第三話
「こんなところがあったなんて……」
自分の喉から発せられた音が、先の見えない暗闇へと浸み込み消えていく。この先は一体どこに繋がっているのだろう。
身につけていた衣服はずぶ濡れ。顔に付いた泥を手で拭い、荒れた呼吸を落ち着かせる。そこは外から雨音だけが響く場所。中は横に長く伸びた洞窟になっていて、先は見通せない。何と無く不安にさせる場所。
自らの心の深淵をのぞきこんでいるような気分に、朱音はなった。一度入ったら、二度と出てこられないのではないか、などと思った。そこで気付く。
「……私には、関係ありませんでしたわ」
そんな状況こそを、まさに自分は求めていた。朱音はただ心の赴くままに、洞窟の内部へと歩き出す。何もなくても、死に場所くらいは見つかるかもしれない。
疲れ果て、疲弊しきった体はしかしそれでも暗闇の中を歩んでいった。己の意思はもはやそこには在らず、ただ目の前に一歩を踏み出す。視線は目の前へ。入口がだんだんと遠くなっていき、暗闇が濃さを増していく。それに連れて朱音の内を犯していく恐怖心。自分の中を、目に見えない暗闇が埋め尽くしていくかのように。しかし私は確かめなければならない。
あの声の、主の存在を――。
私は、空から地上を見下ろしていた。そこは見たこともない世界だった。
荒れ果てた大地。燃え盛る焔の渦。かつては原形を留めていただろう、建物の無惨な姿。ゴミ溜めをひっくり返したような、そんな、そこはまさに地獄だった。
排ガスの様な黒煙が辺りから灰色の空に昇って行き、大気へと溶けていく。陽の光は地上に届かず、神の目さえもここには届かない。掛け値なしに救い様のない、絶望そのもの。
私は、黒煙の中に二つの影を見た。
その二つの影は、争っていた。その姿形からして、人間なのだろうけれど、私には彼らは人間とは思えなかった。それは人間の形をした化物だった。人間の形をした、災厄の具現であった。
彼らはなぜ争うのだろう。彼らはなぜ争わなければならないのだろう。どうしてお互いに傷つきあってまで、お互いに傷つけ合うのだろう。せっかく自由なのなら、お互いを思いやって尊重すればいいのに。
その光景は鬼頭朱音の人生観を激しく問いただした。なおも激しさを増す災禍。ぶつかり合う力。流れる血液。人はこんなになってまで、どうして争わなければならないのだろう。
自分の生まれる前の世界大戦の話は、歴史の時間に教わったことがある。日本はその戦争に敗れ、異国の支配下に置かれた。それまでは軍事国家だったこの国は、今では民主主義となったそうだ。民主主義とは、国民の意見を広く聞き入れる政治形態のことだ。朱音は、そもそもそんな考え方に名前が付いていること自体に驚いた。
だって、そんなのは当たり前のことだろう?
同じ人間に生まれた私達に、どうして相争うなどできようか。そんなのは間違っている。だって、殴ったら痛いでしょう? 蹴れば痛いでしょう? 刺したら苦しいでしょう? そんなのは悲しいではないか。
私はどうしてこんなところにいるのだろう。いやだ。苦しい。息苦しい。肺が絶望で満たされていく感覚。やめて。もうこんなものを見せるのはやめて。
そうだ。これは現実ではない。これは夢だ。私のいるべき場所ではない。そうであるはずがない。そうであっていいはずがない。
この世界は間違っている。こんな世界があってたまるものか。こんな景色があってたまるものか。私が見たいのはこんな色では――世界ではない。私はこんなものを求めていたのではない。
なのにどうして、私はこんな場所にいるのだろう。これは夢なのだろうか。それとも現実なのだろうか。妙に現実感の残る頭は、目の前の光景に疑問を持ち始めていた。まるで出来の悪いを芝居でも見せられているようだ。……やめて。出ていって。
私の精神を、心を――返して。
「はぁっっ……、はぁぁ。けほっへほっっ」
次の瞬間、外界から何かが体の中に流れ込んでくるような感覚に襲われて現実に帰る。嫌な汗が体中から吹き出し、後頭部が鈍く痛む。吐き気も多少する。一体自分はどうしてしまったのだろう。嫌な夢を見て飛び起きたときのように、全身に疲労感が残っている。その場に蹲り、苦痛が過ぎ去るの待つ。
そういえば私は、小さな頃は夢を見ない子供だった。と思う。それが最近は母の夢ばかり見るようになった。夢の中では、それが夢であるとはわからないものだ。だから私は、その夢の中では母親に甘えられる。母親に愛してもらえる。その後に、目を覚ましてそれが夢だと分かったときに、余計に悲しくなってしまうのに。それでも私が毎晩母の夢を見続けるのは、そこでだけでも母に会いたいからだろうか。
