プロローグ―とある別世界の義姉と弟の場合
「ゲームの世界に入りたい。そう思った事はあるかい?」
――聞き慣れた声に振り返れば、クッションを抱えてベッドに腰掛ける義姉の姿が、そこにはあった。扉をノックされた記憶も、入室を許した覚えもなかったが、母親の再婚によってできたこの義姉との姉弟生活歴も、早十二年と数ヶ月。何を言ったところでのらりくらりとかわされるだろうことは容易に想像できた。
故に、オレは早々に反論を諦めて義姉から視線を外し、夕闇に暗く染まりつつある部屋の中で光を放っているテレビ画面へと向き直る。その画面は、剣や弓、そして杖に槍といった武器を構えたキャラクター達が、龍のような自分より数倍は巨大な怪物と対峙した状態で止まっていて、真ん中には『PAUSE』の文字が点滅している。
それはいわゆるRPG――ロール・プレイング・ゲームと呼ばれるテレビゲーム。発売決定から延期に延期を重ね、昨日ようやく発売された人気シリーズの続編。義姉の入室にまるで気付くことが出来なかったのは、これに集中しきっていたのが原因だった。
さっさと視線を外してしまったオレの事が気にくわなかったのか、義姉はベッドを下りると隣までやって来て座り込み、拗ねたような顔をしてオレの顔を見上げてきた。その表情は、見る人によっては『可愛い』とかそういった感想を持ちそうなものだが、長年見慣れたオレにとっては『煩わしい』としか思うことができないものだった。
「ボクを無視するとは酷いね? 義理のとはいえ、ボクはキミの姉だよ」
「……いい加減、その口調とか、一人称にボクって使うのやめれば?来年は就職だろ」
「質問に質問で返すのは褒められた話ではないね。女性に年齢の話を振っている点もマイナスかな? ……まぁともかく、ボクはこの口調や一人称を改めるつもりはないよ。おかしい、変だと言われても、周囲に合わせてわざわざ自分を変えてやる必要性をボクは感じないからね。ボクはボクだ」
「そうかよ。で、なんだって?」
仕方なく義姉に向き直りながらそう問えば、満足そうな笑みが返ってきた。『なんだって』と返したからまた、そもそもボクの質問を聞いてすらいなかったのかい、それは最悪の対応だね。なんてことを言われるかもしれないと思ったが、この義姉は自分が『なんだってそんな質問をしたのか』という意味で使った言葉だということを理解してくれたらしい。
「卒業論文の一環だよ。開発されてから数十年という短い歴史しか持たず、しかし民間に広く普及し、凄まじい速度で進化し数年に一度のペースで新世代機が開発、発表されていくテレビゲーム。それによる業界や世間、そしてテレビゲームに触れて育ってきた若者達の思想がどのように変化してきたかの調査、といったことろさ」
「へぇ、なるほどね。まずは身近なところで家族の話をってことか」
「そういうことだね。ボク自身もテレビゲーム世代の人間だが、あまり好んである方の人間ではないからね。ボクのようでもなく、何百時間も同じゲームをプレイするコアプレイヤーでもない、そういった一般的にゲームをするタイプ。つまりキミのような人間に聞いていけば、データとしては有用だろう? それで、どうなんだい?」
――ゲームの世界に入りたいと思ったことがるか。ありふれた質問ではあるし、それに対して答えを返すだけなら、きっと誰にとっても簡単だろう。きっと誰だって、一度は考えたことがあるはずだから。
「あるよ。むしろないって答える人間の方が圧倒的に少数派だと思う。100人に同じ質問して、考えたことないって答えた人数が5人を超えたら、多いって驚くかな、オレは」
「なるほど? なら、最初の質問に『ある』と答えたキミに二つ目の質問だ。もしもの話になるが、本当にゲームの世界に入り、そこで生きてく術が見つかったとしよう。成功確率は100%、リスクは一切ない。キミはその術を使って、ゲームの世界でいきていきたいと、そう思うかい?」
――その二つ目の問いに、オレは口元に手を添えて考え込む。その間、義姉はただじっと黙ってオレが返す答えを待っていた。五分ほどの沈黙の後、オレは口を開いた。
「思う、だろうな」
「なるほど。なら――「ただ、行きたいと思って、行けたとしても。その世界で何かが出来るとは思えない」
義姉の発言に被せるようにして、オレは言いきった。すると義姉は一瞬虚を突かれたかのような表情をした後、何か呆れたような、そんな表情を浮かべてみせた。
「やれやれ、まさかボクがキミに先を読まれるとはね。その言葉はそのまま第三と第四の質問、『キミはそのゲームの世界で何がしたいか』。そして『それを実行に移せると思うか』の答えととっていいみたいだね?」
「……そう、なるかな」
「では、飛んでしまったが第五の質問だ。キミは何故そう思ったのか。今回の場合は『どうして何かが出来るとは思わない、という結論に至ったのか』だ」
その問いに、オレはすぐには答えなかった。一度立ち上がって部屋の明かりを点け、放置していたゲーム機のコントローラーを握り直して元の位置に座り、ポーズ状態を解除して。敵との戦闘を再開してから、ゆっくりと少しずつ話し始めた。
