第十話
「付き合えって、一体どこまで行く気だ? 真っ暗で何も見えないぞ」
「私の手を掴め。そうすれば大丈夫だ」
そういって彼女は、望に手を差し出した。
「…………」
望も男である。外見だけなら少し年上の女性である彼女と、手を繋ぐというの行為には抵抗がある。しかし彼女は。
「なにをしているのだ」
そんな望の手を無理やり掴んだ。そして力強く望を引っ張る。人の気も知らないで。
今は日の既に落ちた夜。場所は彼女の隠れ家から少し離れた、白樺山と呼ばれている山である。
そこは普段は誰も近寄らない、夜は不審者が出ることで有名な山だった。そこまで大きな山ではないが、夜は明かりもなく、前も後ろも暗黒に染まっている。確か公園があったはずだが、自分もいつ最後に行っただろう。
そこへ二人は、夜を待ってから出発。そこまでは舗装された道路の蛍光灯で辺りが見渡せたが、ここではそれも叶わない。こうして格好悪く彼女の手に引かれる形となっている。
「いったいどんなものを見せてくれるんだ? そろそろ教えてくれよラミア」
「もう少し待て。その内分かる」
彼女の表情は分からない。それどころか足元さえ見えない暗闇だ。望はただ彼女の手の感触だけを頼りに、悪い足場を慎重に踏みしめて前へ進むことに集中していた。どこかで虫の鳴くような音がした。
ただでさえ不気味な夜の山。そこに異形の存在と共にいるということが、より現実感を喪失させた。もう幽霊がでてきても驚かないだろう。
別に出てきて欲しいわけではないけれど。
「ここなら誰かに見られる心配もない。この時間にこんな場所へくる物好きもいないだろう?」
「まあ……そうだろうな」
誰かに見られてはいけないこと。それは彼女はひときわ目立つ外見をしているし、なるべく人前に姿を現さない方がいいのは分かるが。そこまでして外に出て自分に何を見せたいのだろう。また何かの能力でも見せられるのか。はたまた実験台にでもされるのか。
「……もう近くに」
彼女は急に歩く足を止めた。それにつられて望も慌てて足を止める。
「おお……望、あれを見ろ。いい眺めだ」
彼女が指差すのは宙。暗い夜空を光輝く星達だった。
「確かに……ここは周りに建物が無いから良く見えるな」
満天とまではいかないが、中々壮大な景色だった。最近は雨の日が続いていたこともあるかもしれない。この宇宙に輝く星は、宝石のように空を飾っているようだ。
「でもまさか、これだけのためにここまでつれてきたんじゃ……」
そこで気付く。重大なことに。ついさっきまでそこにいたはずの彼女が、いつの間にか姿を消しているのだ。確かに今の今までこの手を掴んでいたはずなのに。跡形もなく消えている。夜の闇に同化してしまったかのように。
「おい、……ラミア……?」
彼女の姿を探すが、どこにも見当たらない。周囲すら見渡すことが困難な暗闇だ。わかるのはそこが、山道から外れ、少し開けた場所になっていることぐらい。いつのまにかそんなところに出たのだろう。
次第に不安になる。こんなところに一人で取り残されては、どうすることもできない。ラミアは一体どこへ行ったのか。彼女はこんなところに自分を置き去りにして、一体何を考えているのか?
