍殴られて蹴られた。ようやく地獄の時間から解放され、僕はその足で彼女のいる隠れ家へと向かったのである。
彼女の隠れ家は街外れの、廃工場が連なる寂れた場所の中にあった。その中の金網に囲まれた入口を目指す。
殴られた身体が痛む。彼らも理解はしているのか、目立つ部分に傷をつけようとはしない。制服に隠れた部分には暴行を受けた痣や傷後がなかなか消えないようになってきた。それでも心は、彼女の待つ隠れ家へと向かっていた。
誰かが自分のことを待っているというのは久しぶりのことである。それだけで今のこの現状にも多少は救いが持てた。しかしその相手というのも、非常に曖昧でよく分からない関係であるのだけれど。
「よく来たな望。……今日はいつもより酷いな。どれ、こっちにくるんだ」、
入口から入ってきた僕を見つけると、彼女は僕に近寄ってきた。彼女は口をくちゃくちゃとさせて唾液を口に溜め、僕の身体を自分のもとに引き寄せた。
「脱がせるぞ……」
「……いや、変なふうに言うなよ」
すると彼女は、僕の着ていたパーカーを手繰って脱がせ、僕の痣になってしまっている背中に口をつけて唾液を垂らした。
「……く、うぅ……」
その瞬間痣が染みるように痛み、口から苦痛がもれた。しかしその痛みは徐々に溶けていくように、無くなっていった。
「これで少しはよくなるはずだ」
彼女は普通の人間ではない。彼女は吸血鬼だ。それ以外には形容し難い、異形の存在である。
彼女は僕と最初に出逢ったときも、特殊な能力を使って僕の精神に入り込んでいたのだ。あまりに信じられない荒唐無稽なことだけれど、二度も実際に目の前で見せられては、信じるしかない。
今彼女がしているのも彼女の能力の一つ。吸血鬼の唾液には治癒能力がある。僕の背中の痣は既に綺麗に消えていた。
「本当に……信じられないけど、信じるしかないよ」
「ふん、まだ疑っていたのか? 何ならお前の血でも吸ってみせようか」
それは洒落になっていない。吸血鬼に血を吸われた人間は、吸血鬼になってしまうことくらい自分でも知っている。
「そんなの簡単に信じられるわけない。吸血鬼なんて、架空の存在……そんな、馬鹿げた話があるなんて」
実際にそれは自分の前に仁王立ちしている。 実際にそれは僕のことをその真っ赤な瞳で見下ろしている。
「お前のその認識が間違っているのさ。吸血鬼が存在しないなんて、どうして言い切れる? お前はなぜそんなことを何の根拠もなしに、断言できるんだ? この世界の全てを見てきたわけでもないのに?」
彼女はそう言って僕の傷一つ無くなった背中を指差した。
「世の中に、そんなことができる人間がいるのか?」
そう言われてしまえばどうしようもない。
「分かったよ。もう信じる……信じるよ」
「それでいい」
彼女は椅子に腰掛け、脚を組んで満足そうに笑みを見せた。
「それでもお前はまだ、物分かりのいい方だ。大抵の人間はまず私を気が狂った人間だと思うだろう。すんなりと信じてくれて助かる」
最初は自分も、そう思ったことは言わないでおこう。
「そしてこの前は言い忘れたが、いくつか言っておかなければならないことがある」
「……」
「言うまでもないことだが、私の存在は他言無用だ。私に黙って誰かに密告しようとしても無駄だぞ。お前の精神には既に、私の精神の一部を埋め込んである。お前がどこで何をしているか、私にはいつでもわかる。もう一度言うぞ。私にはお前がどこで何をしているのかわかる。妙な気を起こさないことだ。そのときは冗談じゃなく、お前の血を吸うことになる」
彼女の表情が、今まで見せた中で初めてのものに変わった。凄惨な、……笑みだった。身体が無意識に震えてしまう。これは弱者の悲しい性だった。蛇に睨まれた鼠のような気分だった。
「分かってる。僕はあんたに助けてほしいんだ、そんなことしない。それに僕には……」
話すような相手なんていない。
「ふむ……とりあえずはそんなところか。この場所に入るときには誰にも気づかれないようにしろ。また新しい隠れ家を探すのは面倒だからな。ここの雰囲気は結構気に入っているんだ。しばらくはここに居座るつもりだ」
