J&Y
Jは表参道を歩いていた。Yは映画に行こうか決めかねていた。
Jは、日本に来て10年。Yは、日本に来て3日。
Jは、長身長髪。口髭。キドニーパイが好物。日本の生活には、さほど不自由しなかったが、キドニーパイを食べられないのが難点だった。サンマの塩焼きのハラワタを
旨く感じていたが、母国のキドニーパイとは何か違った。
Yも、長身長髪。スラリと伸びた足を支える小さな尻には、いつも絶えず青あざがあった。好物は特にない。嫌いなことは、何かを命令されること。唯一の心の安らぎは、梱包材のプチプチをつぶすことだった。
「スミマセン。D映画館はこのビルにありますか?」
Jはカタコトの日本語で、流れるような黒髪の女性に質問した。女性は、小首を傾げ自身が日本人ではないことを伝えようとしたが、言葉が出なかった。英語の方が良かったが咄嗟に出ない。Jは諦めてその場を去ろうとした。と、その時、Jの持っていた荷物に女性の目が行っていることに彼は気づいた。それは、大量のCDだった。トランクから1枚取り出すと、彼はその女性にそれを差し出した。女性は反射的に受け取っていた。彼は、収まりがつかなくなったので、とりあえず目の前のビルに入っていった。
Jはいま、そのビルの中で映画を観ていた。単館の小さな映画館で、詳しく何を上映しているか調べて来なかった彼は流れるままに画面を目で追っていたが、その映画がひとたびポルノ的な内容で、主演の女優が先ほどのCDを手渡した女性に似ていると気づくと妙な罪悪感を憶えてしまったので、そこを後にすることにした。
Yは、さっき会ったばかりのイギリス人男性のことをなんとなく思い出していた。彼は、なぜあんな大量のCDを持ち歩いていたのだろうか…。自分と目の色や髪の色は違えど、祖国を離れ、この日本の地にいる。そんな自分と同じ環境にいる彼のことをぼんやり考えていた。彼女もまた韓国からこの日本に来ていたのだ。長身、長髪。そこも同じだ。彼女は、なんとなく彼の記憶に耽っていた。一目惚れをしたとかそんなのではない。漠然と印象に残ったのである。彼がイギリス人であることは彼女の思い込みであったが、彼女のなかでなぜかそれは揺るがないものであった。
Jはアパートに戻った。つりがね荘。白人の彼がそう書かれたアパートに入って行くのは違和感がありそうなものだが、例えそこに10年住んでいる生粋の日本人がいたとしても、その彼がそこに馴染んでいなかったのならばJの方が数段つりがね荘にしっくり馴染んでいた。Jは、どっかと狭いアパートに腰を下ろしギターの調律をしていた。そんな彼の周りは、大量のCDが収められている四方を大きく取り囲んだ棚であった。まるで監禁されているようであったが、彼自身はこの空間がとても落ち着くのであった。
『born to cry.』
最後の節を歌い終えると彼は深く息を吸った。家に戻ってこの歌を歌うのは彼の日課であった。古いギターを静かにかき鳴らしこの歌を歌うと彼は落ち着いた。歌い終えると白髪の混じったあご髭を触った。ここまでが一連の作業なのである。
Yは、ホテルに戻ってストレッチしていた。明日からまたハードな練習が始まる。硬いがしかし、暑さですぐに溶けてしまう大きなリンクの上で。幾度も飛んだり跳ねたり、転ぶことも多々ある。彼女の青あざの絶えない小さな尻は彼女の年齢以上に苦労していた。
「今度の大会で私はやめるかもしれない。」
彼女は、そっとそうつぶやいた。
自分のスケート靴を見つめながら、Yは思いつめていた。毎日毎日、鬼のように練習しているが私はこれでいいのだろうか。大会を1週間前に控えて彼女はナーバスになっていた。
Jは、朝食を摂っていた。味噌汁に納豆に白飯。イギリス人だったが、これくらいは10年も日本にいると作ることができるようになった。納豆は元から食べられた。しかし、割引率の高い価格の納豆を選ぶイギリス人は、傍目には少々奇妙に映るかもしれなかった。今朝もJは1パック3個で85円の納豆のフタを開けようとしていた。器には移さなかった。納豆の一粒が小指についた。思わず、
「Jesus!」
顔をしかめながら声が出ていた。いつもは、納豆をうまくフィルムから外せていたからだった。テレビでは朝のニュースが流れていた。ふと画面に目がいった。先日、表参道で遭遇した彼女だった。