そんなとき、どこからともなく、深淵にまで響くような暗いトーンの声がした。
「おやあぁ? おかしいですねえぇ? 何か良からぬものの気配を追ってきてみたんですが……あなたはただの人間ですかねえぇ」
後ろから不意打ちのようにそんな声がして、望は面食らった。
「……な、なっ」
「おっとお、驚かせてしまいましたかあぁ。それも仕方ないですねえぇ……こんな時間にこんな場所で人間と遭うなど予想外でしょうからねえ」
俺が驚愕で背筋を凍らせているのは、そんな理由ではなかった。このどこからともなく現れた男の声が、あまりにも人間離れしたものだったからだ。
枯れたような、聞く者の精気を吸い取ってしまうような声。今までに一度も鼓膜を震わせたことのない類の声質だった。
声の主の姿は見えない。それが不安を一層掻き立てた。
「お前は、何だ? ……どうしてこんなところにいる?」
望は姿の見えぬ男に向けて問う。
男は答える。
「さあ……私は一体何なのでしょうかねえ。それは私も未だにわかりかねていることで……あなたに教えてもらえるなら、教えてもらいたいくらですよ」
少しのやりとりで望は、この男が話の通じる人間でないこと、まともでないことを悟った。
「それでは今度は私からあなたに尋ねたいんですがねえ、あなた……ここら辺を何か彷徨いているのを見ませんでしたかぁ? そう……」
男は一瞬間を置いて、続けた。
「例えば吸血鬼とか……」
全身の血液が凍りついたような気がした。この男は、一体何者だ。
「おやあ、あなた何が知っているんですかねえ。今あなたの表情が変わったのがはっきりと見えましたぁ。職業柄、目だけはいいものでして……一体なにをご存知なのか、このわたしに出来れば教えて欲しいんですがねえ」
暗闇の中で望は思考する。この何者かわからない男に彼女のことを話して良いものか。既に自らの失態によって、もはやしらばっくれるのは無理だろうが、望が話さなければこの男にはどうしようもない。はずだった。
どうしようもなく、叶望は甘かった。
「知らないと言ったら?」
「……そうですかあ、知らないですか……それは仕方ないですねえぇ、それならば仕方ない」
その暴力は一瞬だった。
望は暫く何が起きたのか分からなかった。そして猛烈な痛みとともにようやく感覚が現実に追いつく。ぼとりと、何かが地面に落ちる音がした。
「あがっっ、ぐがあああぁぁっっっ?」
自分の身体の感覚が、足りないような気がした。望は動揺する頭で何とか状況把握をしようとした。
そして気付いてしまう。
「う、うわああああああ……うわああああああああああぁぁぁっっっっっ?」
右手の感覚がないのだ。正確に言えば、無いのは感覚だけではなく、望は右手そのものが無いことに気付くと発狂した。
「仕方ないですねえ……その口から、知っていると言うまで手足を一本づつ奪っていくしかないですねえぇ。さて次はどこがいいですかあぁ」
望はあまりの激痛に地面を這いずり回った。痛覚と恐怖で思考はもはや正常に働かない。頭の中が真っ黒な何かで埋め尽くされていくような気がした。
何なのだこれは。一体何なのだこれは。どうした、何がどうなっている。
右手が本来あるはずの部分は、まるで無理矢理むしりとられたかのような肘だけが残っていた。あまりのショックと痛みに意識は錯乱し、口の中に入ってきた土の味がした。
「ほらあ。痛いでしょうぉ? 苦しいでしょうぉ? これ以上そんな思いをしたくないはずだぁ。ほらほら、もう言って御覧なさい。吐いてごらんなさい。そうすれば楽になれますよおぉ」
男は望に脅迫する。これ以上口を割らなければ、自分は確実に殺される。この男は異常だ。この男は本気だ。やると言ったらやるだろう。人の一人くらい、躊躇なく殺すだろう。
凍りつく背筋。迫りくる死という恐怖。それを眼前にし、恐怖で歯がかちかちと鳴った。
自分は死ぬのか。ここで死ぬのか。今まで生きてきて、何も良いことなどなかったけれど、ここでとうとう終わってしまうのか。ここで、こんなところで、終わってしまうのか。誰にも気付かれず、誰にも悲しまれず、死ぬ。それはこの世からいなくなるということ。誰でもなくなるということ。自分がないということ。もう二度と誰とも会えないということ。
別に、いいか。自分には会えなくなって悲しむ人もいない。自分がいなくなっても、誰かが涙を流すこともない。それならば生きていてもしかたない。この先、生きていても仕方ない。それならば別にいいではないか。これは丁度良い機会だ。きっと神様は自分のことを見ていてくれたのだ。
そんなことを思いながら、その一瞬を過ごしていた。今まで自分と関わってきた人間。父親、母親、学校の同級生。彼らの顔が一人づつ思い浮かび、そして消えていく。その誰ひとりとして自分を見て悲しんでなどいなかった。
「恐怖で口もきけませんかぁ。それにしても運がありませんねえぇ、あなたはぁ。こんなところで、まるで交通事故にでもあったかのように、終わってしまうなんて、……同情しますよ。情けはかけませんがねえぇ」
男が近づいてくる気配が、かろうじてした。それはまるで死神の足音。自分をこれら地獄へと堕としにやってきた死神。
望はもうほとんど諦めかけていた。自分の人生はここまでだと。思い残すことは何もなかった。それは自分がこの世界で何の価値も持っていないということ。これまで孤独に抜け殻のように生きて来た毎日。もう生きるのは疲れた。
もう楽になってもいいですか?
