第二話
気がつけば僕は床に横たわっていた。制服を着たまま風呂にも入らずに寝てしまったらしい。喉が少し痛い。部屋の仲は真っ暗で、現在が夜だということはわかる。
寝起きの憂鬱感にうんざりしながら、ゆっくり立ち上がって部屋の電気を付けた。そのときに同時に空腹を感じる。それも当然である、時計を見ると短い針は真横を指していた。
部屋の隅には狭い調理場や小さな冷蔵庫があるが、今は食材もなにもなかったことに気がついた。買いだめのカップ麺もない。さすがにこのまま二度寝して明日を迎える気にはなれなかった。何より今は明日が来て欲しくない気分だった。明日になれば、また彼らと会わなければならない。
制服を脱いで洗濯物入れに放り、部屋着のTシャツとスウェットに着替えた。洗面台に向かって蛇口を捻って水を出し、口を付けてうがいした。口の中にまだ違和感がある。少ししみる。
ついでに両手で水をすくい、顔にかけて洗った。それでとりあえず目は覚めた。となれば食料を何とかしなければならない。この近くならまだスーパーは開いているだろうが、駅前まですこし歩かなければならないが。
今月は生活費が振り込まれたばかりで、とりあえず蓄えはある。いつもは食材を買っておいてなにか簡単なものを作っているが、今日はその気も起きない。弁当でも買ってこよう。ついでに現実逃避の為に本屋によって読む本を買いたかった。
目的を決定し、財布と音楽プレーヤーだけ持って外に出た。外は真っ暗闇で、閑静な住宅地が殊更に寂しく見えた。まだ日が短い春先だが、それにしても辺りはしんと静まり返っていて、まるで誰もいない世界に迷い込んでしまったかのようだった。
一人でコンクリート舗装された道を歩く。音楽プレーヤーで気に入っているバラードをかけた。自分は好きな曲を何回も繰り返し再生するのが好きだ。本を読むのと同じで、曲の世界観にどっぷり浸かれて嫌なことを忘れられるからだ。
最近はどうやって現実を忘れるか、嫌なことを考えずにいられるかばかり考えている気がする。自分には生きるのに値する理由などなにも思いつかない。自分が何のために生きているのか分からなかった。こんなことを考えているのは自分ぐらいなのだろうか。
今誰かに死ねと言われたら、自分はどう答えるだろうか。死ぬのは苦しくて痛いだろう。それでも、それは生きていたって同じことだ。生きることだって苦しくて痛い。しかもそれは生きている限りずっと続くのだ。それは地獄のようなものだ。死ぬときに苦しいのは一瞬だけ。
それでもまだ自分が生きているのは、どうしてだろう。やはり死ぬのが怖いからか。死の苦しみはどれ程のものだろうか。想像もつかない。考えたくもない。けれど自分はこれから先生きていても仕方ないと考えている。何もかも矛盾した思考。……一人のときはつい何か考え事をしてしまうのが癖だった。何も考えていないということができないのだ。頭の中が空のままだと、自分が消えてしまいそうで怖くなる。
いや、このまま消えてしまうのもいいかもしれない。それができたらどんなにいいか。自分の人生などどうでもいい。このまま生きていても何かが変わることなどきっとない。自分は永遠にこのままだ。僕はきっとこのまま一人で生きてどこかで一人で死ぬのだ。それならば、いっそこのまま消えてしまいたい。
夜の闇に溶けてしまいたい。そうすれば苦しいことなどなにもないのに。傷つかなくて済むのに。そうしてただ考えることだけをし続けるのだ。そうなれたらどんなにいいだろう。
そんな風に思考を放散させていると、いきなり身体がぶるっと震えた。何が起きたのかよく分からなかったが、急に体感温度が下がったような気がする。さっきまで春先の過ごしやすい生温かな夜だったのだけれど、今は冬の深夜の様に肌をを刺すような寒さだった。今まで思考にどっぷり浸かっていた脳内が、あまりの事態に混乱を起こす。
