移住サポートプログラムで引っ越した先が因習村だった
子は親を選べない。
などと攻撃的な言葉が喉元まで込み上げてきたのも、彼――能咲真が目下置かれている境遇を思えばある程度の納得を得ただろう。
慌ただしかった引越し作業の日々も終わり、いよいよ移住先へと向かう車の中で、真はずっと無言だった。
脱サラして飲食店を開く。それ自体はままある事だ。
都会を出て田舎へ移住する。それもまた、たまにある事だ。
しかしこの二つを同時に、しかも高校受験を控えようという子供を持つ夫婦が行ったとなれば話は変わってくる。自分たちだけなら好きにすればいいが子供の事を考えろと、一気に眉を顰める者が増えた事だろう。
いくら引っ越し先の村が移住推進プロジェクトを押し進めていて、補助金やら移住サポートプログラムだけでなく、住居兼店舗となる建物まで格安で用意してくれるといっても、だ。
どんなに初期費用が抑えられようと、店というのは客が来なければ潰れるのである。人口で都会に負ける田舎では、スタート地点から厳しい。更に金銭的な問題だけではなく、急変する生活環境、子供を通わせる学校などの問題も付きまとう。余程の楽天的な人間でない限り、新天地への出発を呑気に楽しむ気分になれる筈もなかった。
「どうしたんだ真、やけに静かだけど車酔いでもしちゃった?」
「……………………」
真の心情を知ってか知らずか、その余程の楽天的な人間であるところの父、能崎真太郎が信号待ちの間に振り返った。眼鏡の奥から覗く笑顔がやたらと眩しい。
ここまでくると怒る気にもなれず、違うよ、と真は短く答えた。
よくこれで仕事となると人格が変わるなどと評されているものである。何度聞かされても真には信じられない。
開業に必要な諸々の資格もいつの間にか取得していたようだが、熱心にやれば儲かるなどというのは幻想に過ぎないというのに。
「向こうに着いたらすぐ休めるからな。ちょくちょく荷解きは済ませてあるけど、今日はサポート部隊の人たちも来て手伝ってくれるんだってさ。最初からすごく親身になって相談に乗ってくれたし、助かるよなぁ」
「それは良かったね……」
「真はまだ行った事がなかったんだったか。でも見たらきっと気に入るよ。空気は澄んでて、綺麗な渓流や泉もあって、そりゃもう申し分ない所なんだぞう。いろんな風習や伝統が受け継がれてきた歴史ある村だけど、村の人たちも閉鎖的なんて事は無くて、何でも相談に乗ってくれて――」
思考に沈めば沈むほど、父の声は遠ざかっていく。
田舎でカフェを開くというのは、両親の昔からの夢だったらしい。
歳を取ってからではとてもではないが不可能だからと思い切ったのは勝手だが、振り回される側の事も考えてほしいものだと、転校先でも元気でなと送り出してくれたクラスメイトたちの顔が真の脳裏に浮かぶ。
真は引っ越す理由の多くを語らなかったが、誰もがそんな事をして大丈夫なのかと思っているのは明白だった。
無論、先行きを不安に感じたのは級友たちだけではない。
それどころか、真を含めた周囲の人間は全員この計画に反対した。
成功する訳がないと、むざむざ今の収入を捨てる必要があるのかと、移住サポートなんて最初のうちだけだと、何より親に付き合わされる子供が可哀想だと、それこそ本当に心から案じて忠告してくれた。
そんな人々に、両親は目を輝かせながらこう語った。
「村をあげての移住サポートだけじゃなく、観光客の誘致も進めてる最中なんですよ。だから僕たちは、地元の人たちの憩いの場であり、かつ噂を聞きつけた観光客がふらっと立ち寄ってくれる……。そんな感じの小洒落たカフェにしていきたいんです! ちなみに店の名前候補は三つに絞り込んでいて」
断言しよう、100パーセント失敗する。そして誰も目標など聞いていない。
あれこれ心配してくれた人たちも、これはもう無駄だと最後の方では呆れて何も言わなくなっていた気がする。
どうにも両親には、田舎の村に開く小洒落たカフェという地雷案件を絶対に成功させてみせるという確信があるようだった。
移住先で一体何を吹き込まれてきたのか、この溢れんばかりの自信はどこから生まれてきているのか、中学生ながらそれなりに社会常識というものを備えた真には皆目見当もつかなかった。