望は意識を切ろうとした。正確にはできなかった。望の沈みきった心の奥底から、それを吹き飛ばすような鮮烈な声がした。
君はそんなところで終わってもいいわけだ。
……ああ。
本当に、本当にそれでいいのか?
…………。
誰でも、投げやりになってしまうことはあるぞ。人生なんて、成功ばかりの奴の方が珍しい。誰だって失敗して、苦しんで、傷ついて、人の目を気にして、自分の傷を掻き毟って、それでも何とかうまくやっている。無難にこなしている。それを君は、ただの一度の挫折で全てを諦めてしまうか。
……あんたに一体俺の何がわかるというんだ。ついこの前、僕と初めて出逢ったばかりのくせに。
確かに私と君の共に過ごした時間は数えるほどだ。確かにそうだけれど、私は君のこれまでの人生を覗いてしまっているからな。私の方に限っては、私はきみのことを分かっているつもりだ。……ふむ、確かに君はこれまでそうとう酷い人生を送ってきた。本来愛されるべき両親から見放され、仲間をつくることもできず、やがては迫害され、自分独りで生きて来た。だがな。
………………。
そんなもの、わたしに言わせれば若気の至りのようなものだ。ふん、笑わせるな。それぐらいのことで人生を諦めるなど、百万世紀早いわ。一世紀でも生きてから言えこの愚か者。そんなところで終わっていいわけないだろう。死んでいいわけないだろうが。
…………でも、僕には何もない。
何もないなら、つくればいい。想像して、創造すればいい。どんなものだって、つくりだせる。
…………でも、僕は弱い。
知っている。君は誰よりも弱い。だからこそ誰よりも強くなれる。お前がそうなろうとすればだがな。
…………でも、僕は独りだ。
仕方ないな。私が一緒にいてやるよ。これも何かの縁だ。私が君と一緒にいてやる。ほら、他に何かあるか? 迷っている暇はない。人生にチャンスなんてものはそうこないのだ。さっさと決めろ。お前が決めろ。お前は生きるのか。諦めて死ぬのか。
決めろ。叶望。
「仕方ないなあ。頭の中でうるさいんだよあんた。わかったってば、畜生」
望はゆっくりと立ち上がった。痛みはまだ続いているが、意識は不思議と前よりはっきりしている。なぜだろう。それはまるで誰かに勇気を分けてもらったように。
「おやあ、まだそんな力が残っていましたかあぁ。どうやら何か悟ったようですねえぇ。ようやく話してくれる気になりましたかあぁ」
男は言う。望は見えない男に向かって言う。
「違うさ。俺がしたのは諦めるのをやめる、という決心だ」
「……なんだかよくわかりませんが、そういうことならそれでよろしい。もうあなたには用はありません。その両腕足を奪ってから虫けらのように殺してさしあげましょう」
望は立ち上がったその場から動けなかった。抵抗しようにも、その為の力は自分にはない。なんて無力なんだろう。どうして自分はこんなにも弱い。こんなときに誰にも頼らず、全てを吹き飛ばすような力が欲しかった。
その思いだけで、気持ちだけで十分だ。望の意思は受け取った。後は私に任せろ。
「その思いだけで、気持ちだけで十分だ。望の意思は受け取った。後は私に任せろ。」
頭の中と外から聞こえる声が、なぜか二重に聞こえた。それはどこからともなく現れて、絶望や理不尽など吹き飛ばし、どんなときにも自らの力で己が道を貫き通す。そんな吸血鬼の声だった。
颯爽と現れた一人の女性。彼女の周りは赤い光に包まれて、その姿を暗闇の中で浮かび上がらせている。
それは息を呑むほどに美しい人で、真っ赤な長髪を肩まで伸ばしていた。モデルのように整った顔つきに、美しい血のような色の瞳。外人のように高い鼻。野性的な唇。自分よりも頭一つ高く、その身には真冬のようなコートにマフラーを身に着けていた。
「あなたは…………気配のもとはあなたでしたか。まさかこんなところで、一族の仇に出逢えるとは。都合がいいですねえぇ。私は運がいい」
男はまるで彼女のことを知った風に、言った。
