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 1 死者を乗せた船



 一隻の船が、月明かりも届かぬ暗い海を、ゆっくりと進んでいた。


「ギギギギィ、ギギギギギギィ」 


 夜の海に身をよじらせていた奴隷船は、軋む音を響かせながら、闇の中でゆらゆらと揺れていた。まるで死者を乗せた棺のように。

 

 船倉には、掌に穿たれた穴へ縄を通され、互いに結びつけられた人々の呻き声と、血と汗と吐瀉の匂いが充満している。


 最初、この空間は身じろぎ一つできぬほど奴隷で埋め尽くされていた。

 だが、飢えと病に命を奪われた者たちは、次々と甲板から海へと投げ捨てられた。


 その亡骸を狙って、奴隷船の後をサメの群れが絶えずつきまとっていた。

 

 死は、この船において日常そのものだった。


 やがて喰い散らされた死体の数だけ、船倉にはわずかな空隙が生まれていく。その隙間が、どれほどの犠牲の上にあるかを知らぬ者はいなかった。


 そして船は、長い航海の末、とある港に停泊した。

 

 船倉の扉が軋む音とともに開かれる。眩しい光が差し込み、奴隷たちの濁った瞳を照らした。


 新たに連れてこられた捕らわれ人が、次々と船倉へ押し込まれる。


 その中には、まだ幼さの残る子供の姿もあった。


 痩せ細った子供は、震える声で泣き叫んだ。


「助けてー! お母さーん!」


 船倉に充満する呻き声に、この日、またひとつ幼い泣き声が加わった。


 この船で与えられる食事は、一日一度きり。桶に薄いスープが流し込まれ、ひしゃくで雑にすくわれて奴隷たちの前に投げ置かれる。


 麦か豆かも分からぬほど煮崩れ、悪臭を放つそのスープには、しばしば虫や殻が混じっていた。水も樽の底で濁り、鉄の味と腐敗の臭気が鼻を刺す。飢えた者たちはそれでも奪い合うように口に運び、吐き出し、また掻き込んだ。

 食べなければ死ぬ、だが食べても死に近づく。そんな矛盾を抱えた食事だった。

 

 その夜、船倉には嘔吐の音とすすり泣きが響いていた。

 腐敗したスープを喉に押し込んだ幼い奴隷が、苦しげに体を丸め、涙と胃液で顔を濡らしている。


「父ちゃん…… 母ちゃん……」


 その傍らに、一人の大柄な男が身を寄せた。


 男の体は鞭打ちの痕で覆われていたが、他の奴隷と違い、その眼光は濁っていない。


 静かに子供の背をさすり、低い声で囁いた。


「……大丈夫か、坊や」


 子供は嗚咽の合間に顔を上げ、怯えた瞳で男を見つめた。


 暗闇の中、その男の眼は鋭さを宿しながらも、不思議な温かさを帯びていた。それは、絶望に沈む者の目ではなく、まだ人としての誇りを失わぬ光だった。


「ゴホッ、ゴホッゴホッ」


 幼い奴隷の背をさすっていた男は、やがて視線を落とし、自らの掌に通された縄を噛みしめた。


 血の味と痛みが広がるのも構わず、歯を食い込ませる。

 やがて繊維が裂ける音が響き、縄は無惨に噛みちぎられた。


 周囲の奴隷たちが驚いた眼で彼を見守る中、男は闇に溶けるように船倉の奥へ消えていった。


 しばらくして、彼はひしゃくに濁った水をすくって戻ってきた。

 そのわずかな水を子供の唇にあてがうが、口に含むことを拒絶した。


「……飲め。飲まないと死ぬぞ」


 だが子供は、目をぎゅっと閉じたまま、唇を固く噛みしめる。吐き出すことを恐れているのか、それともこの水が、死の道しるべだと直感したのか、震える小さな手が、男の差し伸べたひしゃくを押しのけた。


