第四話
「望、ごはんできましたよー。あなたも、はやくしないと冷めてしまいますよー」
「わかったよ。ほら、望母さんの得意料理のハンバーグだ。お前好きだろ?」
自分は母の作るハンバーグが好物だったのだ。いつもチーズを乗せてトロトロに溶かして食べるのが好きだった。
母はこれを毎週、日曜日には家族三人で食べることになっていた。まだ家族が崩壊していなかったときのことである。
「あなた、いつもお仕事ご苦労様。私達の為にいつも働いてくれて、とても感謝しているわ」
「なんだ?急にそんなよそよそしいな。僕が君達の為に働くのは、父親として当然のことさ。それを誇りに思っているよ」
「ありがとうあなた。それはね、今日がある特別な日だからなの」
「え、何の日だったかな」
母はそう言って鞄の中から綺麗に包装された箱を取り出した。
「今日は父の日よ。いつも私達の為にがんばってくれてありがとうございます」
それは父の日のプレゼントだった。母はこの頃、アルバイトしていた。きっとこのためにお金をためていたのだろう。
「本当かい?それは嬉しいな。開けてみてもいいかな」
母は嬉しそうにぜひ、と勧めた。
「……おお、これは」
包装を剥がして出てきた箱から現れたのは、綺麗な藍色のネクタイだった。父が最近付けていたネクタイは、大分使い古してボロボロになっていた。
「似合うといいんだけど」
「勿論似合うさ。凄く嬉しいよ。こちらこそいつも家族の為に家庭を支えてくれてありがとう。そうだ、来週の日曜日はみんなで遊園地にでも行こうか」
「それはいいですね。望も喜ぶわ。良かったわね望?」
ああ、嬉しいな。このときは両親は二人とも仲がよくて、自分にとても優しくしてくれてとても幸せだった。
こんな日々がいつまでも続けばいいのに。永遠にこのままでいられたらいいのに。
その時、頭の中から誰かの声がした。
そういうわけにもいかないだろう。今からお前は、もう一度過去を振り返るんだ。
パチンと、指を鳴らしたような音が聞こえた。
その瞬間、場面が急に切り替わった。
リビングで母が、父に詰め寄られている。
「何なんだこれは?このメールの相手は、……お前の携帯に毎日のように着信しているこいつは」
「…どうして私の携帯を覗いたんですか」
父親は次第に感情を高ぶらせて追求した。
「今はそんなこと関係ない。こいつが一体、…誰なのかと聞いてるんだっっ」
「それは……」
母はその場で黙り込んでしまう。
「さてはお前、俺が苦労して……苦労して働いているその間に、こんなやつと……」
「ご、ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
母はその場に崩れ落ち、ただひたすら謝っている。壊れたように涙をながして。
「どうして、どうしてなんだっ。俺の何が不満なんだっっ」
父はテーブルに拳を叩きつけた。大きな音が鳴り響き、母の身体が震える。
「俺はお前達に、父親としての……何が、何が……間違っていたと言うんだっっっ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
父はその首にしていた、プレゼントのネクタイを外して床に叩きつけた。
「こんなもの……」
そして踏みつけた。
「……っっっ」
母は、壊れたように涙を流し続ける。どうしてだろう、どこからこうなってしまったのだろう。
後から聞いた話では、母親の浮気相手はアルバイト先の男だったらしい。相手の方にも家庭があって、それでもその男は母に強引に迫ったということだ。
母はどちらかと言えば、大人しい性格で誰かに強引に迫られれば、断りきれなかったかもしれない。
ならば誰が一番悪いのだろう。その浮気相手の男だろうか。自分はそいつを恨めばいいのだろうか。
それがなければ、自分は今でもありふれた普通の家庭に、普通の日常を生きていたのだろうか。
パチンとまた音がして、場面が切り替わる。
そこには自分と父親だけがいた。制服をきた自分が、父に向かっている。
自分はその時、確か中学校に入ったばかりだ。そのときはたまたま家にいた父に、どうして未だに二人は離婚しないのか尋ねたのだった。
二人の関係はあの事件から、最悪の状態で会っても口もきかないようなものだったが。なぜか父親はいつまでも自分から関係を終わらせようとはしなかった。
「なんだと。俺がなぜ未だにあの女と別れないだと。……何故俺がそんなことをしなければならないんだ」
父はそう言った。
「何を言っているんだお前は。こうなったのは全てあの女のせいだ。俺は何も悪くない。全部あの女が悪いのだ。何故俺がそんなことをしなければならない?離婚なんてすれば、俺の名前に傷がつくだろうが。今まで完璧だったのに……地位、名誉、家庭……誰もが羨む物を掴んだと思ったのに……」
父は学生時代から勉強もできて優秀で、国立の大学を出て大手企業に就職、すぐに昇格して重要な役職を任されていた。
父は完璧主義者だった。何か一つでも思い通りに行かないと不機嫌になった。そんな父は、母に浮気されたことも許せなければ、離婚することも許さなかったのだろう。
「お前に俺の気持ちがわかるか? わからないだろうな。俺は失敗することは許されない。挫折することなどあってはならない。俺は選ばれた人間だ。悪いのはあの女だ。一生をもって償わせてやる」
父からそんな言葉が出るとは思わなかった。そのとき、父という人間の本性を悟った。今までずっと生きてきて、自分はこの人のことを何も知らなかったのだ。
「お前は頭が悪い。学校の成績も悪いし、何もできない。お前など俺の子供ではない。二度と俺にその生意気な口をきくな」
そして顔を殴られ、頭を殴られ、腹を蹴られた。
「忘れるなよ」
そしてまたパチンと。
そこは学校で、自分は教室の隅で一人で本を読んでいた。皆は、自分のことなどいないものとして扱う。
誰かから話しかけられても、上手く会話ができない。それをもう仕方ないことだと、諦めてしまっているのだ。
自分にはどうせ、人並みの幸せを掴むことなどできないのだ。
気がつけば、目には涙が溢れていた。いつからだろう、涙を流さなくなったのは。自分は本当は悲しかったのだ。
苦しかったのだ。誰かに救って欲しかったのだ。けれど、その方法がわからない。相談できる人もいない。
一人でずっと悩んで苦しんで、傷ついて、心は血の涙を流していた。
「お前は弱いな。全然弱い。幼いだけでなく、弱い。今まで自分のそのどうしようもない弱さをそのままにしてきたのが間違いだったのさ」
気がつけば、そこはもといた薄暗い部屋の中だった。自分はまた真っ黒な棺桶の中に寝かされている。
目から涙が溢れて止まらない。感情の押さえがきかない。今までずっと我慢していた分、それはとめどなくあふれていった。
「くっ……、う……。はあっ、うぐ……なんで、こんな……」
彼女は悲しそうな顔で、僕の事を見下ろしていた。
「お前は強くなるべきだよ。身体以上に心がだ。誰よりも強くなれ。大丈夫だ望、安心しろ」
彼女は、ラミアは優しい顔になって僕に言った。
「強くなれば、自分の居場所だって存在価値だって……どこからでも見つけられる。一人でも生きていけるようになるさ。私はお前みたいなやつが、ちゃんと自分の足で歩けるようになって一人前の男になったのを見たことがある。だから望、お前はもう諦めるな。諦める必要なんてどこにもない。人生を諦めるには、まだいくらなんでも早すぎるだろう。お前はまだまだ始まったばかりだ」
ラミアは、僕に手を差し伸べてくれた。
「僕を、助けて、ください……」
「確かに承った。望」
こうして奇妙な知り合いが、僕にできたのだった。高校生なって少しの、まだ寒さの残る春先のことである。