「なあに、私も同じさ。まさかここまで持ちこたえてくれたとは。お前の手下達を全員相手するのは骨が折れたぞ。そしてこれほどの結界は突破するのに多少時間がかかった。どうせお前だと思ったよ。ベルフェゴール」
ベルフェゴールと呼ばれた男は彼女の言葉を聞き、少しの間沈黙。そして口を開いた。
「……そうですかぁ。それは困りましたねえぇ。しかしどうでしょう、この餓鬼はどうやらあなたの仲間らしい……。そしてその場所から、彼を守れるでしょうかねえ」
「十分だ」
彼女は右手を上げると、宙で振った。
すると地中から突然漆黒の棺桶が現れ、それは男と望の間に割って入った。
「……っっっ?」
男は後退し、望はその場に立ち尽くしていた。
その棺桶が開き、中から彼女が現れた。これが瞬間移動能力というやつか。
「ほら、十分だろう? 私に空間的な距離などは障害にすらならない。そして人質というのなら、今度は千人連れてくることだ。私には通用せんよ」
彼女は妖艶に口端を上げ、その八重歯を覗かせた。
心強かった。彼女がいてくれるだけで、もう大丈夫だと思った。それまで気力だけで立っていた身体の力が抜け、その場に崩れ落ちる。
「すまないな望。こんなつもりではなかったのだが、結果的には辛い目に遭わせてしまったな。こっちへくるのだ」
彼女は望を自分のもとへと引き寄せると、一度抱き抱えてから、自分の右手で自らの左腕を引き裂いた。流れ落ちる真っ赤な鮮血。それを彼女はまるで他人事のように冷静に眺め、その血を望の失われた右腕の付け根にこすりつけた。
吸血鬼の唾液には傷の治癒能力がある。そしてその血にはさらに強力な再生能力が宿る。
「最初は吸血鬼狩りとの戦いを君に見せ、考え方が変わればいいと思っていたんだ。君みたいな自分で自分の心をがんじがらめに縛ってるような奴には、良い薬になると思ってな。生きる為に、最も単純でわかりやすい理由。生き残るために戦う。戦っていれば他のことなんてどうでもよくなる。命のやりとりは、退屈した心を沸騰させてくれる」
「この近くに丁度こいつらの気配を感じ取ったから、わざと私の気配を放散させてこいつらをおびきよせてな。しかしこいつの結界術で望と分断されたのが予想外だったが」
彼女は自分の右手を望の右手の付け根へとかざした。するとそこからは光が漏れ、みるみる内に腕の断面から新たな細胞が生まれ、新たな腕を作り上げていった。
望はその信じられない光景を目の当たりにしながら、完全に元通りになった自分の腕を触り、指を動かし、まだ動かしづらいがそれは紛れもなく自分のものであると悟った。
「こんなに元通りになるのか……。これもあんたの研究の成果ってやつなのか」
「……ああ。吸血鬼の血に宿る再生能力の源を利用してやれば、こんなこともできる。当分はうまくうごかせないだろうが、そのうち前と同じように動かせるようになるだろう」
今更だが、まるで夢のようだ。現実感がない。しかしその腕に残る生々しい痛みと、彼女から伝わってくる低い体温は紛れもなく現実だった。
「さて、それじゃあ始めようか。お前にはあの時ずいぶんとてこずらされた。ここでそろそろ私たちの因縁をしめくくろうじゃないか。なあベルフェゴール?」
だんだんと慣れて来た目が、男の姿をようやく捉えた。西洋風の顔立ちに、背の低い初老の男。黒いローブのようなものを着込み、右目には眼帯をしている。あれが、吸血鬼狩りなのか。
「なぜそんな人間に肩入れするのです? あなたともあろう強者が。理解に苦しみますねえぇ。かつてあらゆる吸血鬼を束ね、その頂きに上り詰めたあなたが、なぜ今さらそのような子守りの真似事などしているのです?」
彼女は望を静かに地面に横たえ、男の前に立ちはだかった。腕をパキパキと鳴らし、不敵な笑みを男に向ける。
「なあに、お前が気にすることではないさ。これは単なる寄り道、気まぐれ。私も長くこの世に生きているが、たまにはそういうのも悪くないだろう?」
「……全く、あなたという吸血鬼は……何を考えているのか」