「父ちゃんも母ちゃんも死んだ…… 俺も、生きてても奴隷のままだ。ここでこのまま死ぬ……」


 幼い奴隷の声を聞いた男は、床に静かにひしゃくを置いた。


「死ぬと決めたのなら、最後にひとつだけ話をきけ」


「ゴホッゴホッ。……はなし?」


「そうだ。一人の奴隷だった男の話だ」


 幼い奴隷は、生気を失った瞳をゆっくりと持ち上げ、暗闇の中で男を見つめた。


「その男は、お前と同じくらい幼い時に、家族と共に奴隷狩りに遭い、船に押し込められた」


「……」


「やがて両親や弟妹とは引き離され、別々に売られてしまった…… それからは、一人で奴隷として生きるしかなかった」


「うっ、うえぇぇ。ゴホッゴホッゴホッ」


 幼子の嗚咽と咳が続いていた。背中に手を伸ばし、優しくさすった男は、話を続ける。


「それから十数年後…… 幼かった奴隷は成長し、イエズス会の奴隷として、黄金の国と呼ばれていた、ジパングを訪れた」


「ゴホッゴホッ…… ジ、ジパング?」


 弱々しく呟いた幼い奴隷に、男は優しく微笑んだ。


「その国は……」


 男が再び口を開いた瞬間、船倉であるはずなのに、一陣の風が吹き抜けた。





「ひゃっははははっ! その方、この俺をおちょくるつもりか!?」


 イエズス会の巡察師 アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、静かに頭を下げた。


「ノブナガサマ、決してそのようなことではありません」


「ではどういうことだ!?」


「この者は、生まれつきこのような肌の色をしております」


「ふざけおって! こんな黒い奴がいるはずない! どうせ炭を塗っておるのだろう! おい、誰か! 誰か、桶に水を入れて、こいつの体をここで洗え!」

  

 時は天正九年(1581年)二月。


 安土城の大広間に冷気が漂う中、奴隷の男は桶に入り、家臣たちに身体を擦られた。


 冷水が肌を打つたび、白い息が立ちのぼる。


「殿、いくら擦っても一向に落ちませぬ」


「なにぃ?」


「水も黒く濁らず、透き通ったままにございます」


「ええい、貸せ!」


 信長は勢いよく立ち上がり、自らたわしを掴むと、奴隷の体を力いっぱい擦り始めた。


 粗い繊維が皮膚を削るたび、奴隷の顔は苦痛に歪んだ。

 だが、奴隷は、目を逸らそうとしても、どうしても信長から目を離せなかった。ただの好奇や恐れではなかった。今まで感じたことのない不思議な魅力が、信長という存在から溢れていた。


 なんだこの人は……


 信長の瞳は、不思議な力を帯びた深淵のようで、見入った瞬間に捕らえられてしまった。抗おうとしても無駄だった。吸い込まれるように、彼はその眼差しに縫い止められていた。


 家臣の言葉どおり、いくら擦っても色は落ちない。むしろ、その黒い肌は艶を帯び、光を弾くように輝きはじめていた。



 こやつ…… 本当に黒い肌をしておるのか……



 最初は疑いと好奇の色が宿っていたその眼差しが、瞬く間に深い洞察の光へと変わった。初めて目にするはずの存在を、一瞬で理解し、受け入れてしまう、その切り替えの速さこそ、信長の異質な才だった。


「……なるほど、見事なものよ」


 笑みを浮かべたのち、会釈をした信長の低い声が広間に響く。


「これは、無礼を働いたな」


 その一言に、家臣たちは息を呑む。



 と、殿が、頭を下げられた……



 家臣たちの心の中でざわめきが広がる。冷水の入った桶につかり、たわしで身体を擦られた奴隷は、自分に向かって頭を下げる男に、釘付けになっていた。


「すぐに手ぬぐいと小袖をもて」


 家臣は、粗布のてぬぐいと、部屋着の小袖を持ってきた。


「ぬぐってやれ」


「はっ」


 家臣は言われたとおり、奴隷の体をぬぐいはじめた。


 濡れた布の跡に、鈍い光を帯びた黒い肌があらわれる。

 間近でその肌を見た家臣は、思わず手を止めて見入っていた。

 

 あらためて見ても黒い…… 本当に、炭のように黒い肌だ。

 

 奴隷と視線が合った家臣は、息をのんだまま、戸惑いを隠せずに手を動かした。

 