「一言でいえば。『こんな風にはなれない』って感じたんだよ」
「……こんな風?」
視線で、テレビ画面のことだと告げる。そこにいるのは、先程とかわらない――『人』が歯向かうべきとは到底思えない巨大で強大な人外の『化け物』へと向かっていく、キャラクター達の姿がある。進化し、進歩し続けたテレビゲームのグラフィックは、もはや現実の人間と比べても遜色ないレベルで。しかしその姿や表情からは、微塵の恐怖すら感じとることができなかった。
――だからこそ、思う。きっと自分はこんな風になれはしない、と。
「ゲームの世界に行きたいって思う奴ってのはさ。多分みんな、こういうRPGみたいなファンタジーの世界とか。美形の異性に囲まれてハーレムみたいな状態で生活する……ギャルゲー?ってやつの世界に入りたいって考えると思うんだ」
「……統計をとらなければはっきりとは言えないが、確かにそうなる確率は高そうだね」
「ゲームの世界に入りたい。それってさ、現実に不満があるからそれから逃げ出したいって思想だと思うんだ。だから、とことん現実から離れたファンタジーの世界とか、たくさんの異性に囲まれて幸せに過ごすんだって、そんな感じの選択をするんだと思う。ただ、そのどっちを選んでも、変わるのは『世界』だけで。『自分自身』は、変わらないんだよ」
「……」
「それができるなら、きっと、最初からこの世界でやってるよ」
例えば、ファンタジーの世界に入れたとして。怪物達と戦って、世界の危機を救ったりなんて、そんなことが出来るとは思えない。殺されればそれで終わり、ロードしてセーブしたところからやり直すなんてことが出来たとして、殺されるかもしれない恐怖やそれまでに身体を襲う痛みに、耐えられるとは思えない。そんなことができるなら、最初からこの世界で抱えた不満と戦っているはずだから。
例えば、美形の異性に囲まれて生活する、そんな世界に入れたとして。その異性達全員から好かれて、一人を選んで付き合って、何不自由なく幸せに過ごせるなんて思えない。ただ用意された選択肢を選ぶだけじゃない、それ以外の決断も全部しなければいけない、それはもはや現実と変わらない。自分がそんな風に他人から好かれ、決断のできる人間なら、そもそも現実世界で同じことが出来ているはずだから。
現実から逃げ出した人間がまた別の世界で、変わった世界で生きていけるとは、思えない。少なくとも、そうなった自分は想像できなかった。きっと、その世界でも震えて怯えて、情けなく安全な場所に引きこもり、今度は『元の世界に帰りたい』なんて言葉を延々繰り返すだけだろう。
ゲームの世界に入れたところで、自分は何も変わらない。『主人公』になれるわけではないのだから。
「強くて、優しくて、格好よくて、どんな時にも諦めない、誰かのために自分の損得なしで動ける、なんでも完璧な主人公にしたうえで、って話だとしてもさ。そしたら、そこにオレの意思はもう欠片もない。文字通り『ロール・プレイング』――『役割を演じる』だけの人形だ。だから結局、ゲームの世界に入れたところでオレには何も出来ない、そう思ったんだ」
義姉は、言いきったオレに何も言わなかった。オレも言うべきこと全て言い終えてしまったから、ただ黙ってゲームに集中することにした。
そしてやがて。『主人公』の剣が怪物の身体を斬り割き、その巨体が地に倒れ伏すと、軽快な音楽と共に経験値がいくつ入った、お金がいくら手に入った、何かのアイテムを手に入れた、そんなメッセージが流れだす。その頃になって、ようやく義姉が口を開いた。
「面白い答えをありがとう。実に深く考察された末の結論だったよ。なんなら、姉弟共同の二年がかりの研究にでもするかい?」
「……。遠慮するよ、オレはオレでやりたい題材決まってるし。そもそも、オレ達大学は同じでも学部も学科も違うだろ?無理だって」
「それもそうだね、実に残念だよ。キミとの共同作業なら、とても面白い卒業研究になっただろうに」
「オレには全く面白そうに感じられないけどな」
「バッサリだね」
最後にまた楽しいそうに笑って、義姉は立ちあがった。どうやら質問はさっきのもので終わりの様で、クッションを元あった場所に戻すと、扉に向かって歩き出した。ようやく解放されたかと思って深いため息を一つ吐き出した時、義姉がドアノブを握った状態で何か思い出したように振り返った。
「かつてのキミに、その答えを聞かせてあげたいものだね。このやりとりも、もう何回したんだったかな……そして『姉弟共同の二年がかりの研究にでもするかい?』というボクの問いに対する選択肢の回答がその言葉じゃぁ。もう後はどうやっても、ボクのルートのTRUE ENDやGOOD ENDにはいけないんだ」
「……は? 何を言って――「だから」
『今回もまた、GAME OVER、だよ』
瞬間、世界が暗転した。まるでゲームの電源ボタンが押された時のように――プツン、という音をたてて。