第26話:疾風の空振り
砕け散った氷の破片が、まだダイヤモンドダストのように宙に舞っていた。その静寂を切り裂いたのは、野生の咆哮だった。
「逃がさない……ッ!」
ミーナの耳が、何者かの駆動音を完全に捉えた。彼女はまだボタンを掛け違えたシャツ一枚の姿だったが、その身のこなしには一点の迷いもない。疾風脚。爆発的な脚力が地面を爆ぜさせ、彼女の体は文字通り疾風と化した。
翻るシャツの裾から、濡れたままのしなやかな太腿と、鍛え上げられた脚のラインが露わになる。二十七歳の男の目が眩むような光景だが、今のミーナは純然たる狩人だった。野生の勘が対象を完全にロックオンし、彼女の爪が空中の一点へと叩き込まれる。
ガリッ、と。
「……捕まえた!」
確かな手応えがあった。それは生物の肉ではなく、凍てつくような硬い金属の感触。だが、次の瞬間、ミーナの表情は驚愕へと染まる。手応えを感じたはずの右手が、抵抗を失い、そのまま空を切ったのだ。
「え……? 消えた……?」
そこには、残像すら残っていない。ただ、ミーナが着地した後の泥濘だけが、彼女の突撃の凄まじさを物語っていた。肩で息をするミーナのシャツが、乱れた呼吸に合わせて激しく上下する。その無防備な姿を見つめながら、祐二の脳内ではAIが冷徹なログを更新していた。
「マスター、警告。対象の回避行動を分析」
「今のを見たか? ミーナの速度についていける奴なんて……」
「……違います。対象は移動していません。検知されたラグは0.00ミリ秒。物理的な加速運動を一切介さず、座標から自身の存在データを一時的に消去し、別の座標で再構成しました。これはゼロ遅延による存在のON/OFFです」
祐二は息を呑んだ。速いのではない。そこに「いなくなる」のだ。回避というプロセスすら省略し、世界のルールそのものを書き換えるような挙動。
「……ユウジ。今、あいつ、私の爪に触れながら笑った気がする」
ミーナが震える声で呟く。シャツの隙間から覗く彼女の肌には、恐怖による鳥肌が立っていた。