「これに袖を通されよ」


 言葉を理解出来なかったが、家臣が小袖を広げて待っているのを見て、ゆっくりと手を伸ばした。


 奴隷の身分である者にとっては、それは、初めて陽の光に包まれるような気がした。


「なかなか似合うではないか」


 信長はわずかに口元をゆるめ、その様子を静かに見つめていた。


「……よし」


 満足そうに頷くと、ヴァリニャーノへ顔を向ける。


「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」


「はい」


「この男を、俺のもとへ置く。異存はあるまい」


 この日、奴隷だった男は、織田信長の家臣となった。


 のちに黒き侍と呼ばれる男の、新たな人生が始まった。




 奴隷として名さえ持たなかったその男は、弥助という名を与えられ、武士として取り立てられた。


 腰には刀を差すことを許され、屋敷と俸禄を与えられた。


 信長の傍らに仕え、ともに食事をし、城下を歩いた。


 誰もが奴隷として見ていた男を、信長だけは一人の人間として扱った。


 弥助にとって、それは生まれて初めて手にした、自由と誇りの日々だった。


 だが、信長と共に歩めた時間は、あまりにも短かった。




 天正十年(1582年)六月二日。


 まだ夜明けの光が届かぬ京都の街に、ときの声が響き渡った。


「うおおおおー!!」

「進めー!」


 押し寄せる明智軍一万の兵。その足音は大地を震わせ、本能寺の土塀に響き渡る。


「何ごとだ、この騒ぎは……」


 寝所から起きた信長の声が、炎の気配漂う闇を切り裂いた。


「殿、反乱でございます」


 森蘭丸が、静かに告げた。


「反乱……」


「はい。取り囲む兵の幟は、桔梗紋にございます」


「光秀……」

 

