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She is a vampire【挿絵あり】  作者: 如月しあの(Xではべなお)
◆Ⅱ The journey of a trial
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第五話

 挿絵(By みてみん)

 それからというもの、朱音の世界は変貌を遂げた。闇に怯えながら眠る夜は、やってくる明日に想いをはせる夜に代わり、寝付きも自然と良くなった。


 目覚めは心地良いものになり、早朝の鳥のさえずりは朱音を快く陽光の差し込む世界に誘った。朝の日差しとはこんなにも暖かく、眩しいものだっただろうか。


 洋風のベッドから身を起こし、箪笥まで歩いていって洋服に着替える。白を基調とした簡素なワンピース。机の上に散らかっている本や筆をまとめ、朝の準備をする。無意識に鼻歌まで出ていた。今までには考えられなかったことだ。一体自分はどうしてしまったのだろうか。


 しかしその原因は明らかだ。体に残る擦過傷が、心に残る胸の高鳴りが、昨日の出来事が夢や幻でなかったことを示している。胸に手を当てると、あの出来事が蘇るようだ。そっと大事に朱音はそれを心の奥底にしまった。そして昨夜、眠りに落ちるまでに計画していた事を今一度頭の中で反芻する。


 いつも通りに朝食を食べ、給仕に後片付けを任せる。気のせいだろうか、いつもよりおいしく味わえた気がする。昨日の出来事は、どうやら朱音の感覚を大きく変えてしまったようだ。それはきっと、朱音にとって悪くはない変化。


 「先生」の時間を耐え忍ぶのは不思議と辛くなかった。どんなに酷い扱いを受けても、自然な笑みさえ出すことができた。こんな強さ、一体自分のどこに存在していたのだろう?


 昨日の帰り道は不思議と迷うことはなかった。トロイアと別れ、洞窟を後にした私はその足で屋敷に帰り、「先生」から仕置きを受けた。理由を問われれば、外が騒がしかったので様子を見に行ったところ、暗闇に迷ってしまったと釈明した。面と向かって嘘をつくことも、何の躊躇いもなかった。昨日のことは誰にも口外しないと、彼と約束したのだ。


 今まで苦痛と孤独だけが支配していた朱音の心を、そんな悪戯な「秘密」という言葉がどこまでも軽やかに響いていく。秘密。何となく大人な響きだ。


 トロイアの存在を自分だけが知っていて、それを誰にも言ってはならない。私の意思、決定によってそれは保たれている。どことなく危険で、しかし魅惑的な状況。もちろん私は誰にも話さない。彼のことは私の心にだけ、そこでだけの禁忌。


 気がつけば書架に囲まれた部屋は、オレンジの色彩に包まれていた。「先生」の目から解放され、与えられる朱音の時間。本当なら朱音はここで自習を続けなければならないが、少し抜け出しても大丈夫。きっと大丈夫。都合のいいことに最近は、総司が家を空けている。それは朱音の心中を明るくさせている要因の一つだった。


 途中まで読んでいた本を棚にしまい、広げていた筆や本をまとめて書架の間を後にする。なるべく誰にも気づかれないように慎重に、自分の部屋へ戻り身を軽くする。ふと思いつき、鏡の前に立って自分の姿を眺めた。特に注意して見たこともないそこにいる人間のことを、冷静に観察してみる。


 そこまで女性として外れてはいないはずだ。比べる対象がないから判断に迷うけれど、毎日最低限の手入れはしている。あまり服はないからお洒落なんてできないが、朱音は机の中から櫛を取り出して髪をとかした。そして暫く鏡の中の自分と向き合い、そこに今まで見たことのない表情を見つけて少し戸惑う。


 今日何度もした問い掛けを、再び繰り返した。


 私は一体どうなってしまったのだろう?







 普段は入ったことのない調理室へ忍び込み、誰もいないことを確認する。この時間、給仕は晩餐の準備に出ているはずだ。息を殺し、足音を殺して食料貯蔵庫へ。硬い扉には特に錠の類は付いていない。必要性がないからだろう。


 しかしそれはこの場合非常に好都合。朱音は手当たりしだいに物色し、パン数切れにチーズを小さなバスケットに入れて持ち出した。ついでに廊下に放置してあったランタンを手に取り、屋敷の玄関から外へ出る。


 いつも暮らしている屋敷なのに、まるで知らない場所を探検しているかのように落ち着かない。悪いことをしているという自覚はあった。しかしそれを後ろめたいと思う気持ちは、もっと強い別の感情によってあまり感じない。それを考えると、胸の鼓動が高鳴り、心が溶けてしまいそうになる、そんな感情。


