004 初めての学び
初めてフィーの部屋に足を踏み入れたアトは、その光景に息を呑んだ。普段使い慣れた質素な部屋とはまるで違う。天井は高く、そこに届かんばかりにそびえ立つ本棚には、隙間なく書物がぎっしりと詰まっていた。部屋の中央には、豪華な応接セットが鎮座して、その奥には見たことのない奇妙な器具や道具が並べられた机があった。その脇には天蓋付きのベッドが優雅に設えられていた。
「そこに座って、アト」
フィーは柔らかな笑顔でソファを勧めると、奥の机の引き出しを開けて何かを取り出して、腕に丸めた紙と紙の束を抱え、再びアトの元へ戻ってくる。
「これを見たことがあるかしら?」
そう言ってフィーが手のひらに乗せて見せたのは、きらりと光る懐中時計だった。
「これですか? 初めて見ました! 何かの道具ですか?」
生まれて初めて見る時計に、アトの目はきらきらと輝いている。
「これはね、時計というものなのよ」
フィーはそう言うと、時間とは何か、そして時計の見方を丁寧に教えてくれた。その後、小さな懐中時計をアトの手に握らせると、慈しむような眼差しで語りかける。
「時間については分かったわよね、アト。これをあなたに貸してあげる。大事に使ってちょうだいね。さあ、そろそろ勉強を始めましょうか」
フィーは腕に抱えていた丸めた紙を机の上に広げ、アトに見せた。そして、一文字、一文字をゆっくりと声に出しながら読んでいく。
「アー、ベー、ツェー……。これが文字よ。これが『アー』。こっちが『テー』。そして『オー』。続けて読むと、そう、アト、あなたの名前ね。まずは、すべての文字を読めるようになりましょう」
フィーはそれからずっと、アトの傍らに寄り添い、彼がすべての文字を読みこなせるようになるまで根気強く付き合ってくれた。文字を読めるようになったアトを、フィーは優しく昼食に誘う。
軽めの昼食を終え、部屋に戻ると、フィーは羽ペンとインク壺、そして真っ白な紙の束を携え、アトの隣に座った。午前中の学習内容を復習し終えたアトに、フィーは微笑みかける。
「次は文字を書く練習よ。でもその前に、羽ペンの使い方を覚えないとね」
そう言うと、フィーはすらすらと紙の上で羽ペンを滑らせる。何かを書くたびに新しい紙へと変えていき、アトの前には垂直な線、まっすぐな直線、右回りの渦巻き、左回りの渦巻き、そして「ノ」の字や払いの書かれた紙が次々と並べられていく。
「アト、この羽ペンを持ってみて」
フィーに言われて、アトは羽ペンのペン先の方を恐る恐る持ってみせた。フィーはそれを見て、くすくすと楽しそうに笑う。
「ごめんね、アト。私が持っているように持ってみて。こう、親指と人差し指と中指の3本で、こうよ。できるかしら?」
手本を示し、羽ペンの先にそっとインクをつけたフィーは、アトの隣で新しい紙に優雅な線を引いた。フィーの真似をして、ペン先にインクを付けたアトは、意気揚々と紙に線を引こうとするが、途中でインクをぽたりと垂らしてしまう。思わずフィーを見ると、彼女はコロコロと笑いながら言う。
「インクの付け過ぎね。次からは気を付けて。さあ、線を引いてごらんなさい」
アトはそのまま線を引こうと紙にペンを走らせた。細くなったり太くなったりしながら線を描いていると、途中で、
「あっ」
と声を上げてしまう。筆先をつぶしてしまったのだ。慌ててフィーを見ると、彼女は優しい微笑みを浮かべている。
「心配ないわ。新しい羽根ペンを持ってくるから。それより、どうしてペン先がつぶれたか分かる?」
フィーの問いに、アトは一生懸命ペン先をつぶした理由を考えたが、分からずに素直にフィーに尋ねた。
「それはね、紙と腕の位置が悪かったのよ。アト、あなたはこの位置に紙を置いて、下まで線を引こうとしたわよね。そうすると、ここで肘が曲がらなくなってしまったの。それでも書こうとしたでしょう? ほらね、肘ごと腕を引いているでしょ。それでペン先がつぶれてしまったのよ。次は気を付けてね」
アトにペン先がつぶれた理由を丁寧に教え、フィーは席を立つと、新しい羽根ペンを持ってアトの隣に戻って来た。アトがペンを持つところから、線を引くところまで、フィーは文字通り身を乗り出すようにして一緒になって取り組んだ。アトが奇麗に垂直な線を引いたのを見て、フィーは顔をほころばせ、まるで自分のことのように喜んでくれた。
フィーのその態度が嬉しくて、アトはその後、黙々と線を引いたり、渦巻きを書いたりし続けた。何度かペン先をダメにしてしまうアトだったが、その度にフィーは何も言わずに新しい羽ペンを持ってきてくれた。アトは垂直な線や渦巻きを書き終えるたびに、自慢げな顔でフィーを見た。フィーはアトが書いたものを見ると、心から喜んでくれる。それがアトには何よりも嬉しかった。
アトがペン先をつぶすことなく、フィーのお手本通りに書けるようになった頃、フィーはふと顔を上げた。
「もう晩御飯の時間ね。今日はここまでにしましょうか?」
そう言ってフィーが席を立って、散らばっていた紙や羽ペンを片付け始めると、アトも一緒になって手伝い、フィーと共に部屋を出た。
食堂に戻って夕食を食べ終えると、フィーはいたずらっ子のような笑顔を浮かべてアトに語りかけた。
「アト、明日も朝食の前に走ると思うけど、朝起きたら一番に時計を見なさい。そして、起きてから1時間、走り続けるように心がけなさい。できるかしら?」
「できます!」
アトは元気に答え、真剣な眼差しでフィーを見つめた。その表情に満足したのか、フィーは柔らかな声で言う。
「もう、部屋に戻って休みなさい。おやすみ、アト」
退室を促すフィーに、アトも
「おやすみなさい」
と元気よく返した。
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