 無数の松明が、すでに本能寺の四方を赤く取り囲んでいた。


 煙と共に立ちのぼる熱気が、蒼白い夜明け前の空を赤く染め上げていく。


「殿、もはやこれまで! お逃げくださいませ!」


 森蘭丸の叫びに、信長は静かに首を振った。


「逃げるつもりなどない」


 その声には、乱れも怯えもなかった。


 弓を取り、矢が尽きれば槍を取る。信長は自ら太刀を振るい、押し寄せる明智の兵を斬り伏せた。


 だが、猛る炎は容赦なく殿舎を舐め尽くし、退路をひとつ、またひとつと塞いでいく。


「殿……」


「蘭丸、女たちを落ち延びさせよ。それから、寺に火をかけよ。誰にもこの首、渡すな」


「はっ…… はい……」


 声を震わせながら、蘭丸は下がっていった。

 燃え盛る炎の中、信長はゆっくりと奥の一室へと歩みを進める。


 その傍らには、大太刀を手にしたやすけの姿があった。


「ノブナガサマ、どうかお逃げください……」


 やすけの声に、信長は薄く笑った。


 そして、静かに扇を広げた。


 炎に照らされたその横顔は、恐れではなく、どこか清々しさを湛えていた。


「人間五十年」


 低く、朗々とした声が響く。


「下天のうちをくらぶれば」


 やすけは、動けなかった。


 ただ、その舞を、その声を、焼き付けるように見つめていた。


「夢幻の如くなり……」


 最後の一節を紡ぎ終えると、信長は扇を静かに下ろした。

 外では、鬨の声と怒号、そして刃の交わる音が、絶え間なく響いている。


「殿ォォォ!!」


 蘭丸の声が、遠く炎の向こうから聞こえた。


 信長は、やすけへとゆっくり向き直った。


「やすけ」


「……はい」


「お前は、生きよ」


 その言葉に、やすけの瞳が揺れた。


「トノ……」


「儂と共に死のうなどと、愚かなことを考えるな」


 信長の眼光は、初めて出会ったあの安土城の夜と同じ、深い光を宿していた。


「最低でも、五十になるまでは」


「……」


「死ぬことを、許さぬ」


 その声は、命令でありながら、どこまでも静かだった。


「それが……」


 信長は、微かに笑った。


「主君からの、最後の言葉だ」


 炎の照り返しが、二人の影を大きく壁に揺らめかせていた。

 やすけの喉から、声にならない叫びが漏れる。


「ノブナガサマァァァ……!!」


 信長は振り返らなかった。


 ただ一度、別れを告げるように、扇を持った手をわずかに上げた。


 そして奥の間へと、静かに、誰よりも堂々と消えていった。


 やがて、炎がすべてを覆い尽くした。


「ノブナガサマァァァー」


 天正十年六月二日。


 天下統一を目前にして、織田信長は本能寺に散った。


 享年、四十九。




 男が語り終えると、船倉には再び、波の音と奴隷たちの呻き声だけが残った。


 幼い奴隷は、先ほどまでの苦しみを忘れたように、男の顔をじっと見つめていた。


「その奴隷はゴホッゴホッ…… ど、どうなったの?」


「今でも、奴隷ではない」


「じゃあ、なんなの?」


「……侍だ」


「……サムライ?」


「そうだ」


 男はゆっくりと立ち上がった。


「ゴホッ……」


 少年は咳を止め、息を呑んだ。


 男は何も言わず、船倉の奥へと歩いていった。


 積み上げられた樽や木箱を次々とどかし、奴隷と引き換えに手に入れた交易品を探っていく。


 そして、その中から現れたのは、一本の刀だった。


 男は鞘を握り、ゆっくりと刀身を引き抜いた。


 暗い船倉の中に、冷たい刃の光が走る。


 男は刀を鞘へ戻すと、その切っ先を船倉の天井へ向けた。


 ドン。


 鞘に納めたままの刀で、頭上の扉を突く。


 ドン。ドン。ドン。


 さらに強く突き上げた。


 ドンッ! ドンッ! ドンッ!


