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She is a vampire【挿絵あり】  作者: 如月しあの(Xではべなお)
◆Ⅱ The journey of a trial
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第二話

挿絵(By みてみん)

「………………、はあ」


 朱音は自分に言い訳の才能がないことを知った。そもそもの話、ほんの少しも課題に取り組もうとしなかった朱音に落ち度があるのだが。


 時間は夕暮れ時。暗くなり始めた自習部屋で、一人机に向かい鉛筆を手に朱音は途方に暮れていた。


 あの後の成り行きは言うまでもない。正当な理由のない、ただのサボリは教師によって看過されることはなく、昼休みもなしに暑苦しいこの部屋に缶詰めである。


 ただ黙々と本棚と机を行き来し、山のように出された課題の手がかりを何とか見つけだそうとしていたが、先程からは手詰まりでその手は止まったままである。


 今日一日中文章を見続けていたせいか、頭の中を漢字がぐるぐると回っていた。鉛筆を持つ右手も指が疲れ、炭で真っ黒になっていた。


 とても今日中に終わりそうにない。このままでは徹夜だ。そして当然のように晩餐も無しに違いない。朝から何一つ口にしていないせいか、頭がぼんやりとする。


 ああ、自分はこんなところで何をやっているのだろう。本当はもっと外の世界で色々なものを見たい。聴きたい。触りたい。


 それなのに自分はこんな窮屈な所で頭を悩ませ、炭にまみれるばかり。こんなことは自分の望んでいることでは決してない。


 自由に空を羽ばたける鳥になれたらどんなにいいか、と朱音は思った。自らの翼で、何に囚われることもなく大空を何処までも飛んで行ける。どこまでも自由に。高みから地上を見下ろすことができる。悩みも苦しみも何もない、そんな鳥になれたらどんなにいいか。


 人間は不自由だ。この世界で一番不自由な生き物だ。いつも見えない鎖に縛られている。何でもないことで気をつかい、精神をすり減らし、自分を自分で雁字搦めに縛り、気付けばボロボロになっている。こんな不条理な生物は他にいない。その辺を走り回っている野良犬の方が余程合理的だと思う。


 こんな書物だけを読み漁ることが、一体現実世界で何の役に立つというのか? きっと鬼頭の娘にはその程度で十分なのだろう。鬼頭の娘には、その程度のことしか求められていないのだ。これは男達に仕える為に、必要最低限の教育なのだ。学校に通わせてもらえないのも、鬼頭の娘に他の人間との接し方もその必要もないからだ。


 自分はこのままでは、ここで飼い殺しにされるだけ。このまま燻ぶっていくだけ。鬼頭という名の奴隷として一生を終える。それは嫌だ。嫌なのに、それでも自分にはどうすることもできない。総司に言われた。自分の面倒も見ることもできない餓鬼と。その通りだ。私はまだ自分の力で生きることもできない子供だ。例えここから逃げ出したところで、その先の当てもない。


 私はここ以外の世界を知らない。それは例え高い塀に囲まれていなくとも、屈強な門番がいなくとも、私を決して逃がさない見えない壁のようにこの屋敷を取り囲んでいる。総司は私が何もできないと思っている。実際そうだ。私にはどうすることもできない。


 深くため息をつき、机に覆いかぶせていた身体を起こして椅子の上で大きく伸びをした。少し考え事に耽りすぎたようだ。このままでは、はかどるものもはかどらない。しかしどうしたものか。


 そのとき、屋敷の外の動物達のざわめきが耳に飛び込んできた。鳥が鳴き、獣が吠えている。そういえば今日は朝からやけに外が騒がしい。何か不吉な予感がするが、今の朱音にはそれ程気にならず、捨て鉢な頭はむしろこう思っていた。


 少し抜け出しても、ばれないだろうか?