男は臨戦態勢に入る。その小さな矮躯を低く構えて迎え撃つ。背が低いのが逆に効果的だ。これではどこからも隙が生まれない。
「私たちは相入れないのさ。お互いに分かり合えない。もう私もうんざりしているのだが、こればっかりはどうにもならないな。私たちは出逢えば争う宿命…だっ!」
ラミアは構えることなく男に突撃。その一瞬で戦いは始まった。
ラミアの突貫が男を襲う。その一瞬で男はそれをかわし、ラミアの右腕を鉄拳で吹き飛ばした。
実際に目の当たりにすると、改めて異常な身体能力だ。人の拳にあれだけの破壊が生まれるなんて。あの男は特に凶器など使わずに、望の右腕を奪ったのだ。完全に元通りになったはずの右腕が、植えつけられた恐怖で疼く。
しかし次の瞬間、粉々となったラミアの右腕がまるで飛び散った水が集まるように再生し、服まで元通りになった。彼女はそれを待つこともなく男に追撃。左手で裏拳。男はそれを辛うじて防御し、しかし10メートル程後ろに吹っ飛んで止まった。
「ふん、だいぶ衰えたな。やはり人間と言うのは老いには敵わないか」
「…………ずいぶん言ってくれますねえぇ。そういうあなたも、少し老けたのではないですかあぁ?」
「……その口はまったく変わっていないようで安心したよ」
二人はまるで旧友のようなやり取りをしている。実際そうなのだろう。一体あの二人の間にはどんな関係があるのか。望は少し気になったが、すぐにそんなことはどうでもよくなった。
直後に再開された二人の戦闘。それは徐々に激しさを増し、ついには望の目には追えなくなっていった。彼らの姿は残像となり、その衝突は激しく火花を散らす。ラミアの身体の至る所が破壊されては、その再生が即座に行われる。
男は見たところ人間と思われるが、吸血鬼と互角に渡り合っていた。これが吸血鬼狩り。異形の存在と渡り合う者。
ラミアは自前の再生力を生かし、防御を考えない捨て身戦法をとっている。男は自らを守りながら戦わなければならないが、その異常なまでの身体能力で彼女と見事に渡り合っていた。
ラミアの蹴りが男を襲う。男はそれをかわして正拳突き。ラミアの左肩が霧消し、そして再生する。ラミアはすかさず二段蹴りを男に放つ。男はそれをまともに受けるが、衝撃を最小限に留めてそれを受け流した。少しでも間違えば致命的な攻防が続く。望はそれをただ眺めていることしかできなかった。
呆気にとられていた。それは何の驕りもなく飾りもなく、ただ相手を打ち倒すための不毛な争いだった。しかしそれはどこまでも圧倒的で、どこまでも鮮烈で、望はそれに見とれてしまった。魅せられてしまった。
こんなにも心が躍ることがあるだろうか。こんなにも興奮することがあるだろうか。次の瞬間には自分の命が失われてしまうかもしれない。しかし彼らはそんなことは度外視している。ただ単純に、ただ盲目に、目の前の相手を打ち倒す。それだけを考えている。
一瞬だけ彼女の顔が見えたとき、笑っているように見えた気がした。
その戦いはどれだけ続いただろう。もはや時間の感覚すら忘却するほどに、望はただ彼らの戦いを眺めていた。それはそれは美しいものを見ているような気がした。それと同時に望の中に何かが目覚めていった。自分の中に、自分の知らないもう一人の自分が存在していたかのように。
戦いは暫く続いた。しかしそれはとうとう終盤に差し掛かった。
男の動きが鈍り始めた。それも当然である。ラミアはその再生能力によって受けたダメージは全て回復してしまう。しかし男は生身の人間である。その身に受けたダメージは全て蓄積していく。こんな無法で滅茶苦茶でルールも何もない力と力のぶつけ合いに、どちらが有利かは目に見えている。
「そろそろ終わらせようじゃないかベル。その老体に鞭打ってここまでやってきたせめてもの慰めだ。私が一瞬で終わらせてやる」
ラミアはゆっくりと男に近づき、右手を宙にかざして何もない空間から銀色の剣を取り出した。それを男に向ける。
「……私もずいぶん舐められたものですねえぇ。こんなものが私の全力だと本当にお思いで?」