 ほどなくして、頭上から荒々しい足音が近づいてきた。


「うるさいぞ、奴隷ども!」


 船員の怒鳴り声とともに、船倉の扉が開かれる。


 細い光が差し込み、船員が顔を覗かせた。


「静かにしねえと、全員サメのエサにっ」


 その瞬間。


 鞘が宙を舞った。


 男の手から突き上げられた刀が、船員の喉を貫いていた。


「ぐ…… ぐぐっ……」


 声にならない息を漏らし、船員の身体が船倉へ落ちてくる。


 奴隷たちの間に、どよめきが走った。


 男は倒れた船員を踏み台にして、扉の縁へ手をかけた。


 直後、甲板から怒号が響いた。


「奴隷が逃げたぞ!」


「殺せぇ!」


「撃て!」


 銃声が轟く。


 船倉の天井から、木屑がぱらぱらと降り落ちた。


 金属がぶつかり合う音。


 何か重いものが倒れる音。


 男たちの悲鳴。


 続けざまに銃声が鳴り、奴隷たちは身を縮めた。


 だが、少年だけは、開いたままの扉を見つめ続けていた。


 やがて。


 甲板の騒ぎが、突然途絶えた。


 波の音だけが残る。


 誰もが息を殺し、頭上を見上げていた。


 ゆっくりと、足音が近づいてくる。


 一歩。


 また一歩。


 扉の向こうに、男の姿が現れた。


 全身を返り血に染め、肩や腕には幾つもの傷を負っている。


 だが、その足取りに揺らぎはなかった。


 右手には刀。


 左手には、船長の首が握られていた。


 男は船倉へ首を投げ落とした。


 ゴロリと転がったそれを見て、奴隷たちから悲鳴が上がる。


「この船の船長は死んだ」


 男の声が、船倉の隅々まで響いた。


「船員も、もう一人も残っていない」


 誰も言葉を発することができない。


 男は刀を床へ突き立て、集まった奴隷たちを見渡した。


「陸に着いたら、降りたい者は降りろ」


 奴隷たちが、互いの顔を見合わせる。


「故郷へ帰る者も、家族を捜す者も、好きにすればいい。誰も止めはしない」


 それから男は、血に濡れた手で刀の柄を握った。


「だが、この船に残るのなら」


 鋭い眼光が、暗闇を貫く。


「俺とともに来い」


「……ど、どこへ?」


 誰かが尋ねた。


 男は静かに答えた。


「奴隷を解放しに行く」


 船倉が、しんと静まり返った。


「この海を渡る奴隷船を襲い、捕らわれた者を一人残らず自由にする」


 誰もが言葉を失っていた。


 それはあまりにも無謀で、あまりにも途方もない話だった。


 奴隷が奴隷船を奪い、奴隷を救う。


 そんなことができるはずがない。


 だが、その男はすでに、不可能を一つ成し遂げていた。


「お、俺は残る」


 一人の男が声を上げた。


「私も残るわ」


 続いて、一人の女が立ち上がる。


「俺は船を動かせる。帆の扱いも分かる」


「俺もだ。昔、商船の奴隷だった」


「料理ならできる」


「傷の手当てができる者も必要だろう」


 声は一つ、また一つと増えていった。


 やがて船倉の至るところから、残るという声が湧き上がる。


「僕も、残るよ。ゴホッ……」


 少年が叫んだ。


「お前は降りろ」


「い、嫌だ……」


「子供が来る場所ではない」


「僕も、ほかの奴隷を助けたいんだ。僕みたいな人を、もう作りたくないんだ!」


 少年は涙を流しながら、それでも男から目を逸らさなかった。


「それに…… 僕はもう、死なない」


 男の表情が、わずかに変わった。


「僕も、サムライになりたいから……」


 男は、少年を見つめた。


「わかった。好きにしろ」


 少年の顔に、初めて笑みが浮かんだ。


「なあ」


 船を扱えると言った男が尋ねた。


「あんたの名は、何というんだ?」


 男は答えなかった。


 遠い海の向こうを見つめる。


 その瞳の奥に、燃え盛る本能寺が浮かんでいた。


 炎の中で舞う、一人の主君の姿。


『お前は、生きよ』


 男は目を閉じ、その声を胸の奥で聞いた。


 そして、ゆっくりと目を開いた。


「俺の名は……」


 血に濡れた刀を肩へ担ぎ、男は告げた。


「弥助」



        


 数か月後。


 一隻の船が、朝日に輝く海を進んでいた。


 その帆には、永楽通宝をかたどった織田家の旗印が、大きく描かれている。


 かつて奴隷を運んでいた船の甲板には、縄につながれた者の姿はなかった。


 肌の色も、生まれた国も、話す言葉も異なる者たちが、帆を操り、舵を取り、海を見つめている。


 船首には、大太刀を携えた弥助が立っていた。


「船長!」


 見張り台から声が上がる。


「前方に船影! 奴隷船です!」


 弥助は遠くに浮かぶ黒い船を見据えた。


 その後ろには、亡骸を待つサメの背びれが幾つも揺れている。


 かつて、自分が閉じ込められていたのと同じ船。


 今もまた、暗い船倉の底で、誰かが助けを待っている。


 弥助は腰の刀を抜き、空へと掲げた。


「奴隷船へ向かえ!」


 甲板に集まった者たちが、一斉に動き出す。


「一人残らず解放する!」


「おおおおおー!!」


 帆が風を孕み、船が速度を上げていく。


 弥助は潮風を受けながら、遠い空を見上げた。


 青い空の向こうに、あの破天荒な笑い声が聞こえた気がした。


「殿」


 弥助は微かに笑った。


「弥助は、言いつけどおり五十までは死にませぬ」


 そして、刀の切っ先を奴隷船へと向ける。


「その先は…… その時に考えます」


 織田の旗印を掲げた船が、白波を切り裂いて進んでいく。


 その姿はまるで、世界へ乗り出そうとしていた信長の夢を、海の彼方へ運んでいるようだった。


 のちに、その船は二つの名で語られた。


 奴隷たちは、自由を運ぶ船としてDAWN(夜明け)と呼んだ。


 そして奴隷商人たちは、海から現れる災厄としてBLACK(黒い) STORM()と呼び、恐れた。


 その船に乗る者は、皆が刀を携えた黒き侍である。


 そんな噂さえ、海を渡る商人たちの間で囁かれていた。


 奴隷商人だけを襲い、捕らわれた者たちを解き放つ、解放者の船。


 DAWN(夜明け)を率いる黒き侍の名は。


 弥助。


 かつて奴隷だった男は、海を渡り、夜明けの国ジパングで侍となった。


 そして……


 自らの手で、人々に自由を与える者となった。


  



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


弥助は、戦国時代の日本で織田信長に仕えた、実在の人物です。


しかし、本能寺の変のあと、彼がどこへ行き、どのような人生を送ったのか。その足取りは、歴史の中から忽然と消えています。


もし、信長から人として扱われ、侍として生きる誇りを与えられた弥助が、その後も生き続けていたなら。


彼は、何を思い、どこへ向かったのか。


そんな想像から、この物語は生まれました。


史実を土台としながらも、本能寺の変以降の物語には、大胆なフィクションを含んでいます。


三年前に書き始めたものの、途中で放棄して、長い間眠らせていた作品です。


今回、ようやく続きを描きたいと思える形になり、掲載することにしました。


本作は、不定期掲載となります。


次回の更新時期は未定ですが、弥助とDAWN(夜明け)の航海を、ゆっくり見守っていただければうれしいです。



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