Yは、今日から大会に向けて練習をスタートさせていた。スケート靴を履こうとしていたがなかなか靴紐が結べないでいた。窓の外では、木々の葉が鈴の音の聞こえてきそうな具合に揺れている。心地よさそうな風のいたずらだった。2,3日寒い日々が続いていたが、厳しい寒さの合間に訪れた晴れ間だった。Yは、思わず窓に吸い寄せられていった。木々を眺めていると外に出たい衝動に駆られた。と、その次の瞬間、Yはスケート靴を脱ぎ、初冬の澄みわたる空気の中にいた。
練習着にダウンジャケットでYは外にいた。少々寒かったが歩いているとぽかぽかしてくるような感じだった。街に出てみると、日本では見るものすべてが新鮮な感じだった。
私は、今あらゆるものから解放された!Yは清々しかった。
Jは、図書館に行く準備をしていた。現在、彼は図書館に通っている。日本語の勉強にもなるし、何よりも彼は本が好きだった。ふと自転車の鍵がないことに気づいた。
Yは、少し汗ばんできていたのでジャケットのチャックを少し開けた。風が身体の中を駆け抜ける。よし、アイスでも食べよう!かわいらしいピンクのひさしのついたアイスクリーム屋さんが目に飛び込んできた!あれ?突っこんでいた手をポケットから出そうとしたとき、手に何か触れた。
Jは仕方がないので徒歩で図書館に向かうことにした。歩けない距離ではなかった。天気もいいし歩こう。よし、歩こう。彼は軽くうなずいた。ミリタリー調のパープルがかった淡いグレーカラーのデザインのコートを着て外に出た。外の空気は澄んでいた。Jは深く深呼吸した。
Jはしばらく何も考えずに街路樹の公園を歩いていた。光の粒子が天使のように舞っているな、Jは久しぶりにキレイなものを見た気がした。と、そのとき噴水の前でJは足を止めた。
「We are born to cry.」
一人の若い娘が歌いながらダンスしている。丸い白い陶器の噴水の周りで、円を描きながら軽やかにステップを踏み、ジャンプしたりしている。手には溶けないように用心深くアイスを持っていた。
Jは光の中の娘にしばし見とれていた。銀杏の黄色がいっせいに揺れていた。
しばらくして、Jの存在に気づいたYは、突然地面に吸いついたように立ち止まった。残りかけの歌詞が口をついて出ていた。頬は真っ赤だった。白い肌にその頬は目立っていた。
公園の中には、JとYしかいなかった。二人はただ見つめ合っていた。その時間はどれくらいだっただろう。数秒しかなかったはずだが、お互いに二人には時が止まったように思えていた。
「あっ!」
Jが溶け出したアイスに気づき二人はわれに返った。
「CD…。」
Yは、表参道でCDを手渡してきた男だと気づいたようだった。一方Jは、彼女の記憶のかけらを拾い集めて一生懸命誰なのかを捜索することに集中していた。
「ニュース!」
Jはやっとのことで言葉を発した。
Yはとっさに赤いマフラーで顔を隠した。自分の存在を悟られたのだと怖くなった。
「ダイジョウブ。OK。」
Jは自分が危険ではないことを伝えようとした。Yは、怖々マフラーから小さな瞳をのぞかせた。
「We are born to cry.」
Jは、リラックスしてもらう意味も込めて口ずさんでみた。Yが微かに微笑んだ。それからしばらくして、二人は大きな声で笑った。公園中に響きわたる声で。誰もいなかったのでその行為を憚られることはなかった。
「私の好きな曲なの。」
「そう。ステキな曲だね。」
「知っている?この曲。」
「まあね。」
しばらく他愛ない会話が続いた。
「あなた、なんだか懐かしい匂いがする。」
「懐かしい?どんな?」
「前に、そうCDをくれた前から。」
「そう。」
「あっそうそう、このアイスおいしいよ、一口食べる?」
「ああ。」
Yの無邪気な話しぶりにJはついていくのがやっとだった。それよりもこの娘はなぜ自分を懐かしく思うのかが不思議だった。
「私ね、年が17歳離れたお姉ちゃんがいたんだ。」
「いた?17歳も離れた?」
「うん。」
「お姉ちゃんが好きな曲だったの。でも私がちっちゃい頃に死んじゃった。よく遊んでくれたの。」
「そう。」
