カップ焼きそばのうらみ
夜の街を歩いていると、いつの間にかあのコンビニの前にたどり着いてしまう。
扉を開けた途端に感じる冷気と、一斉に視界に飛び込んでくる明るい蛍光灯。
棚の奥で目立たぬように積まれているカップ焼きそばが、今の俺には必要以上に存在感を放って見える。
「また、ここに来ちまったな…」
小さくつぶやいて店内をぐるりと見回し、やがていつものように買わずに通り過ぎる。
けれど、扉を出たあともしばらくカップ焼きそばのパッケージが脳裏にちらつく。
まるで俺を責めるように、そこに佇んでいる気がしてならない。
彼女――彩香に出会ったのは、大学二年のときだった。
同じ学科の研究発表会で、たまたま隣の席になったことがきっかけだ。
彼女は落ち着いた口調で、休憩時間も黙々と資料に目を通していた。
「すごく熱心だな…」
ただの感想のつもりで言った言葉に、彩香は少しはにかむように笑ってみせた。
「人前で話すのが苦手だから、準備だけはしっかりやっておきたくて」
そう言う目は、どこか不安そうな光を宿しながらも、強い意志を滲ませていた。
それからすぐ、学科の懇親会があった。
彩香と少しだけ話したいと思っても、大人数の輪に入るのは苦手で、結局離れた場所に立っていた。
ところが、彼女は隣に来て「さっきはありがとう」と、先ほどの研究発表へのコメントを礼として述べる。
それから自然と会話が進み、お互いが苦手とするものが意外にも似通っていることを知って笑い合った。
帰り道が同じ方向だったため、そのまま二人で駅まで歩き、連絡先を交換する。
「ゆっくり話せるの、なんだか落ち着くね」
そのとき彼女が見せた穏やかな笑顔は、静かな街灯の下でもはっきりと目に焼きついた。
それから大学生活の合間を縫っては、ちょっとした雑談や課題の相談をするうちに、一緒にいる時間が増えていった。
だが、最初のうちはまだ友達以上恋人未満という曖昧な距離感だった。
決定的に距離が縮まったのは、三年生の夏休み。
二人で映画を観に行った帰りに寄ったコンビニで、彩香がカップ焼きそばの棚にまっすぐ近づいていった。
「なぜそれ?」
俺がちょっと笑いながら尋ねると、彼女はきまり悪そうに視線を落として答えた。
「私、昔からこれ好きなんだよね。何か落ち着くの」
それを聞いて、俺はその場で同じものを一つ手に取った。
「じゃあ俺も買ってみる」
些細なきっかけだったが、同じものを共有するというのがやけに嬉しかった。
こうして、彩香の部屋で一緒にカップ焼きそばを食べるのが、二人の小さな習慣になった。
お湯を注いでから数分待つ時間すら、会話が弾んであっという間に過ぎる。
フタを開ければ、湯気とともに香ばしいソースの匂いが漂い、同時に気持ちまで温まっていく気がした。
「インスタントだけど、なんだかホッとするんだよね」
彩香は満足げに麺をほぐしながらそう言う。
本格的なレストランにも行ったが、結局二人がいちばん落ち着くのは、あのジャンクだけれど味わい深いカップ焼きそばだった。
大学を卒業してからは、俺も彩香も別々の会社に就職した。
慌ただしい日々に追われる中で、二人の時間を確保するのは難しくなっていく。
それでも週末はできるだけ一緒に過ごし、夜には「疲れたね」と言いながらも並んで麺をすすった。
実家を出て小さなアパートで同棲を始めたころから、彩香はストレスを感じるとカップ焼きそばを買ってきて、二人で食べるのを何よりの息抜きにしていた。
「これでまた来週も頑張れそう」
そう呟く彼女の表情は、まるで子供のように素直で愛おしかった。
ある日、彩香は仕事帰りにスーパーやコンビニを何軒もはしごして、ずっと探していたという商品を手に帰ってきた。
期間限定の新作カップ焼きそばで、その名も「バジル香る贅沢トマトソース仕立て」。
さらに中身を見れば、濃厚なトマトソースにチーズパウダーとベーコンビッツが加わって、洋風パスタのような味わいを目指しているらしい。
パッケージは赤と緑のコントラストが鮮やかで、通常のものより少し値段も高め。
「やっと見つけたんだよ。すごい人気で、どこも売り切れだったんだから」
彩香が袋から取り出す様子は、本当に誇らしげで、目を輝かせていた。
「明日のお休み、二人でゆっくり食べよう。先に一人で食べるのは嫌だから、今日は封を開けずに取っておくね」
そう言った彩香の声には、期待感が滲んでいた。
俺も仕事で疲れていたが、その笑顔を見ていると自然と心が和む。
「わかった。じゃあ明日、絶対早起きして一緒に食べよう」
なんとなく「一緒に旅行へ行こう」みたいな約束をするかのように、胸の奥がわくわくしてきた。
ところが、その夜遅くに急なトラブルで会社から連絡が入り、俺は翌日出勤を余儀なくされた。
「ごめん、せっかく休みを合わせてたのに」
うなだれた俺に、彩香は「仕方ないよ。お仕事なんだから」と言ってくれた。
ただ、その声にはほんの少しだけ落胆の色が混ざっていたのを感じた。
それでもあからさまには言わないあたり、彼女なりに気を使ってくれているのだろう。