「真……後悔してるの? やっぱりあっちに残らなかったこと……」
今度は助手席の母親――能咲九美が真にそう聞いた。真太郎に比べたらまだ幾らか理性の残っていそうな問い掛けだが、どのみち計画には全面的に賛同していた時点で真にとっては大差ない。
実のところ、真にはもうひとつの選択肢があった。
親戚の家に住まわせてもらい、そこから引き続き学校に通う。そして受験。合格したらそのまま高校へ通うなり、寮に入るか一人暮らしをしてもいい。諸費用は当然、両親が持つ。
この選択肢は何度も提示されたし、叔母夫婦も乗り気だった。真の境遇を気の毒がったというのもあるが、子供が大学へ行って部屋が空いたのが寂しかったらしい。
実際、環境変化の度合いは移住に比較すれば遥かに少なく、受験など今後の事を考えればそうした方が無難だったのは確かだ。
真も悩んだ。中学生に押し付ける悩みではないとはいえ、自分で決めなければならない事である以上、それはもう悩んだ。
そして出した結論の結果、今こうして身も知らぬ田舎の村へと向かう車に揺られている。
「いいよ別に、勉強ならどこででも出来るし、やり方だって今時いくらでもあるし。ネットは繋がってるって言ってたよね? ならほら、オンラインの塾とかさ」
まだまだ子供の真にとって酷な選択であろうと、間違いなく別の道を選ぶ事はできた。
なのに結局、そうしなかった。
生まれ育った実家が消えてしまう事への抵抗や、単純な寂しさや、理由はいろいろ考えられる。
だが最大の理由は、慣れない土地で明らかに失敗するであろう事業に臨む両親を、まるで見限るように離れる事に抵抗があったのかもしれない。
失敗すればまた元の暮らしに戻れる。そんなふうに考えられるほど、あいにく真は非情ではなく、また両親を嫌ってもいなかった。
「家族は……一緒にいるもんだろ」
完全に割り切れた訳ではない。だが切り捨てる事は出来ない。
そんな口調で呟くと、真はもぞもぞ身を捩って流れていく車外の景色へと目をやった。住居と商店が代わる代わる、だが途切れず現れては消えていく。こんな光景も、数時間後には見られなくなっているのだろう。
結論から言おう。
流行った。
「ただいまー……」
学校から帰ると先に家へ入って鞄を置き、すぐに引き返して表側の店舗へと向かう。
引っ越しから三ヶ月。今やすっかりこれが平日における真のローテーションとなっていた。
入口横に置かれた手書きのメニューボードをちらりと眺め、これが小洒落たロゴなのだろうかと毎回思いながら、蛇が身をくねらせているような字体で「カフェ びりぃぶ」と描かれたドアを押す。カランカランと軽いベルの音が鳴り、店内の空気とざわめきがわっと押し寄せてきた。
そう、誰にとっても――否、ほとんどの者にとって予想外な事に、カフェは大繁盛していたのである。それも開店直後から今日に至るまで、一日も客足が途切れた日はないと言ってもいいくらいに。
観葉植物の影からざっと見渡した分には、今日も混雑具合は変わらず、年齢層もまた子連れから老人まで満遍なく散らばっている。あえて言うなら平日の夕方である為、比較的中高年層が目立っているかもしれない。
「おかえり真。手伝いに来てくれたのかい?」
「うん、どうせ今日も忙しいと思って」
声をかけてきた真太郎に、真は頷く。
「やる事があるならそっちを済ませてきていいんだよ、宿題とか予習とか」
「適当に切り上げるから大丈夫」
「真くんはいい子じゃのう。マスターも鼻が高いじゃろう」
声のした方を振り返ると、テーブル席に腰掛けていた老婆三人と目が合う。
全員がお喋りを止め、真たちの方を向いてニコニコしていた。店内での親子の私的なやり取りをどうこう感じる事もなく、むしろ微笑ましい光景として楽しんでいる様子である。その様子はカフェの客というよりも、大衆食堂の常連のようだ。
一人はピンクの花柄ポロシャツにグリーンチェックのロングスカートという、明るめな格好。髪は見事な白髪一色で、ここまで余分なものがないと逆に染めているより締まって見える。
もう一人は季節にも場所にもあまり合わない赤いちゃんちゃんこが印象的で、三人の中では最も背が低い。腰も曲がり気味で、いかにも田舎のお婆ちゃんといった容貌だが、それにしては丸メガネの奥の眼光が鋭い。
