第十五話
「叶君、試験が終わったら、ちょっと付き合って欲しいの」
浅間栞は突然そんなことを言った。何でも無い日常の掛け合いの中で、彼女はそんなことを言った。その申し出に対して望は特に訝しんだりはせず、一瞬だけ脳内で思考を走らせ、その問いに普通の答えを返した。
「別に、良いけど」
試験期間を来週に控えた金曜日。油蝉の鳴き声とシャープペンシルの走る音だけが支配する放課後の図書室を後にし、日の傾きかけた帰り道でのことだった。辺りには同じように、一斉下校時間目一杯まで図書室で粘っていた生徒が疎らに見える。
「良かった」
彼女の、その妙にしおらしい表情が印象的だった。しかし最近は浅間も好きな本すら禁じて、教科書ばかり読み続けていた。息抜きでも求めているのだろう。どうせ試験が終われば夏休みなのだ。
夏休み。
友人の殆どいない自分にはあまりにも多すぎる空き時間。普通なら親しい友や恋人と海へ山へ街へと行くのだろうが、自分には当然その予定はない。両親の所へ帰るという選択肢は有り得ない。
料理でもするかな……。
「浅間は夏休みはどこかへ行ったりするのか?」
「ん……特に毎回予定があるわけじゃないけど、命ちゃんとどっか遊びに行ったりはするかな。叶君は?」
「俺は……特にない」
「じゃあ、一緒にどこかいこうよ」
全くそれを期待していなかったわけではなかった。叶望も1人の男である。異性の誘いは素直に嬉しかった。そもそも生まれてこの方、女性の友人ができたのも初めてだ。望にはどうしていいかわからなかった。
「どこかって、どこへ」
素直に嬉しいと思えても、それをまた素直に感情表現出来るかどうかは別問題。自分の悪癖を呪う。
「どこかっ」
そんな風に口にする彼女は、どこか愉快そうに見えた。以前自分の前で俯いていた時の彼女の面影は、そこには全くなかった。それで良い。それで良いのだ。目の前の一人の少女が笑っている。それだけでこの世界は救われている。そんな考え方ができる自分はきっと、恵まれている。
「ちょっと、何わらってるのっ」
「いや、別に」
気が付けば、だいぶ表情が緩んでいたらしい。慌ててもとの表情に戻そうとするが、なかなか戻らない。自然に笑えたのが久しぶりだからだろうか。
「もう、せっかく誘ってあげてるのに。もういいわ。命ちゃんと二人でいくんだから」
「ごめんごめん。悪かったよ。できれば一緒させて貰えると嬉しい。……浅間、先輩」
「……なんか今更気恥ずかしいわね、その呼び方。私は別に気にしないけど、先輩後輩とか」
「……恥ずかしながら、人付き合いに慣れていなくてさ。今まで特に呼び方とか気にしていなかったんだけど、流石にそのままじゃ失礼だと思って。変か?」
少し不安になって、そう聞く。
「別に変じゃないけど、貴方はそういう気遣いをしない人なのかと思っていたからちょっとね。……そっか、貴方はそういう人なのね。また貴方のことを一つ知れた」
彼女は両の目をつぶり、胸に手をあてる。何をそんなに嬉しそうにしているのだろうか。そんなにも、嬉しいことなのだろうか。そんなことくらい、いくらでも教えるのに。こんな俺何かのことで良いのなら、いくらだって曝け出してやるというのに。おかしな奴だ。
しかしたまには良いか。変わった子に捕まったものだが、たまにはこういうのも良い。そう、今の自分は思うことができた。心の余裕ができたのも彼女のおかげかもしれない。最近吸血鬼のことばかり考えなくても良くなったのは、明らかに彼女の存在が大きい。いつか感謝しなければならないだろう。
「また笑った、もう、何がそんなにおかしいのっ」
「……何でもない」
二人の話声や足音以外には、蝉の儚げな鳴き声だけが響いていた。本格的な夏の到来は近い。
「いつになく嬉しそうじゃないか。料理も今までで一番の出来だ。何かいいことでもあったのか」
「……別に」
「ふむ、まあいいが」
吸血鬼には人間の精神に干渉し、操ったり心の内を読む力がある。以前にもラミアは自身の精神の一部を望の精神に植え付けることによって、こちらの心を読んできたことがある。しかし今はある程度の信頼関係が二人の間にできたということなのか、ラミアが遠慮してそれをすることはない。望としては、一々考えていることを読まれないのは精神衛生上非常に助かっていた。
「ところでそろそろ夏休みなんだよな。当分は学校に行く必要もないし、家にいることがずっと多くなると思う」
そこで望は一つのことを思いついた。
「俺に、神器を教えてくれないか」
「……望」
神器。
それは更なる力。
望には、それが自分と彼女の関係を繋ぎ止めてくれるような気がした。力を求め続ければ、彼女は自分のところにずっといてくれる。それは希望的観測。だが、望にはそれに縋るしかなかった。狡い自分。こんな事でしか、彼女を引きとめられない。
「私も、いずれはそうなるだろうと思ってはいた。力を持つべき者のもとには、否が応でもそれはもたらされるものだ。良いだろう。今後はそれに倣った修練に変えていくことにしよう」
「助かる」
「今更礼を言われるようなことじゃないさ。面倒を見ると、決めたのだしな。私も、更なる力をつけたお前を見てみたい。その先に何が待っているのか、何者へとなっていくのか興味がある」
自分は一体何者になろうとしているのか。最近は明らかに以前と変わりつつある自分のことが、たまに恐ろしくなる時がある。気付いたらいつの間にか吸血鬼になっていた、なんてことは冗談でも考えたくはないが。
「じゃあ……そしたら、ラミアは……」
永遠に、自分の側に……。
いて、くれるのか。
戯けたようにこちらを見つめる吸血鬼。彼女を前にして、たったそれだけの言葉が喉に詰まって出てこない。それを聞いてしまったら、その瞬間にも彼女がいなくなってしまうような気がした。
今だけは、自分の心中を彼女に読んで欲しかった。この言葉にならない声を読み取って、答えを言って欲しかった。永遠に共にいると、言って欲しかった。
「どうかしたか、望」
「いや……別に何も無いよ、ラミア」
「そうか。ではこれを片付けてしまおうか」
食べ終わった食器をラミアが流しへと運ぶ。料理は望がつくり、後片付けは彼女の役目だった。最早勝手知ったる慣れたもので、スポンジを手繰り寄せて一枚ずつ洗っていく。そんな彼女の背中を暫く眺めていた。腕をまくってシンクに向かう彼女は、外人の奥さんのように見えないことも無い。
後どれだけこんな日々が続くのだろう。明日にでもに吸血鬼狩りが、そのドアを開いて現れるかもしれない。彼女がある日突然姿を消すかもしれない。今ここでこうしていること自体が奇跡みたいなものだ。自分は恐れている。その吹けば飛ぶようなか細い日常が、いつの日か足元から崩れ去ってしまうときを。
せめて今だけは、この愛おしい、ゆっくりとした時間を楽しもうと、彼女が食器を洗い終わるまでその背中を見つめていようと望は決めたのだった。