 夜の山は朱音の知らない世界だった。真っ暗な闇の中を、手にするランタンの灯りが照らす。屋敷の者には何とか気付かれずに抜け出せた。


 最近屋敷に閉じ込められていた彼女は、無心でひたすら自分の身体にただ一つの命令を下す。高い木々の下を歩き、草をかき分けて進む。今宵は月の明るい夜だった。


 今日は父も仕事で屋敷を離れている。最悪見つかっても面倒なことにはならないだろう。気晴らしに少し散歩するだけ。風に吹かれて考え事でもすれば、良い考えが浮かぶかもしれない。というのは半分の理由で、もう半分は投げやりで破滅的な思考である。


 足下に気をつけながら進む。心中の赴くままに。特に当てもなく朱音は山を降りて行った。方向は街の方とは真反対。道のない道を、無心で彼女は進んだ。心の迷いを振り払うかのように、ひたすらに進んだ。


 そうだ。どうせ私なんか、どうなったっていいのだ。例えここで何かがあって、私の身に何が起ころうと悲しむ人は誰もいない。鬼頭の継承は兄が一人でその役目を十分果たすだろう。あの厳格な兄ならやれるはずだ。


 どうしてだろう。泣けてきた。この世に自分を必要としている人が一人もいないということに、どうしようもなく打ちのめされて。自分という存在の意味をどこにも見出せなくて。世界の非情さに絶望して。この先の未来にも希望はなくて。しかし自分の心はとても鬼頭の人形でいられるだけ冷たくなくて。とても苦しくて、痛くて、胸が張り裂けそうで。母の温もりが恋しくて。


 苦しくて、苦しくて。何もかもがどうでもよくなって。


 気がつけば朱音は走っていた。草木を踏みしめ、蹴って走っていた。運動などろくにしていない、華奢な身体でぼろぼろになりながら走っていた。


 枝を髪の毛にひっかけながら、靴を泥で汚しながら。何度も転びながら服を汚しながら。


 途中で雨が降ってきたことにも気がつかずに走り続けた。何かから逃げるように走り続けた。


 いくら走ったところで、その何かから解放されるはずもないのに。いくら逃げたところで、この心の渇きが癒されるはずもないのに。鬼頭朱音は逃げるように走り続けた。


 次第にその思考に解離し始めた肉体が悲鳴を上げ、木の根に足を取られて思い切り転倒する。顔を地面に打ち、口を切った。土の苦い味がした。これが人生の味なのだろうか。だとしたら、自分は一体何の為に生きているのだろう。


「何を、やってるの……かしら」


 天から降り注ぐ無数の雨粒が、朱音を濡らし涙を隠した。まるで自分の心が分かっているかのように。意識と肉体はとっくに離れ離れになっており、その場から動く気にもなれなかった。このまま自分は死ぬのかもしれないと思った。こんな所を獣にでも襲われれば、非力な自分にはひとたまりもない。諦めもつくだろう。


 どうせこんな人生なんて。あってもなくても同じようなものだ。


 こんな私には、そんな最後がお似合いかもしれない。悲しいという感情がある程度を超えると、それは笑みに変わっていくということを朱音はその時に知った。人間は諦めるときに笑う。何もかもが嫌になり、何もかもがどうでもよくなるとむしろ可笑しくなってくるのだ。悲しくて、笑ってしまうのだ。


 顔は泣いているのに、笑えてしまうのだ。


 心は泣いているのに、笑えてしまうのだ。


 もうこのまま目を閉じてしまおうか。何もかも諦めてしまおうか。そうだそれがいい。もう動きたくない。歩きたくない。傷つきたくない。苦しみたくない。泣きたくない。もう生きたくない。


 全身の力を抜き、次第に冷たくなっていく自分の体を感じながら、周囲に溶け込んでいく自分を感じながら、……しかし彩音の頭の中にやけにはっきりとした何かが聞こえてきた。


 それを朱音は、死の間際に自分の頭が見ている幻覚なのだろうかと思った。しかしそれにしては変に現実味があるのだ。まるで誰かがすぐそこにいて、目の前の自分に向かって語りかけているかのように。


「そんな笑い方は、あなたには似合わない」


 朱音は一瞬瞬きをし、声の主の在処を探し、それが自分の頭の中から聞こえてくることにしばらくして気付いた。気付いて、更に混乱する。ついに自分はおかしくなったのだろうか。


「あなたはまだ生きている。それなら、そんな歪な顔をするものじゃない。顔をあげて、胸を張って、泥だらけでもいいから強がっても立っていなさい」


 気が付けば朱音の前には、山の横にまるで獣のように洞窟が口を開けていた。こんな場所があるとは彩音は今まで知らなかった。何の根拠もなかったけれど、彩音にはその声のぬしが、この先にいるのではないかという確信めいたものがあった。


 その獣は彩音を待ち受けるように、微動だにせずただ口を開けていた。

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