最後の一人はふっくらと丸い顔に濃い化粧、大きなイヤリングにネックレスに指輪、室内でも脱がない帽子と、付属物の多さなら一番。外の田園風景を歩いていて誰が一番違和感があるかといえば、この人になる。
なにせほぼ一日も欠かさず来店してくれるので、びりぃぶではすっかり馴染みになった三人だった。一人や二人で来る事はあまりなく、大抵は三人顔を揃えているのだから、余程仲が良いか、家が近いか、あるいは暇なのだろう。
「いらっしゃいませ」
癖はあるものの大切な常連客である事には変わりない。
単なる平凡な中学生から徐々に商売人根性の身に付きつつある真は、三人の席まで行くとぺこりと頭を下げて挨拶をした。
「今日も来てくれてありがとうございます」
「今日もじゃねェ。毎日だべ、毎日」
「お金も時間もあるけどやる事がないからねえ、ついついここに来ちゃうの」
「似たような連中も大勢いるからノ」
三人が声を揃えてけらけらと笑う。よくよく考えるとだいぶ不遜な態度だが、からっとしていて嫌味には感じない。ギンカさんとこは土地持ってるからなあと、別の席からこれまたあっけらかんとした笑い声があがった。呼応するように、更に別の笑い声。
いかにも常連客だけで埋め尽くされた店にありがちな光景だが、これに居心地の悪さを感じる客はどこにも見当たらなかった。
何故ならテーブル席からカウンター席までのほとんどを埋めている、その全員が地元住民だったからである。
観光客がふらっと立ち寄ってくれる小洒落たカフェを夢見てスタートした筈が、びりぃぶはいまや地元客の溜まり場と化していた。
といってもコーヒー一杯で長々と粘るような真似はせず、様々な客層が――本当に様々な客層がひっきりなしに訪れては、きっちり食事や飲み物を――時には必要以上に頼んで帰っていく、と客単価も回転率も極めて良好。
地元民の憩いの場というのもまた目指していた地点には違いないし、閑古鳥が鳴くよりは遥かに良いのだが、両親としては現状は複雑なのではないか。
そう思い真が横目を向けると父は忙しそうにフライパンを振るっており、母は洗い物に奔走されている。どうやら悩むどころではないらしい。
手伝いに行こうとした真だったが、老婆三人はまだ少し話したそうにしていた。
「あのね真くん、このお店が出来てくれて村のみんな本当に嬉しく思ってるのよ」
「んだんだ」
空になったオムライスの皿を前に、先程ギンカと呼ばれていた白髪の老婆がしみじみ嬉しそうに呟き、ちゃんちゃんこの老婆がそれに同意する。
びりぃぶのオムライスはクラシックスタイルだ。ケチャップベースのチキンライスを紡錘形に盛り、薄焼き卵を被せてケチャップをかけてある。一応ふわふわの半熟オムレツを乗せてデミグラスソースで囲ったタイプもメニューに載せてあるのだが、人気なのはこちらの方だった。こうした主菜にサラダとドリンクを付けたセットがびりぃぶの主力だ。
他の二人はエビクリームパスタとホットドッグを平らげている。皆、頼むメニューがなかなか若い。
「なんせここらにゃ儀式と化け物と異界しかなかったからねえ」
「しかで片付けていいもんじゃないです」
「わしらも昔の湿っぽい言い伝えを守るのに疲れ切っててね、この際だから村興しや住民誘致に舵切っちゃどうかって村の寄り合いでまとまって」
「まとまったんだ」
「肝心の祟ったりしてる側はどうかってひとつひとつ回って聞いてみたら、向こうもいい加減疲れてたみたいでもういいよって全員放棄してくれてサ」
「いいんだ」
真たち一家が引っ越した土地、ここ原和渓村。
謳い文句には伝統が息づく風光明媚な村などとあったが、現実は少々、いやだいぶ違っていた。
古くからの因習が多々根付いてきた土地であり、多くの怪現象が発生し、時には異界に飲み込まれる、厄を十乗したような村だったのである。
典型的な排他的で閉ざされた村であった原和渓で長く続いてきた闇の風習だったが、ある時を堺に転換点を迎えた。
村民の間で徐々に「こういうのはもう時代に合ってない」「単純に良くない」「というかこのままだと人が減る一方で廃村まっしぐら」という意見が続出するようになってきたのだ。
異分子として排除しようにも、あまりに声が大きくなりすぎれば無視はできない。
