第六話
「朱音。こっちへいらっしゃい。もっとこっちへ来て顔をよく見せてちょうだい」
誰かがとても優しい声で自分の名前を呼んだ。それが誰であれ、どんな状況であったとしてもすぐさま警戒心を解いてしまうような澄んだ声色で。私は何も考えず、ただ反射的にその声のする方向へと近づいていった。
「良い子ね。そんなあなたには、……抱きしめて、おでこにキスしてあげたいのだけど、それができないのが悲しいわ。本当に悲しいわ。けれどそれは、どうしようもないのね」
どうして? 私はここにいるのに。触れて、抱きしめて欲しいのに。どれだけ近くに行こうとしても、その身体に触れることができない。どれだけ手を伸ばそうとも、捕まえることができない。見えない壁に阻まれているかのように。
「朱音。何か悲しいことや苦しいことはありませんか? 私はそれだけが心配なのです。それだけが気がかりだったのです。私の人生などは、もう自由にならないことは分かっていたから。それは別にいいの。それでも、あなたがいつか一人の女性として自由を求めるようになったとき、自分の境遇に疑問を抱くときがくると思うの」
その人の顔があるべき場所には靄がかかり、よく見えない。しかしその声は何度も聞いたことがある。
「それはね、いつか私もそうだったから。何度も自分の選択が本当に正しかったのか、迷ったの。後悔もした。苦しくて、苦しくて、何が正しいのか何を信じればいいのか分からない。誰にも相談できない。今にしてみれば、どうしてそんなことで悩んでいたのだろうって思うのだけど、それが若さというものなのね。それは歳をとっていけば、あなたもいつか分かるでしょう」
届かないことは分かっていたけれど、空しく手を伸ばした。闇雲に霞む彼女の姿を捕らえようと、そして触れて抱きしめてもらおうと。しかしそれが叶うことはなかった。
「ごめんね、朱音…………」
目を覚ました時には、私は灰色の天井に向かって右手を伸ばしていた。全身に軽く汗をかいていて、少し気持ちが悪い。部屋着を身につけて寝台に横たわっている。どうやらまたあの夢を見ていたようだ。いつも顔が見えなくて、触ることもできないけれど、いつも同じ声で、あれは。
きっと母親なのだろう。
あの夢を見るたびに、目を覚ました時に喪失感に苛まれるのだ。夢の中だけは満たされていられるけれど、それが終わった時に何ともいい難い気持ちにさせられる。自分はこの先ずっとこうなのだろうか。いつまでも、もういない母親に依存して――。
この前まで地上を嫌みたらしく照りつけていた太陽は、段々と影を潜めつつあった。蝉の鳴き声ももう聞こえない。皆その命を枯らして土に還ったのだろう。その一生のなんと儚いことか。彼らは一体何のために生れて、何のためにその短い生涯に力の限り鳴き続けるのか。
それを思うと朱音は非常に不憫に思った。彼らは何も好きで、その姿に生まれたわけではないはずである。私がこの家の娘に生まれたのと同じように。この世界はなんと理不尽にできているのだろう。
せめて蝉たちが来世に命を授かった時には、人間となって幸福になれるように願った。こんなこと、何の意味もないけれど。
私が信じていれば、きっと誰も信じないよりは救われると祈って――。
今日から陽の出ているうちに屋敷の外へ出ることを禁止された。私の自由な時間はなくなり、「先生」には四六時中監視されるようになった。もう夕方にあそこへいくことはできなくなった。私が言いつけを破ると「先生」もこの家での立場がないので、ついに痺れを切らしたらしい。私がもう少し歳をとれば、もうこの家に一生仕えるようにさせられる。その為の準備が始まってきたということ。
鬼頭家では十六になれば大人としての扱いを受けるようになる。今の朱音の年齢は十五。今まで見逃されていたことが、もう許されなくなる。鬼頭の女として、鬼頭の奴隷として扱われる。飼い殺される。
その絶望的な現実から目を背けるようにした。
陽が落ちて誰もが寝静まった頃に朱音は寝台から起き上がった。部屋着のまま扉をそっと開け、静まり返った屋敷の廊下を音を立てずに進んだ。隠しておいたランタンを手に取り、事前に決めておいた窓を開けてひんやりと冷たい夜の世界へと身を投げ出す。
生い茂る雑草をかき分け、獣道を進んでいく。昼間とは違い足元が良く見えない。足を怪我しないように注意しながら暫く歩いた。背の高い木を目印に、目的の洞窟へは迷わずに行けた。洞窟の入り口はいつもと変わらず朱音を待ち受けていた。しかし陽が出ている間と比べると、その暗闇はいつもより深く感じられた――。