気がつけば真っ暗だった夜空が、夕暮れの様に真っ赤に染まっていた。明らかにおかしいとようやく自分の思考が追いつく。辺りには相変わらず誰もいない。よく考えて見ればいくらこの時間だからと言って、一人も人間がいないのはおかしい。
冷や汗がどっと身体中か流れる。本能が危険信号を察知していた。これはどう考えても緊急事態だ。一体なにが起きているのだ。自分はおかしくなってしまったのか。それともこれは夢なのか。まだ自分は目が覚めていないのか。気がつけば自分は住宅街を外れ、見覚えのない場所にいた。自分は確かに駅前に向かって歩いていたはずなのに。
経験したことのない状況に、恐怖し動悸がおさまらない。息が苦しい。自分はどうしてしまったんだ。これが夢なら覚めてくれ。お願いだから、夢から覚めて、自分の部屋で目覚めさせてくれ……。
そう誰ともなくすがった。次の瞬間、そんな所に誰もいなかったはずなのに、どこからともなく人影が自分の目の前に現れた。
「お前はどうしてそんなにも苦しんでいるんだ」
よく聞こえなかった。しかしその人影は自分に何かを言ったような気がする。
「これは酷いな。お前ボロボロじゃないか。身体もそうだが、心がズタズタに引き裂かれている。こんなになるまで、一体何があったんだ。何があればこんなことになるんだ」
断片的に聞き取れた気がする。目の前には一人の背の高い女性がいた。
それは息を呑むほどに美しい人で、真っ赤な長髪を肩まで伸ばしていた。モデルのように整った顔つきに、美しい血のような色の瞳。外人のように高い鼻。野性的な唇。
自分よりも頭一つ高く、その身には真冬に着るような厚手の白いコートにマフラーを身に着けていた。その女性は再び自分に話しかけた。
「おい、きいているのかお前」
自分はその場に崩れ落ちた。恐怖によって身体の自由が利かない。自分の手足が急に動かなくなった。自分の身体ではないかのようだ。
人間は本当の恐怖を前すると、指一本動かせなくなるのか。自分はいったいどうなってしまうのだろう。息すらもできなくなる。胸が苦しい。
「瘴気が強すぎたか。悪いことをした。おいお前、大丈夫か? 聞こえるなら返事をしろ私がわかるか?」
急に空気の重さが緩んだ。そして身体の自由が少し利くようになり、そして入れ替わりに恐怖が甦る。
「はあっっ、はあ、はあ……。なんだっ、一体なんなんだあんた……」
「お前は今、私に頭の中を乗っ取られている状態なんだよ。だから私にはお前の心の中が見える。お前の心が傷だらけなのがわかるんだ。……これは、私も久しぶりに見たな。お前これまでそうとう酷い人生を送ってきたな。そうでなきゃこうはならんよ」
そんなことを言われた。最初は恐怖ばかり感じていたが、次第に怒りのような感情に置き換わっていく。何も考えずに目の前の女性に叫んだ。
「……お前に、お前に何が分かるんだっ。お前なんかに僕の何がっ……分かるって言うんだっっっっ」
「……ふん。それもそうだな、会ったばかりの私にそこまで言われて、ちゃんと怒れるんじゃないか。壊れかけてはいるが、感情はまだ死んでないらしい。いいね。そういうやつは私は嫌いじゃない。今度はこいつにするか」
「何だ……僕をどうする気だ……」
身構えた。いつでも逃げ出せるように体勢を変える。自分は暴力沙汰とは無縁であり、格闘技やスポーツの経験はほとんどない。なにより目の前の女性に勝てる気がしなかった。
「お前に介入してやるよ。今はとりあえず眠っておけ」
彼女の手が伸びてきて、自分の額に触れた。それに抵抗しようとしたが、再び身体が動かなくなる。
「安心しろ、とって喰いやしない」
そして目の前が真っ暗になり、意識が遠のいていくのが分かった。自分はなすすべもなく無意識の海に溺れていった。