というより、この頃には他ならぬ村の中核となる人物たちまでもが体制を疑問視し始めていた。
そこでいっそ大々的に話し合おうという事で怪現象含めて寄り合いを開いてみたら、実は皆うんざりしていた事が明らかになったのである。
となると次は、やめた後にどうするかであった。
嫌ならやめよう。でもこれをやめたら本当に村は何もなくなるぞ。だったら逆に活用して村興ししてみよう。
そうした具合に話が進んでいくのに、さして時間はかからなかったという。
因習やら儀式やらは、うまく利用すれば風変わりな伝統と風習に成り得る。正真正銘の怪現象も協力側に立ったとなれば尚更迷う必要はない。件の移住キャンペーンはそうやって始まったのだ。試行錯誤の末、とにかく親切に、丁寧に、優しくサポートをモットーに。
つまりは、そんな村の住民が客としてびりぃぶに来ている訳だから――。
「『管理』のプロ、巳ノ刻トヨ!」
「『教育』のプロ、四ツ辻銀香!」
「『進行』のプロ、牙門季佐江!」
「「「我ら洗脳シスターズ!!」」」
見事にハモった。
「生贄の儀式ってのはとにかくモノが従順かどうかってのが大切でね。最中に逃げられたり大暴れでもされたら台無しだから、進んで身を捧げるようにじぃっくり教え込むのよ。あたしらは先代からその技術を徹底的に仕込まれたの」
「なァに、怖がらんでもええ、最近じゃほとんど形骸化してたからのう」
「最近が具体的にいつまでなのかを聞くのが怖いんですけど」
「生贄を村内じゃなく他所から調達してみたり、代替品の人形を使うようになったりした時期もあったネ」
「語るべき思い出じゃない気が」
「って言っても、あたしらのなんてただのノウハウだからね。火祭りで此方と彼方を繋いでウズガモさまをお招きする狂い巫女に比べたら大した事ないわ。あっちは本物の術者だから」
「誰なんですかウズガモ様」
「おや、何回もこの店に来てるじゃないか」
「来てたんだ。いや来てたんだ」
「ああそうそう、原和渓村の火祭りは今後イベントとして大々的に観光資源にしていきたいんじゃ。これにゃ元々は違った意味があってのう。原和渓村ってのは改名後の当て字でね、もともとは腹を分けるって書いてハラワケと読んでおった」
「聞かなかった事にします。おかわりいかがですか」
「コーヒーもらおうかね」
「あたしも」
毎度あり、と心の中で呟いて、空いた皿を回収していく。
と、背後でカランカランとベルの音色がした。また客が来たらしい。
振り返った真は、あ、の形に口を開けた。
長い黒髪の女性が、やや俯き加減に店内に入ってくる。年齢は真よりやや上の、それでも十七から十八歳行くか行かないか程度だが、成人をとうに過ぎているかのような奇妙に大人びた雰囲気もある。白いタートルネックのトップスに薄茶のスラックスという地味な格好だが、服装などでは影響を及ぼせない程にその顔立ちは整っていた。品のある所作がまたその容姿に華を添える。ただ立っているだけだというのに。
こうなると、子供っぽい柄のショルダーバッグと猫背気味なのを惜しいと誰もが思っただろう。伏せがちの瞳をぱっちりと開け、背をしゃんと伸ばし、あとはファッションコーディネーターの手でも借りれば、それこそすれ違う誰もが振り返るような麗人が完成したに違いない。
真の姿に気付いた女性は、太めの眉を動かすと浅く頭を下げた。全体に動作がゆっくりとしている。
「いらっしゃいませ、すずさん」
「……こんばんは」
夜という程ではないが日はじき落ちる、既にそんな挨拶が似合う時刻になっている。
こんばんは、と真も返した。それから店内をざっと見渡す。
「カウンターと、テーブル席なら二人掛けのが空いてますよ」
「……ありがとうございます。カウンターで大丈夫です」
すず、と呼ばれた女性はするすると滑るように歩いて、奥のカウンター席にちょこんと腰を下ろした。
「……カレーをお願いします」
「はい、カレーひとつ!」
嬉しそうに真太郎が応じる。
着席から流れるようにカレーを注文する姿を見ていると、真はすずと初めて会った日の事を思い出す。
すずはある意味で、びりぃぶの客第一号であった。
その人が現れたのは、いよいよ正式な開店を明日に控えた日だった。