男は体勢を低く構えると、ラミアに向かって突貫。彼女は銀の剣を男に向かって振り降ろすが、それを男は懐から取り出した十字架型の短剣で弾いた。
「そして、私が誰なのか忘れましたかあぁ? 私の結界術で、どれだけの吸血鬼を封印してきたかあっ!」
男が何かを口もとで呟くと、男の右腕が光った。その腕には黒いローブの下に刺青で、よく分からない呪文のような文字が書かれていた。男の右腕がラミアに迫る。
その一瞬で起きたことは望にはよく分からなかった。その直後の攻防で、その戦いは決着することになる。
男はいつの間にか地面に膝をつき、信じられないものを見るような驚愕の表情をしていた。
「…………これは、なぜ……、有り得ないぃ……」
ラミアは男の前に立ちはだかり、男を見下ろしていた。彼の右腕は黒く焼け焦げ、煙を上げていた。
「お前の結界術には、とうの昔に回答を出しているわ。それには散々苦労させられたからな。それは空間を切断し、擬似的な異空間を作り出す能力。ならばそれをさせなければいい。私は既に、全ての空間を支配するまでに超越している。既にこの空間は異界化させている。私が空間転移を使った時点で気が付くべきだったな。この空間にお前の結界の起点はない。お前がどこにいようと、私の存在する次元においてベル……貴様の結界はもう無意味だ」
「……さっき私の結界を突破できたのは、そういう理屈ですか。全くあなたは……相変わらず、規格外ですねえ。一体あなたは何を目指しているのです? 神にでもなろうと言うのですか?」
男はラミアを見上げて、そう問いを投げかけた。ラミアは暫く無言になった後、寂しそうな、今にも泣きそうな顔をして言った。
「例え神になったとしても、私の取り戻したいものはもう戻ってこないよ」
とても悲しそうな顔をしていた。まるで、過去に大事な何かを失ってしまったように。彼女は何かを思い出し、それでもそれを頭から振り払うように銀の剣を振り上げた。
「そうですか……ならさっさと殺してください。もう私はあなたがいる限り、吸血鬼狩りとして生きていくことはできません。なら生きていても仕方ない。せめて吸血鬼化させることなくとどめを刺して欲しいですがね」
彼女はその一瞬で、冷徹で妖艶な表情に戻った。
「いいだろう。その望は叶えてやる」
男は瞼を閉じた。彼女は剣を男に向かって迷いなく、振り降ろそうとした。
「……待ってくれラミアっ」
「……なんだ望」
自分でもどうしてか分からない。なぜそんなことを言ったのか。望はあの男に殺されかけたのだ。同情の余地などどこにもないはずなのに。
「殺してしまうのか、そいつを」
「……ああそうだ」
「殺さなければ、ならないのか」
「そうだ。私は彼の生きる意味を奪ってしまった。その責任はとらなければならない。それが彼の望でもある。ここで情けをかけることは、むしろ彼に対する侮辱に値する」
「…………」
「君も私と共にいようというのなら、早く慣れることだ。この世界の基本構造は弱肉強食のやるかやられるか、殺すか殺されるかだと。君が今生きているのは、その為に死んでいった生物のおかげなのだ」
彼女は男の首筋に剣をぴたっと合わせた。次の瞬間にも男の首は刎ねられてもおかしくない。
「君もその内他人事ではなくなる。どこかで自分の手で、誰かを殺さなければならないときがやってきたとき、迷うようでは足元をすくわれるだろう。この世界ではそんな軟弱な者は生き残れない」
「強くなるさ……強くなってみせる。どんなときでも迷うことなく、自分の力を信じて生きていける男になってみせる。今は弱いけど、いつか必ず」
いつの間にか瞳は涙で濡れていた。こんなにも弱い。こんなにも脆い自分。けれど望は、彼女のように、彼のように強くなりたいと思う。いつかは、どんな理不尽な現実にも、絶望も撥ね退ける力を。
「なってみせろ。私がそれを見届けてやる」
彼女は剣を再び振り上げ、それを振りおろした。何のためらいもなく。何の迷いもなく。
それがその夜の起きた全てだった。叶望という人間の、全ての始まりだった。