Jは納得がいった。しかし、姉を幼い頃に亡くしながらも元気に振る舞うこの娘がJには少し不可解だった。
「わたし、何だかおなか空いてきちゃった。」
「そうか。さすが若いんだね。代謝がいいんだ。よし、何か作ってあげるよ。」
「え?食べに行くんじゃないの?」
「ここウチの近くだから何か食べさせてあげるよ。」
Yは、多少微妙な気持ちになったが、自分の身の上のことを考えると出歩くわけにもいかないし、この男は何となく信用できそうだったので彼の言葉に甘えることにした。
Jのアパートは小高い丘の上にあった。二人は傾斜を上って行き扉の前まで到着した。Yは、男性の一人暮らしの部屋に入るのは初めてだったのでいささか緊張していた。
「Welcome!」
Jはそう言いながら勢いよくドアを開けた。Yの目に大量のCDが飛び込んできた。しかし、CDの山ではあったもののそれらは1枚1枚あるべき所にあるという感じで雑然としてはいたが恐ろしく散らかっている印象はなかった。
「適当に座ってて。」
「はい。」
Yは、手近にあるイスに座った。Yの視界にはCD…。そうだ、この男に最初に会ったときもトランクから取り出したCDを1枚くれた。それにしてもCDがどうしてこんなにあるのだろう。
「秋刀魚でいいかな?」
「サンマ?」
「ああ。嫌い?」
「え、まぁ。」
「そうか。嫌いかもしれないけどコレは好きになるかもよ。でも、まぁ、サンマしかないからコレを食べてもらわなくちゃいけないんだけど。」
そう言って、Jは大根をおろし器ですり始めた。その様子をYは、不思議そうな眼差しで見ていた。その瞳たるやまるで未確認生物でも見るかのようだった。
Jは手際よく大根おろしの水を切り、サンマを焼き始めた。やがてサンマの焼ける匂いが部屋中に充満してきた。
「すごい煙だね!」
「コレがサンマの塩焼きだよ。」
目を驚きでしばたたかせているYの視線を受けながらJは皿にサンマを盛りつけた。
「うわぁ!」
Yは驚きの連続だった。初めて見るサンマの塩焼き。
「おいしいからさっそく食べよう。」
「はい。」
Yは、見よう見まねでJのサンマの食べ方を実践していた。
「苦い!」
Yは顔を一瞬しかめた。
「でもそれがうまいんだよ。さあ大根おろしも一緒に食べて。目にもいいし、頭も良くなるよ。」
大根おろしを口に含んだ途端、Yは、笑顔になった。
「おいしい!」
「だろ!」
しばらく二人は、黙々と秋刀魚の塩焼き、大根おろし、白米を順番に食べていた。
「ゴチソウサマデシタ。」
「ゴチソウサマデシタ?」
「うん。日本人は食事の後にこう言うんだよ。食事に感謝してね。」
「ゴチソウサマデシタ!」
Yは、にっこり微笑みながら言った。
Jは皿を引き上げ、手早くそれらを洗い食後のお茶を沸かしにかかった。
「日本茶だよ。」
「ニホンチャ。」
「そう。コレを飲むと落ち着くよ。」
Yは、切れ長の目をそっと閉じ日本茶を一口飲んだ。
「母国のキドニーパイが一番好きなんだ。」
「サンマが一番じゃないの?」
「サンマも好きだけどね。」
「目にもいいし、頭も良くなるし。」
Yは、そうJの口真似で言っていたずらっぽく笑った。
「どうしてサンマが一番じゃないの?」
窓の外を見ながらJは話し始めた。
「人間は行き着くところに行くものでね。結論を言ってしまえば僕の行き着くところがサンマだったんだ。何言っているのかわからないかもしれないけれど、毎日同じことをしていても別段何の違和感も感じなくなってくるものなんだ。君はまだ若いからわからないかもしれないけれど。」
しばらくして、Yが口を開いた。
「わたしはスケートなしでは生きて行けないなのかしら…。」
「スケートが君にとってのサンマかどうか君が見極めるんだ。」
「サンマってそんなにいいものなの?」
「人間は進み続けられるものじゃない。かといって止まったままでもイカれちまう。」
「どういうこと?」
「コンスタントに歩み続けられるかだ。少なくとも俺にとってサンマを食うことは俺でいられることなんだ。」
「でも1番じゃないんだ。」
「そう。1番じゃない。でもそういうものだよ。」
「おっさんてイメージ通りだわ。」
「おっさんはダメかい?」
「あなたは大丈夫かも。」
二人は日本茶をすすりながら笑っていた。
美少女スケーター、失明の危機!