 今まで感じたことのない感情。まだ朱音の心は、あの世界からここへと戻ってきていないようだ。今私の身体は抜け殻。魂の抜けた器だけのもの。その器は意識とは別に動き回り、別の生き物のように朱音の手足を動かす。気がつけば目の前には朱音を待ち受けていたかのように、暗い洞窟の入り口があった。陽は落ち始めているが、夏の日光はまだジリジリとした不快さを肌に与えている。


 右手にバスケットを、左手にランタンを持ち、朱音は暗闇の世界へと足を進めた。





「人は時として、道に迷うことがある。それは人生において至極当然のことです。私も何度も道に迷いました。しかし今にしてみれば思うのです。そのとき考え、迷い、導き出した答えの多くは今も残っていると。そしてそれは己をつくっていく。だから人が道に迷うのは、神様の私達への試練なのです。これは不思議ですね」


 トロイアは昨日と同じように岩に体を預け、低い声で語り続ける。その言葉の一つ一つは朱音の記憶の本棚に新しい言葉を増やす。彼が時折、こうして小難しい話をはさむのが嫌いではなかった。その時の彼は、くたびれた笑顔をすることに気が付いたのだ。それは何となく、彼の本質を表しているような気がした。


「神様なんて、本当にいるのですか?」


 それは純粋な疑問。小さなときからずっと考えて来たこと。


「それを信じる人の中には、いるのです。お嬢さんは神様を信じていますか?」


 信じているか。それは少し違う考え方。信じるかどうか。そんな曖昧なことにどんな意味があるのだろう。少し考えて自分なりの答えを出す。


「……私は、よくわかりませんが、世界のどこかにはいるんじゃないかと、思っていました」


「お嬢さんがそう思っているのなら、きっとどこかにいる。そういうものは理屈で考えてはいけないのです。ここで感じるのですよ」


 そう言って彼は右腕をゆっくりと動かし、胸を指で示した。


「心で、感じる……」


 同じように右手を胸に当ててみる。いつもより少し早く鼓動する心臓。それは何となく救われる言葉だった。それを信じる人の心の中には、神様がいる。だとしたら私の抱える苦難や葛藤もいつか取り払われ、報われる時が来るのかもしれない。


「ところで先ほど頂いた昼食はどうもありがとう。今の私にとっては、極上の晩餐に勝るとも劣らない味でした」


「そんな、ただのパンとチーズですのに。それくらいしかとってこれなくてごめんなさい。トロイア様のことを打ち明けられれば、もっと良いものを用意できるのですが……」


「いやいや、私にはお嬢さんのその気持ちだけで、胃袋は膨れるものです。私の心は確かにお嬢さんの温かい気持ちで救われています。こんなにも幸福な気持ちにさせてくれてありがとう」


 彼は私の目を見て言った。それは私まで幸福にさせるような笑顔だった。だれかにこんなにも感謝されたことが、自分の人生に一度でもあっただろうか。何となく体中がくすぐったくなる、それでいてどこか嬉しくなってくる。こんな私でも生きてきてよかったのかもしれないと思わせてくれる。


「……喜んでくれたのなら、嬉しい、です。今日はあまり長くいられないのですけれど、できれば……またお話を聞かせてもらえたら、私は」


「お安い御用です。それでは……あれはいつだったか。異国の地で綺麗な少女を助けたときの話をしましょう」


 そんな時間にだけ、私の心は器を見つけて収まっていく。彼の紡ぐ世界の中に私の、私だけの居場所がある。あの人の温もりがしない屋敷にはない、私の居場所がそこにはある。私だけの居場所。


「なんとも美しい少女でした。そう、丁度お嬢さんに似ていたかもしれません。その少女が山奥で化物に襲われていたのです。世にも恐ろしい獣の怪物でした。それは私の体という体に深い傷を負わせたのです。それから……」


「それからどうしたのですか?」


「決死の覚悟で立ち向かい、一晩をかけて何とか打ち倒したところで少女に感謝され、口付けを頂きました」


「…………」


 この感じたことのないもやもやはなんだろう。赤くて黒い色の感情。何だか動悸がして、胸が苦しくなる。そして心を占める寂しさ。


「どうかしましたか?」


「…………なんでも、ありません」


 朱音は、人間なら生きているうちに自然に知るいくつかのことを、初めてそれに触れた赤子のように一つ一つ覚えていった。そしてその過程の中で、同じように何かが育っていった。それは朱音自身にも知れないものだった。

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