そうだ。もしかしたら、もうすぐ会えるかもしれない。
母と同じところに……、もうすぐいけるかもしれない。
落ち着いてから暫くして、私は再び歩き始めた。私をそうさせるのは、心の奥深くの想い。暗く深い場所にずっと、そこに在った気持ち。きっと体はもうとっくに限界を超えているのだろう。それでも私は歩き続けた。気持ちだけで歩き続けた。人間の限界というものは、恐らく自分で勝手に思い込んでいるだけで……そう簡単には人は壊れない。要は気持ちの問題なのだと、らしくもないことを考えていた。
自分の背丈の一回り高い程の横穴を暫く進んでいると、少し開けた場所へとたどり着いた。そこは屋敷の自分の部屋程の広さがあり、よく見るとその先へと進む道が枝分かれしている。二本の道。二つに一つ。私はそこで立ち止まり、どうしたものかと考えを巡らせた。さして考えるようなことでもないかもしれないけれど。この先に目的地があるわけでもない。行けるところまで行き、そこで終わるだけ。
朱音は、なんだか不思議な気分になった。これはまるで人生のようだ。人間は誰でも、生まれたときに進むべき道がある程度決められている。そこから抜け出すのは困難。それこそ洞窟の壁を手で掘り進むようなものだ。普通の人間は定められた道を渋々、それでも歩んでいく。
そして時々、こんな分かれ道があるかもしれない。しかし選べる道の数、それがどこに通じているかは廻り合せ。その人間がどれだけ努力したか。そうした要因が関係しているのかもしれない。
少し違うのは、人生は一度歩んだ道を引き返すのが難しいところだろうか。
私には、選ぶ道そのものが存在していないのだろう。
のとき、頭の中に誰かのつぶやきのような音が響いた。
――右へ進みなさい
今度ははっきりと聞こえた。短かったけれど、確かに人の声に……間違いないだろう。どうするか、私には一つ以外に考えられなかった。
迷路のように枝分かれし、入り組んだ道を朱音は頭の中に響く声に従って進んだ。もういくつ分岐路を通ったか思い出せない。帰り道の心配はいらないが、毎日を過ごしていたあの屋敷での日常がだんだん遠のいていくのを感じて恐ろしくなる。
だんだんと全身を非日常が侵食していき、自分が自分でなくなっていく感覚。徐々に酷くなる頭痛に耐え、既に手足の神経は脳への情報伝達をを放棄していた。
この旅路は、一体どこに通じているのだろう。
この声は、一体誰なの?
その時、深遠の暗闇にひとつの小さな明かりが灯った。その明かりは徐々に、進むたびに広がっていく。朱音の視界に色を与えていく。世界が広がっていく。今まで苦しめられていた何かから、開放されるかのように。彩音はその明かりを無心で目指した。
そこはまるで別の世界のようだった。弱々しい燭台の光が照らすだけの、小さな世界。今まで見たことがない世界。見渡す限りでは、屋敷の庭程の広さがある。そこは、言うなら広間のような空間だった。中はゆうに建物の一階程の高さがある。
その世界には一人の住人がいた。それはその空間の中央、少し盛り上がった岩に寄りかかって眠っていた。見た目は父よりはずっと低く、兄よりは年をとっているだろうというところ。それは私の眼がまだ正常な機能を果たしているのなら、間違いなく男性の姿だった。
幼さからはかけ離れた顔立ち。それはこの世の全てを見てきたかのような、穏やかで落ち着いた雰囲気を漂わせていた。漆黒で長めの髪の毛。線のはっきりした輪郭。頬が少しこけ、やつれてはいるが。確かに寝息を立てている。確かに生きている。
ボロボロの旅人のような格好で、男は私に気付くこともなく静かに眠っていた。この不思議な空間は、主の眠りを妨げることなくただ静かに存在していた。世界の誰からも犯されることなく、ひっそりと、ただ静かに在った。
それはあたかも物語の主人公のように。艱難辛苦の旅路を乗り越え、邪悪なる魔王を打ち倒した勇者のように。燭台の明かりは彼の姿を優しく照らし、その全身を炎の揺らぎで映したり隠したりしている。
その光景は一枚の絵画と言ってさしつかえ無かった。その全ての色が世界を彩り、その全ての線が世界を形作っている。互いの色はそれぞれを邪魔することなく、見事な調和で何か秩序のようなものを存在させている。この世に本物の芸術があるのなら、それはこの光景に他ならない。鬼頭朱音はそう確かに感じた。