Jが、テレビのワイドショーでこのニュースを見たとき、Yと再会してからそれほど時間は経っていなかった。そのニュースを目にして彼は咄嗟にテレビを消した。Yがお手洗いから戻ったのだ。
「あぁ、スッキリした。」
「そう。」
「どうかした?」
「いや、えっと、そうだ、その格好だと何だし服でも買いに行こう。」
「え?」
「いいから、いいから。」
半ば、強制的にYはJに引っ張って行かれる形でアパートを後にした。
K’s family
そう看板に書かれた洋服店に二人は入って行った。ここは、商店街の一角にある洋装店だった。店番を恰幅のいいご婦人がしている。
「ハイ、マダム。この娘さんに似合う感じのいいドレスある?」
「あら、J久しぶりね。かわいらしい娘さんと一緒じゃないの。どういう風の吹き回しかしら。」
マダムは、Jより流暢に日本語が話せた。彼女は、淡い黄色地の小花柄のワンピースに茶色のカーディガンを羽織っている。栗色の髪によく似合っていた。事情を察してか、Jにマダムはそれ以上詳しく訊かなかった。
マダムが、Yの胸元に愛らしいピンクのワンピースを軽く押し当てた。
「いい感じだ。ちょっと着てみてよ。」
Yは、Jに促されるように試着室に入って行った。
(何だか変ね…。)
Yは、試着室で少し考え込んだ。
(まさか、あのこと彼、知っているのかしら。)
考え込みながらも、Yは勧められたワンピースに袖を通していた。
「どう?」
外からJの声がした。
「はっはい。」
Yは、カーテンを怖々開けてみた。恥ずかしそうにしていたYだったが「似合うよ!」
とJが開口一番言い、マダムも嬉しそうに微笑んでいた。
「マダム、コレいただくよ。」
「お代はいいわ。私からのプレゼントよ。」
「いつもながら気前がいいね。お言葉に甘えるよ。ありがとう。」
「ありがとうございます。」
二人はマダムにそれぞれ礼を言い、店を去った。
「あの人、知り合い?」
「あぁ、俺が日本に来るきっかけを作ってくれた人だ。親戚のおばさんだよ。」
「そう。」
「彼女から日本のことはすべて教わった。日本語もみそ汁もそう、日本の何もかもね。」
「サンマもね。」
「そう、もちろん。」
二人は、河原沿いを歩いていた。
「ところで、どうしてあなたは日本にいるの?」
「僕にもよくわからない。ただ、気づいたら10年もいた。長いようで短いよ。」
「そういうものかしら。」
「そういうものかもね。」
しばらく沈黙があった。そして、Yが口を開いた。
「ねぇ。」
「うん?」
「どうして私のこと詳しく訊かないの?」
Jは黙っていた。そして少しの間考え込んでいるようだったが、彼はYを見つめた。
「目を閉じて。」
「え?」
「いいから。」
「でも…。」
さっきまでなびいていた風が止まっていた。YはJに抱きしめられていた。大きな木の下で。Yの目からはとめどなく涙があふれ出していた。
「ごめんなさい。」
「いいんだよ。気のすむまで泣いたらいい。ただの塩水が目から流れているだけさ。」
Yが、肩越しに微かに笑っているのがJにはわかった。
「まだ、今日という日は終わらないね。」
JがYに微笑んでいる。二人土手に並んで向こう岸を見ていた。
「何だか、このまま1日過ぎて行くのがもったいない気がするわ。」
「そうだね。あっ、そうだ。天気いいしこの辺をサイクリングしようか。」
「いいわね。って、あなた自転車持っているの?」
「持って…る…、あっ、キーを失くしたんだった!」