吸血鬼ってのは、こんなところが好きなのか。僕にとっては、ただの寂れた廃工場にしか見えないのだけれど。感性も人間とは違うのかもしれない。
「ところで、どうしてまた吸血鬼がこんなところにいるんだ? ラミア……あんたみたいな吸血鬼はこの世界に、たくさんいるものなのか?」
「……いるよ。人類の半分くらいは吸血鬼だ」
「…………は?」
彼女はクスッと笑い、引っかかったというように訂正した。
「嘘だ。さすがにそんなにはいないな。私も正確には知らないから、何人と答えることはできないな。吸血鬼を人と数えるのかどうかも微妙なところだが、結構その辺に普通に歩いているかもしれないぞ。人間の振りをして生活をしている者もいるだろうな」
「……本当、かそれは」
今までの常識が崩れ去った瞬間だった。自分が住んでいた世界が、実はそんな未知の存在であふれていたなんて。そしてその未知の存在は、今まさに自分の目の前にいるのだ。
「はは、そう驚くな。こんなことで驚いていたら心臓がいくらあっても足りないぞ。望はからかいがいがあって面白いなあ。次はどんなことを教えてやろうか……」
どうやらからかわれているようだ。あまりいい気がしないが、この人には何をしても敵わない気もする。
……人では、ないのだったか。
「もう許してくれよ。今はそんな気分じゃないんだ。疲れていて、冗談でも真に受けてしまう」
背中の痣は消えたけれど、精神に負った傷はそう簡単には消えない。
「……そういうときこそ、くだらないことで人はもっと笑うべきだと私は思うけどな? まあお前がそこまでいうのなら、今日のところはここまでにしておいてやろう」
残念そうに、彼女はそう言った。しかし今日のところはということは、明日からはまたからかわれるらしい。
「それはともかく、ラミア……あんたはこんなところで生活っていうか、よく住む気になるな。不便じゃないのか? こんななにもないところで」
ふと浮かんできた疑問である。
吸血鬼とはいえ、見た目は人間の女性にしか見えない。
彼女は初めて会ったそのときから、真っ黒なコートを着込んで下は黒いロングスカートにタイツという姿だった。こんなところに風呂もなにもないだろう。それとも、銭湯にでも行っているのだろうか。
……吸血鬼が銭湯って、何か格好悪いけれど。
「風呂とかか? それは簡単だ。ほれ」
彼女が右手を掲げ、軽く振ると一瞬部屋の中が輝きに包まれ、次の瞬間有り得ない光景が網膜の中に飛び込んできた。
「……なんでもありかよ」
いつの間にか、部屋の隅に豪華な洗面台と浴槽が現れていた。まるで外国の映画にでてきそうな、白い綺麗な浴槽だった。それには綺麗な入浴剤の入った、飴色のお湯が湯気を上らせていた。
さっきまでそこには、確かに何もなかったはずなのに。
「また驚かせてしまったか? もう驚くのは疲れるだけだから、諦めたらどうだ? ……ほら、風呂でも入って落ち着くといい」
「い、いや!?」
彼女の方を見ると……思い切り腹を抱えて笑っていた。またやられた。
「くくっ……、あはは、いや済まない……やっぱり望はおもしろいよ。反応が素直過ぎる……、く、ふふ」
完全に遊ばれていた。
「別に一緒に入りたいなら、私は構わないぞ? 何なら今日はここに泊まっていってもいい。明日は普通の高校生なら、休みだろう?」
確かにそうだけれど。いくらなんでも、それは……。
「それにお前、少しは興味があるんじゃないか? 吸血鬼の話……」
彼女はニヤリと笑っていった。……悔しいが、確かに少し興味がないでもない。
「だからって、いくらなんでも……」
「いいからいいから。ほら、今日は寝ずに語り合おうではないか。私も久しぶりの話し相手だ。長い間、こんな風に話せる機会も無かったのだ。……よし、決まりだな。そうと決まれば今夜の食料が必要か」
「おいおい、勝手に話を……」
「あいにく有機物の様な、複雑な構造を持つ物体は私の能力では再現できんのだ。君の食料はどこかで調達するしかないのだが……」
……もう、どうでもよくなってきた。確かに明日は休みだし、僕も久しぶりに誰かと話せて気持ちが晴れたのは本当だった。
「それなら、近くのスーパーに行けば揃うだろ」
「なら私も連れて行くのだ」
そんなことを、彼女は言った。