オープンに備えて装飾や調理器具などの最終チェックを行っていた店内に、何の躊躇いもなくドアを押してふらっと入ってきたのである。
当然ながら表にOPENの看板は出ていない。綺麗だが、不思議と昼よりも夜を思わせる雰囲気を纏う女性だった。
黙って入ってきた女性に真はもちろん真太郎も少し驚いたようだったが、すぐに笑顔になると両手を合わせて愛想よく言う。
「ごめんなさい! 今日はまだ準備中で、開店は明日からなんですよ。明日ぜひ来てください」
幾らか間があって、そうですか、と女性が答えた。全体的にぼんやりしているというか、いまいち反応が薄い。
それでも言われた事は理解できているようで、やって来た時と同じくふらりと踵を返す。
びっくりしたねと言わんばかりに父を見上げる真の目に、そうだ、と呟く真太郎が映る。
「ああ、ちょっと待ってください!」
何を思ったのか、真太郎が女性を呼び止めたのだ。
今まさに外へ出ようとしていた女性が振り返った。無表情な眼差しに僅かな驚きが滲んでいる。
「よろしければちらっと味見していかれませんか。当店自慢のカレーです」
なんで呼び止めたんだと仰天していた真も、これを聞いて納得した。なるほど宣伝かと。
カレーは開店前日から仕込んでいるし、ご飯は自分たちの昼食用に炊いておいたものがあるからいつでも出せる。
よろしければなどと控え目に勧めてはいるが、自慢のと銘打つだけあって真太郎の笑顔は明らかな自信に満ち溢れていた。まだ食べるとも言っていないのに、真太郎は小皿にご飯を盛ると手早くルーを掛け、スプーンを添えて女性に差し出す。
女性は戸惑いながらも小皿を受け取ると、スプーンを手に取った。どことなく動きのひとつひとつがぎこちない。まるで、初めて目にする料理を食べる人間のように。
見守る二人の前で、女性はおとなしく席に着くとカレーを食べ始めた。なんだか小鳥が餌を食べているみたいだと真は思う。
そんなちまちました食べ方でも、量がさして無いので食べ終えるのは早い。あっさりと小皿は空になった。
今か今かと反応を待つ真太郎に、女性が顔を上げて視線を向ける。
「いかがでしょう? このカレーはとても評判が良くて――」
「……不思議な味」
そう呟くと皿の上にスプーンを乗せて、女性は立ち上がった。
「……お邪魔しました。また来ます」
特に返事を求めるような事もなく、二人に向かって丁寧に頭を下げると、今度こそ女性は店から去っていった。
再び真と真太郎だけになった店内に、カランカラン、と鈴の音が響いて消える。
「……なんだかフワフワした人だったね。でもまた来るって言ってくれたよ、良かったね」
「…………ったのに」
「え?」
「自信作だったのに!!」
両の手を握り締めて叫ぶと、真太郎はがっくりと落ち込む。
「断じて既製品のレトルトなんて使ってない! そりゃあイチから十何種類ものスパイス調合してるような専門店には勝てないだろうけど、あれはあれで好みの分かれる味だし、大衆受けするカレーって意味じゃきっとうちに軍配が上がる! 一般的とマニアックのギリギリのラインでやや一般寄りを保つように高級ミックススパイス使ってるんだぞ! 具だってスカスカじゃない! 炊飯器もいいやつを揃えた! なあ真だってそう思うだろ!?」
「ま、まあおいしいとは思うけど、カレーでそんな力説する?」
「そりゃあするとも! この味に辿り着くまで何度も何度も試行錯誤を重ねたんだ! なのに不思議って……不思議な味って……」
相当にショックだったらしく、不思議な味、と真太郎は繰り返し呟く。
確かにカレーを食べて不思議な味というのは、なかなか聞かない感想である。そして実際、何度も味見させられている真からしても、父の作るカレーがそこまで風変わりな味だとは思わなかった。
どこででも出てくるようなありふれたカレーと比べればスパイスの香りが立っているが、良い意味で一般的なカレーライスの域は出ていない、万人受けする味。さらりとしておらず、やや粘りを帯びたルーも家庭的だ。具は煮込みに煮込んでほろりと崩れる牛肉に、一口大のジャガイモ、ニンジン、タマネギがゴロゴロと入っていて、ピリッとくる辛さの奥に野菜から滲み出た甘みがある。喫茶店のカレーに欠かせない福神漬けとラッキョウも、自家製とはいかないまでも全国各地から取り寄せた中から、このカレーに添えて納得のいくものを選んだ。