そんな会話をしていると、Yがダウンジャケットのポケットの中を手探りで何か取り出そうとしていた。
「どうしたの?」
「コレ、もしかしてあなたのかしら。」
「そう、コレだよ!」
それは正に、木彫りの魚の形をしたJと刻印してあるキーホルダーのついている自転車の鍵だった。
「君が持っていたなんて奇跡だな。」
「ホントそうね。」
「じゃあ、すぐに家に戻って自転車を取ってくるよ。」
「わかった。」
Jは颯爽とその場を去った。
程なくして自転車に乗ったJが現れた。
「じゃあ、乗って。」
「うん。」
YはJの後ろに横座りで彼の腰に手を回した。
「しっかりつかまっててよ。」
「はい。」
自転車は走り出した。住宅街を抜け、緑の木々を次々と追い越していった。風が心地よい。YはJの微かな匂いに浸っていた。Jは腰に回されているYの腕をしっかり感じていた。
河原を何周かした時点で自転車は止まった。
「もう終わり?」
「あぁ。」
Jの声は渇いていた。二人は自転車を降りた。再び、大きな木の下に彼らは向かい合って立っていた。やがてJがYにあることを告げるように話し始めた。
「シンデレラの時間はここまでだ。君はこのまま元の場所に帰りなさい。そして、何事もなかったかのように…、とはいかないかもしれないけれど、また練習して大会に臨むんだ。」
Yは黙って聞いていた。
「コレはお守りに持っておいて。君を充分守れるかわからないけれど。」
そうJはうっすらと微笑みを浮かべながら言って、彼はキーホルダーから鍵を外し、Yの手の中へキーホルダーを収めた。そのJの手は冷たいYの手により一層温かく感じられた。
Yはありがとうと言いたかったが声にならなかった。
「何も言わなくていいよ。」
Jはそう言ってもう一度Yをそっと抱きしめた。
「ねぇ。」
Yが再び話しかけたのは夕日の出た頃だった。
「約束してくれる?」
「何を?」
「大会が終わった次の日、私は帰国するから、その日もう一度、一緒にサイクリングしてくれる?」
「あぁ、もちろん。」
「ここの大きな木の下で待ってるわ。」
「わかった。」
土手に座った二人の背中を大きな夕日が照らしていた。
Yは今、大会会場の控え室にいる。手にはJがくれたキーホルダーを握りしめていた。その手をそっと胸に持って行き、目を閉じて何か呟いている。よし、準備はできた。後は、何も考えずに滑るだけだ。
「ねぇ、お姉ちゃん。この素敵なお歌なんて言うの?」
「Born to cryっていう曲よ。」
「ボーン、トゥ…。」
「そう、Born to cry。」
Yの脳裏に幼い頃の記憶が突然よみがえっていた。
「この歌を歌っている人、ものすごくかっこいいのよ!」
「へぇぇ。」
幼い頃のYと姉が彼女のすぐそばで笑っているかのようだった。
ふとYはわれに返った。Yの滑走の順番がいよいよ来た。彼女はリンクの上で耳を澄まし、スケーティングのテーマ、ドビュッシーの『月の光』のピアノ演奏の始まりを待っていた。頭のてっぺんから足の爪先まで身体の全神経を集中させて「その時」に備えている。
やがて音楽が会場中に響き出した。スケートシューズのエッジが氷の地面を鋭く削って行く。Yは、音楽と共にリンクと一つになっていた。時折視界がぼやけるが、身体全身に月の光を浴び、手の平や爪先でその光を受け止めているかのようだった。視野が定まらないかと思うと彼女は音を頼りに月の光を追いかけていた。月の光は彼女の味方だった。