何度来ても、この暗闇の中を歩いていく孤独感には慣れなかった。ランタンの光がなければ闇に恐怖心を煽られ、心を呑み込まれてしまいそうだ。横穴はいくつも枝分かれしていて、どことなく人工的な感覚を受ける。こんなものが自然に出来上がるものなのだろうか。
視覚が頼りにならない代わりに、他の感覚を研ぎ澄まして進む。最初にここを訪れた時には、どうやってあの場所までたどり着いたのだったか。よく思い出せない。あの時は何か良くないものに取り憑かれていたような気がする。思い出そうとすると、何か濁った気持ちの悪いものが逆流してくるような予感がしてそれをさせない。
ここは何故か、外の世界とは切り離されているような気がした。屋敷で過ごしているときのような、はっきりとした現実感が、この闇の中では抜け落ちているように思う。どうしてそう思うのか、何の根拠もないけれど、なぜかそう感じた。
暗闇は恐怖心を増長させる。普段は心のうちに隠れている恐れや怯えといった感情は闇が大好きだ。たった一つの灯りを頼りに、なんとかそれを振り払おうとする。行く先の道を照らし、前だけを見てただひたすらに歩く。
早く彼に会いたい。その何もかも包んでしまうような笑顔を向けて欲しい。私の中のどうにもならない気持ちを吐き出したい。この寂しさを、苦しみを癒して欲しい。早く、はやく……。
そして気付く。私は一体今どこを進んでいるのだろう。ここはいくつめの分帰路で、あとどれだけ進めば良くて、どのようにしたら戻れるのだろう。次第に心中を犯していく絶望感。自らを支えていたものが、がらがらと音を立てて崩れていく。
余裕が無くなり、暗い水の底に沈んでいくような錯覚に襲われる。閉鎖的な空間に押し潰されそうになり、頭の中が真っ白になっていく。
さっきまであったはずのランタンの灯りが消えている。嫌だ、いやだいやだ……やめて、怖い。いやだ。
いやだ。
この空洞が、生き物の如くうねりをあげて自分を呑み込もうとしている。どこまでも深い闇に溶けていき、自分が自分でなくなっていく。私という存在が濁った汚水に混じっていく。身体中から冷や汗が吹き出し、手が震え、それでもどうすることもできなかった。既に体の自由がきかない。
……誰か、助けて。
きっと誰も助けてくれない。今までだってそうだった。私は独りだった。どんなに苦しくても寂しくても、それは自分一人の胸に抱きかかえていた。ずっと独りで泣いていた。誰も助けてくれない。この世界は私を助けない。世界は理不尽だ。私はこんな暗い世界の片隅で、誰にも記憶に留められることなく果ててしまうのだ。
暗闇に向かって伸ばした手を、力なく降ろした。
「戻ってくるのです。ここは、自らの心の中を映し出す領域。あなたは自分の中の闇に呑まれようとしているのです。さあ、私の手を掴んで」
そんなときどこからか声がした。どこかで聞いたような気もするし、初めて聞いたような気もする。しかし私は、無我夢中でその手を取った。自分に最後に残っていた力を振り絞って、その手を握り返した。ほのかに宿る体温は、私を濁った水の中から救い出し、私という存在を再構成していく。
次に正常な意識を取り戻した時には、私は誰かに抱きあげられていた。腰とひざ裏を支えられ、しっかりと抱かれている。胸を犯す閉塞感が薄くなっていく。震えが止まる。ランタンの灯りが再び視界を弱く照らした。
「良かった。私の声が聞こえますか? 意識を強く持って、光を良く見るのです。大丈夫です。……大丈夫ですよ。あなたの中にはちゃんと希望があるのです。気を確かに」
「……トロイア、様」
「ここでは確固たる自分を常に持ち続けなければならないのです。でなければ深淵に迷い込み、二度と出てこられなくなる。あなたは鬼頭朱音――そうですね」
「……わた、しは、鬼頭、……朱音」
私は鬼頭朱音。十五歳。鬼頭家の長女。現当主鬼頭総司の娘。
しかしそんなことはどうでもよかった。そんなことに誇りも愛着もない。その意味も重みも分からない。分かりたくない。
暫く彼の腕の中で揺られていた。体幹がしっかりしているのか、あまり抱かれているという感じがしない。心地良い気持ちになって、寝てしまいそうになった。
その間トロイアは終始無言でいた。私も不躾に話しかけることはしなかった。なぜかそうしてはいけないような気がした。見上げればすぐそこに彼の顔があった。ここまで近くで彼の顔を見たのは初めてだった。
その表情は、安心のような、苦痛に耐えているようなものが複雑に混じっている風に見えた。どうしてそんな顔をするのだろう。彼のそんな顔をあまりみたくなかった。彼の様な人間が救われないのなら、そんな世界は間違っていると思った。