総評するなら、高級感は漂うが親しみやすいカレーライス。身内贔屓ではなく、大多数の人間が真と似通った評価をするだろう。どう間違っても不思議と言われるような味はしていない。
ダンボール箱を抱えて入ってきた九美が、ただならぬ様子の真太郎を見て目を丸くした。
「どうしたの? 何事これ?」
「聞いてよ九美さん! さっき間違えて入ってきたお客さんがいたんだけどさ! 折角だからって思ってカレーを試食してもらったんだ! 僕のカレー! そしたら何て言ったと思う? 不思議な味だよ不思議な味! カレー食べて不思議な味って感想普通出てくる?」
「あらあら、それは斬新な感想ね……」
「僕の味付けが間違ってるのかな? そんな事ないよね!? だってカレーだよカレー!? 普通よりもおいしいカレー! はああ……うちはカレーだけじゃなくミートソースだって手間暇かけてるのに、もしそっちまで不思議な味なんて言われたら――」
とうとう話がミートソースにまで飛び火しかかったので、大丈夫おいしいからと真は精一杯父を励ます。
とはいえこの手のメニューが最も口に合いそうな客層の反応があれというのは、早くも店の先行きが不安になってくる一幕であった。
「後になって牙門さんたちから、すずさんは村にある泉に昔沈められた20人の娘の亡霊の集合体だよって教えてもらったんだっけ……」
その事実を知らされたのはさして前ではないにも関わらず、真は遠い目になる。
幽霊じみた存在はせめて真夜中に出てきてほしいものだが、初訪問時は日中から堂々と訪ねてきたのだから今更だった。しかもドアを自力で開けて。
20人分も集まれば、幽霊だろうと亡霊だろうと現実に干渉できるくらいの力は付くのかもしれない。現に今もぱくぱくとカレーを食べている。果たして幽霊に胃袋は存在するのかのタイトルで論文が書けそうだ。
ともあれこの事実を前に「田舎の村に越してきた少年が年上の綺麗なお姉さんと出会う」という、何やら甘酸っぱいロマンスのひとつも始まりそうなシチュエーションは儚くも砕け散ったのである。
なお霊となるのにも特殊な素質が要るらしく、実際に捧げられた人数は20人よりずっと多い事をこれまた後に真は知った。どうもこの村に来てからというもの、日常生活に要らない知識ばかりが増えていく。
「ははは、あの時はいろいろ参ったねえ。次の日食べに来てくれた時も『やっぱり変わった味……美味しい……のでしょうか?』だったから、危うく本格的にカレーへの自信を喪失するところだったよ。でも食べた事なかったんじゃ仕方ないな! うん!」
真太郎が腕組みをして頷いてみせる。
すずがこの世ならざる者であるかどうかより、自分のカレーへの評価の方が重要らしい。
問題視すべきはそこじゃないだろうという目を向ける真に、いやそこなんだ、と言わんばかりの力強い眼差しを真太郎が返す。
「真、父さんは真実を知ってずっとモヤモヤしてたカレーへの自信を取り戻せたんだぞ」
「そんな切っ掛けで取り戻さないでほしい……っと、またお客さんだ」
夕飯を食べに来る客もいるから、ここからまた忙しくなっていく。何より夜は魔性が跋扈する時間だ、その手の客も更に増える。
やや警戒しつつ入口に目をやった真は、そこにいたのが誰であるのかを確認すると力を抜いた。
いや、ある意味で別の緊張感は湧いてきたのだが。
「こんばんはー」
「……どうも、いらっしゃいませ」
来店したのは、真が新たに通い始めた中学校の同級生だったのである。
ポニーテールの方は朝日奈ひまり。なかなか見ないほど大きな赤いリボンが印象的だ。勝ち気な性格をしており学校では威勢がいいのに、大人の前では意外と弁えていて礼儀正しい。外面がいいとも言えるし、使い分けがしっかりしているとも言える。明るい茶色に染めた髪が、この田舎の村では印象的だった。
もう一人は泉澄更紗。ボーイッシュなショートヘアに似合わず、言動はひまりと対照的に温厚で控え目。例えるならば旧家のお嬢様といった雰囲気の女の子だった。年齢は真よりひとつ年下になる。ただ、学校ですら常に敬語なのに真の事をまこっちと呼んでくる謎だけは解明できていない。