最後の一音が会場から消えて行くとYはリンクの中央で感極まっていた。笑顔になりたい気持ちがどこかにあるはずなのに、なぜか涙があふれてきそうだった。会場は拍手の渦だった。両腕を空に上げ観客の声援に応えた。
Yは自分を褒めてあげたくて仕方がなかった。早く明日にならないかとも願った。この胸の弾けそうな思いをいち早くJに伝えたかった。
いよいよあの時が迫っている。Yは、ピンクのルージュを引き鏡の前で笑顔になった。あのワンピースを着て彼女は今にも駆け出しそうだった。約束の時間までまだ少しあるが早めに出よう。Yは笑い出したくなるのをこらえて部屋を出た。
Jは、少し慌てていた。約束の時間が迫っていたが図書館に本を返却する時間を逆算し忘れて起きてしまったからだった。少々手間取ったが何とか外に出る準備は整った。後は図書館に寄って約束の場所まで行くだけだ。彼女を少し待たせてしまうかもしれないが素直に謝ろう。
Yはあの大きな木の下で、あの日Jとサイクリングした日と同じ澄み切った空の下、彼が来るのを心待ちにしていた。彼が来たら何から話そう。Yは胸がいっぱいだった。
図書館に本を返却し終えた時点で雲行きが怪しくなっていた。これは一雨来そうだ。Jは少し嫌な予感がしていた。やがて、雨粒が彼のコートを少しずつ濡らし始めた。
一分でも彼女をできるだけ待たせたくない思いが彼にはあった。住宅街を次々と抜けて行く。自転車は一軒一軒、家の前の道をクリアしていった。まだ土砂降りではなかった。
Jの進む先に建設中の家があることを彼はまだ知る由もなかった。さっきと比べて気のせいか雨脚が強くなっている。
突然、Jの目の前を鋭い光が走った。手足の感覚がない。彼は建築資材の中で意識を失っていた。そんな彼の周りを作業員が囲んでいた。
Yは、一雨ごとに厳しくなる雨粒を全身に受け止めながら彼を待ち続けた。淡いピンクのワンピースが段々色濃く染まって行く。それでも彼女は諦めなかった。
Jは今、ベッドの上にいる。意識が朦朧としていた。呼吸器につながれている。そんな中、Jの瞳の中に優しい瞳が映った。
「あぁ、来てくれたんだね…。」
彼は呼吸器を外し、かすれた声でそう言った。
「残念ながら私よ。」
Jのおばさんだった。彼女は涙をこらえているがJにはそんなことはもうよくわからなかった。
「何か欲しいものある?」
おばさんがやっとの思いで訊いた。彼は薄らいで行く意識の中、必死で何か伝えようとしていた。
「何?」
「オレのカクマクをカノジョに…。」
「わかったわ。」
「オレだとは明かさないでくれ…、ただサンマを食べていたからよく見えるようになると伝えてくれ…。」
彼は、途切れ途切れにそう伝え、力尽きた。
十年後。
「ジャーヴィス、ヨナ、早く寝なさい、もうおねむの時間よ。」
彼女は二児の母になっていた。
「マミー、何か面白いお話ししてよぉ。」
Yは、なかなか寝つかない子供たちにせがまれていた。
「実はね…、ママのお目々はね…、お魚の目なんだよぉ!」
そう言ってYが子供たちの背後から彼らを追いかけて行くと、
「わぁ、マミー変なのぉ!」
と子供たちは一斉にベッドへ笑いながら飛び込んで行った。
ベッドルームには、仲睦まじく肩を寄せあい微笑んでいる幼い頃のYと姉の写真がサイドボードに飾られている。その引き出しにはJのキーホルダーが大切にしまわれている。そしてテレビジョンからは、『Born to cry』を歌う若き日のJの姿が映し出されていた。
私の憧れのスターたちに捧ぐ。