翌朝、俺は彩香がまだ眠っているうちに家を出ていった。
仕事を終えたのは深夜近くで、ヘトヘトになって帰宅すると、彩香はすでにベッドの中。
テーブルには「残業お疲れさま。明日はちゃんと休めるといいね」というメモが置いてある。
横には、フタも開けられていない「バジル香る贅沢トマトソース仕立て」のカップ焼きそばが鎮座していた。
「まだ食べてないんだな…」
彼女が待っていてくれることが嬉しくて、心が温かくなる。
しかし、そのときの俺は疲れすぎていて、まともな食事をする気力も湧かずにソファに倒れ込んでしまった。
深夜のせいか、ふと目が覚めたときには腹の虫が鳴り響いていた。
時計を見ると午前二時を過ぎている。
冷蔵庫を開けてもめぼしいものはなく、何か手軽に食べるものを探そうとキッチンを見渡すと、例の期間限定カップ焼きそばが目に入った。
「ここにあったのか…」
頭がぼんやりしていたせいか、それが彩香の大切な楽しみだという意識が薄れ、「これしかないなら仕方ないや」と手を伸ばしてしまう。
軽い気持ちでお湯を沸かし、何の躊躇もなくフタを開ける。
ソースをあけるとふわりとバジルの香りが立ち昇り、トマトの濃厚な匂いが食欲をそそる。
砕いたベーコンビッツととろけるようなチーズパウダーも混ざって、確かにいつものカップ焼きそばとは一線を画す味わいだ。
「おお、これいいかも…」
口に運んだ瞬間、普通に美味いと思った。
けれど、その美味しさを確かめる前に、ほんの一瞬だけ「これ、彩香が楽しみにしてたんだよな」という声が頭をかすめる。
しかし、満たされる空腹のほうが勝って、麺をどんどんすする。
あっという間に食べ終わり、空っぽの容器をゴミ箱に捨て、そのまままたソファに沈んで眠りについた。
翌朝、キッチンに立った彩香の「え…」という声で俺は目を覚ます。
寝ぼけた頭でリビングに行くと、彼女がゴミ箱から取り出した空のパッケージを手に持っていた。
「これ、食べちゃったの?…私、楽しみにしてたんだよ」
声は怒気というより、深い悲しみを帯びている。
「ごめん…深夜に帰ってきて、腹減ってて。気づいたらこれしかなくてさ…」
自分でも言い訳めいているのはわかっていたが、どう言えばいいのかもわからなかった。
彩香はわずかに眉を寄せ、その目には失望の影が浮かんでいる。
「ずっと探して、やっと見つけたって言ったよね。一緒に食べようって約束したのに」
彼女の言葉は冷静なトーンだったが、胸に突き刺さる。
顔を上げられずに黙り込む俺に、彼女もそれ以上は何も言わなかった。
ただ、食卓の上からは他のカップ焼きそばも含めて、すべて姿を消していった。
それから、二人の間には微妙な距離が生まれ始める。
忙しさを理由に会話も減り、どちらかが家を出る時間にはもう一方は寝ている、そんなズレが増えていく。
インスタント食品は相変わらず買うが、彩香は自分の分だけ食べてしまうようになったし、俺もあえて彼女が買ってきたものには触れないようになった。
ささやかな出来事かもしれない。
だけど、あの大切にしていた期間限定カップ焼きそばを奪われた彩香の心には、小さなうらみが確かに積もっていったんだと思う。
ある夜、仕事でトラブル続きの俺が深夜に帰ると、暗い部屋に彩香の姿がなかった。
テーブルの上には書き置きがある。
「ごめん。もう一緒にいられない。私の大切にしているものを、あなたは簡単に踏みにじる。…疲れたよ」
まるで声にならない嗚咽がのどの奥に突き刺さって、息が苦しくなる。
いつか謝ろうと思っていたのに、それを先延ばしにしていた自分が悔しかった。
あれ以来、彩香は二度とこの部屋に戻ってこなかった。
そうして数か月が過ぎた今、俺は夜の街をさまよい、いつものコンビニに立ち寄ってはカップ焼きそばの棚を眺めている。
目に入るのは変わらないパッケージの並びだが、心の奥ではあの期間限定カップ焼きそばを思い出して、どうしようもない喪失感に囚われる。
思えば、あれはただのインスタント麺じゃなかった。
彼女が繰り返し口にしていた「一緒に食べよう」という気持ちが詰まった、小さな夢の器だったのだ。
それを思い出したとき、胸がきしむように痛む。
「もし、あのとき…」
後悔を噛みしめてみても、彩香の姿はもうどこにもない。
わずかに残るのは、食べてしまった期間限定品の味の記憶と、彼女の瞳に宿っていたかすかなうらみ。
たかがカップ焼きそばかもしれない。
しかし、あのとき確かに、彩香はそこに大切な気持ちを注いでいた。
コンビニを出たあと、冷えた夜風の中を歩きながら、再び「ごめん」と口をつく。
誰に届くはずもない謝罪を呟いては、もう戻らない時間をかみしめている。
あのバジルの香りすらもう思い出せないほど、俺の胸には空虚だけが広がっていた。
そして、この先もカップ焼きそばを見かけるたびに、俺はきっと彼女への小さなうらみを思い出してしまうのだろう。
自分の過ちを悔やむように、長い夜の闇の中へと歩みを進めていくしかないまま。