二人とも実家はそれぞれ村内にあるのだが、例によってびりぃぶにすっかり入り浸っている。
曰く、こういう場所はバスに乗ってわざわざ町まで出ていかないと無かったから嬉しい、助かる、捗る、だそうだ。
それもそうだろう。学校に通うだけなら村の中で完結している。ふらりと寄り道をしようにも、村には概ね田畑と山林しかない。
原和渓村の中学校までは、真の家から徒歩で20分ほど。
非常に規模が小さく、しかも小学校と合同である。クラスメイトは三人しかおらず、ひまりと更紗はその中の貴重な二人だった。
普通なら廃校になっていてもおかしくないところを、そこは地元の子供たち及び今後増えていく移住者の子供たちの為という名目で、村民からの寄付や補助金などでどうにか維持をしているらしい。
こう聞くと先行き不安になってくるが、率先して寄付をしているのが土地や事業に太い洗脳シスターズ三人だと考えると、そうそう潰れる訳がないなという気にもなってくる。
ようやく洗い物を終えた九美が、ひょいと顔を出してひまりと更紗に笑顔を向けた。
「あら、朝日奈さんと泉澄さん。いらっしゃいませ。真と一緒に帰ってきたの?」
「能咲君とは別々でーす。いっそ一緒に帰れば良かったかな?」
「おやおや青春だねぇ」
「からかわないでくださいトヨさん……えーと席は……」
「こっち、もう、空くよ」
相変わらずなトヨをあしらいつつ席を探すと、テーブル席にいた地元客がそう声をかけて席を立った。
会計を済ませて去っていく地元民――らしき何かの背中を、真はじいっと視線で追う。
たった今声をかけられるまで、店に入ってきた時からずっと輪郭がぶれているのも、一人で四人がけのテーブル席を占拠していたのを一切不自然に思わなかった事にも、真は気付かなかった振りをした。もしかしてウズガモ様ですかと聞いてみる勇気は起きない。
綺麗に平らげられた皿はカレー、カレー、カレー。今日もカレーが良く出る。真太郎にしてみれば願ったり叶ったりだろう。もっともこの場合は一人だか一体だかで三人前を平らげた訳で、少々事情が違ってくるが。
ちょっと待ってくださいねと言って、九美が手早くテーブルを片付けていく。
運ぶのお手伝いしますと更紗が身を乗り出しかけた時は、さすがに真が制止した。客にやらせる事ではない。というか、それをやらせたらますます常連の集う飲み屋化する。
「いつも来てくれてありがとう。学校はどうだった?」
「特に変わらず、です。二時限目は自習になってしまいましたけれど」
「そうなの。真ったら恥ずかしがって学校での事はあんまり喋ってくれなくって」
「そういう時期ですから仕方ないのです」
「なに大人ぶってんだ、同級生のくせに」
二人が空いたテーブル席に座る。
ややぶすくれた顔で、真が注文を取った。
「ご注文は?」
「アイスティー、ふたつ!」
「アイスティーね。ていうかまっすぐ家に帰らなくて大丈夫なの? もう夕飯時だろ?」
「帰ってもねー。特に修行したり身を清めたりがある訳じゃないし」
「むしろここで食べてこいと言われているくらいです。うちの家族もびりぃぶのファンですので」
「そう……時間があるのは、幸せ……」
「あっ、すずさんも来てたんだ。やっほー」
手を振るひまりに、すずがカレースプーンを咥えたままこくりと頷いてみせる。
帰っても勉強したくないやテレビ見るくらいだから暇だというのならまだ分かるが、修行や身を清めるという言葉が飛び出してくるところが、いかにもこの二人らしい。
お役御免となったからこうして平和に暮らしているだけで、本来ならどちらも生贄として捧げられる側の家系だったからである。
「時代が時代なら私たちも沈められてたんだよねー」
「その場合すずさんと一体化していたのでしょうか。ほとんど姉妹なのです」
「そう、私ら生贄シスターズ!」
嫌すぎる姉妹な上に嫌な被り方をしてくる。
ちなみにシスターズなどと名乗っているが、ひまりと更紗とでは違う系統の生贄らしい。どちらが沈められる側であるのかは――とりあえず姓を見れば何となく判別がつく。どうして生贄だけで手法が何系統も維持されているのだろうか、この村は。
「こうやって元気な姿見てるとな、ほんと、やめて良かったのう」
「本番前からひと月もかけて支度しなくて済むしねぇ。あれ、服は動きづらいし暑いし化粧はベッタベタして落とすのに苦労するしで大変なのよ」
「生贄ってこんなにオープンに話していい話題なんですかね」
「むしろじゃんじゃんオープンにしていかないと、どうアレンジしていいか思い付かないでしょ? 存在まで消しちゃうと村のアピールポイントがなくなるから、昔はこういう祭事がありましたよっていうのは残しつつ、現代風の村興しになるような形に持ってくのが理想よね。元祖生贄クッキーなんては、どうだい若い子から見て」
「たぶん元祖でもないし商品コンセプトにしていい題材でもないです。というか犠牲者がすぐそこに座ってるんですが」
「わたしは気にしてない……だから売ってくれて大丈夫……」
「ほら、すずちゃんもこう言ってるし」
「だから売る側の意識じゃなくって、買う側が引くんですってば生贄関連商品は」
「縦に伸ばした甘い餅を笹の葉で包んで売るのはどうかのう? 食べる時ぁ笹の葉を捲って中身を出すんじゃが、これぁ火祭りの儀式で行われていた――」
「あー、そういうのも村の伝統を疑似体験できる面白いお菓子かもしれませんけど、最初は無難に村の名所から名前を取ったらどうでしょう? 幸いここは美しい景色がたくさんありますからね」
助け舟のつもりか、ここで真太郎が話に割り込んできた。
要はなんちゃら湖クッキーだのなになに峠まんじゅうだの、そういうのを出してはどうかと言っているのだ。景観から名前を取った菓子などそれこそありきたり過ぎるが、少なくとも生贄クッキーよりは世間の顰蹙を買わないだろう。
真がそう思っていると、名前ったって御柱泉や焼け野峠じゃがなあと銀香が呟く。駄目かもしれない。
「今度そういうのについて村の寄り合いがあるんだぁ。あんたも何か考えてくれるかい?」
「もちろんです。実は僕ら夫婦で考えたご当地メニューのアイディアが幾つかあって……」
「ねえ、ここに来た時から思ってたんだけど」
大人たちの会話風景を眺めながら、真はアイスティーをテーブルに置いていく。
「うちの両親って適応力おかしいよね」
「いい事じゃん。仲良くやってこ、仲良く」
「こうして隠匿していた情報を公開していこうという地域は、今後も全国で増えていくと思うのです。そうなった時に、原和渓村はよそより一歩先にこれを行った先駆者という称号を得られます。そうなればまた知名度が上がりますし、移住者獲得にだってアドバンテージが取れるのです」
「そっちはそっちで冷静に未来を計算すんな! 俺か!? 俺がおかしいのか!?」
「みんな地元が良くなるように前向きなんだよ」
アイスティーを啜りながら、宥めるようにひまりが言ってくる。
まるで自分だけが駄々を捏ねているようで真は腹立たしくなってきた。自分はまともなのだ。
……まともであってほしい。
「なんだか疲れた……二人もあんまり遅くならないうちに帰りなよ」
「へーきへーき、まだ8月の無貌の海じゃないから、夜9時までは出歩いても飲まれたりしないよ」
「そういう心配をしてるんじゃなくてな!!」
「あはは、あれだけはやばいからね。大人たちが言うには、純粋な現象だから話し合いもできてないらしいし。といっても村の雰囲気に感化?されつつあるみたいで? もし飲み込まれても簡単に帰ってこられるようになってるみたいだけど」
「まこっちも気を付けてくださいね。夜9時過ぎに山から低いラッパの音が聞こえてきたら要注意、ですよ」
「だから要注意で済ませていい話じゃないんだってー!!」
ここが店内である事も忘れて叫びながら、真はふと思う。
向こう数年かけても到底全容を把握しきれる気がしない、この村で受け継がれてきた数々の儀式や祭事。実在する術や呪いや怪異。そして幾ら昔からの夢だったとはいえ、確かにサポートは手厚すぎるくらい手厚かったとはいえ、異常に移住へ前向きだった両親。とどめになんか自ら洗脳シスターズを名乗っている老婆三人衆。
これはひょっとしたら、ひょっとしたらであるが――。
そこまで考えて、真はいろいろ怖くなって思考を打ち切った。
まあ、今後も平穏無事に店と生活が続いて、観光客や移住者も増えて、村がどんどん活気付いていってくれれば問題ないのだ……多分。




