蒼き海の兄妹
今回は、水の貴婦人についての短編です☆
少しでも楽しんで戴けたら幸いです☆
海外を旅する外交官で在る水の貴婦人は某国での勤めを終えると、頭から外套を被り、
手には錫杖を持った旅人姿で次の旅路に出た。
いや、出たかに見えたのだが、何故か彼女は関門へは向かわずに、海沿いの町へと歩いて行く。
そして小さな繁華街で何やら色々と買い物を済ませると、大きな手提げ袋を下げ、
町外れの岬へと向かった。
吹きっ晒しの冬の岬は雪こそ積もってはいなかったが、ビュービューと北風が吹き、
吐く息が凍り付きそうな程に寒い。
だが水の貴婦人の身体は震える事もなく海へ反り立つ岬の先へと歩いて行く。
そして岬の先のぎりぎりまで来ると、数十メートルの崖下の海を見下ろす。
冬の海は藍色に激しくうねっては崖に其の身を打ち付け、大きく飛沫を上げている。
其の海に臆する事もなく水の貴婦人が一歩前へ足を踏み出そうとした時だった。
後ろから焦燥の声が上がった。
「お、おい!! 何する気だ?!」
水の貴婦人が振り向くと、町人らしき男が困惑した表情で立っていた。
男は直ぐに走って来ると、手提げを持つ彼女の腕を掴んだ。
「馬鹿な事をするんじゃない!! と、とにかく、こっちへ来るんだ!!」
どうやら男は水の貴婦人が入水自殺でもしようとしているのかと思った様だ。
水の貴婦人は湖の様に蒼い目を細めると、微笑した。
「貴方、優しいのね」
「話は聞くから、とにかく、こっちへ来るんだ!!」
男は水の貴婦人を崖淵から離れさせ様と引っ張ったが、
水の貴婦人は赤い唇を三日月の様に吊り上げると、
トン!! と錫杖の輪で以て男の額を軽く小突いた。
そして赤い唇で呟く。
「貴方は何も見なかった。貴方は冬の海を眺めていただけ・・・・」
「・・・・・」
途端に男がぼんやりとした顔になると、水の貴婦人は自分の腕を掴む男の手を払った。
男の手は力無くだらりとなると、まるで人形の様にぼんやりと立つ。
「じゃあね。さようなら」
水の貴婦人は可笑しそうにそう言うと、崖から海へと身を投げた。
彼女の身体は勢い良く荒れた海へと落ちて行き、大きな水飛沫と共に海に飲み込まれる。
すると男は、はっと意識を取り戻し、首を傾げる。
「あれ?? 俺、何でこんな処に・・・・??」
確か海を眺めに来て・・・・しかし、それから先が思い出せない。
「うう、寒いっ」
男は首を竦めて腕を抱くと、町へと戻って行った。
海に入った水の貴婦人は溺れる事もなく海中を移動していた。
彼女の身体は楕円の水泡に包まれ、服さえ濡れる事なく、
スーッと海中の底へと斜めに降りて行く。
やがて海底に足が着くと彼女を包む水泡が消え、
今度は海がトンネル状に真二つに割れて細長い途を作る。
其の海の壁に挟まれた途を、水の貴婦人は臆する事もなく歩いて行く。
時折り海壁から海壁へ魚が渡って行ったが、
水の貴婦人は全く動じる事もなく目さえ動かさない。
やがて其の途を抜けると、大きく広がる空間に出た。
其処は海底の地面と水壁に囲まれた簡素な空間だった。
だが水のクッションの上に人が寝ている。
其の人物の傍へ行くと、水の貴婦人は声を掛けた。
「只今。兄さん」
クッションに横になっているのは、長い長い蒼い髪の青年だ。
青年の蒼い睫がぴくりと動くと、ゆっくりと押し上がる。
そして水の貴婦人の存在を確認すると、欠伸をし乍ら上体を起こして笑った。
「御帰り」
「遅くなって、ごめんなさいね」
水の貴婦人は兄の蒼い髪を一房手に取ると、口付ける。
海底に棲む蒼い髪の此の青年は、水の貴婦人の兄だ。
兄は、ゆったりとした東国の衣を纏い、海底に着く程の長い蒼い髪に、
おっとりとした性格がよく表れた穏やかな表情の水系の異種だった。
いや、正確には水系の主神であった。
主神とは其の系統の中で、最も精霊たちから愛されている異種の事を言う。
兄は水のクッションに座ると、柔らかな笑顔で言った。
「大丈夫だよ。御前が毎日の様に送ってくれる水鏡が、とても楽しいから」
「そう。色々御土産を持って来たわ」
水の貴婦人は兄の隣に座ると、手提げ袋の中身を取り出し始める。
「赤ワインにシャンパン、胡桃にチョコレート、キャンディー、果物、
兄さんの好きなクコの実も在るわ。それから、ハーブティーに異種の本」
まるで魔法の袋の様に次から次と物が出て来て、兄は嬉しそうに笑った。
「いつも有り難う。レン」
「一緒に食べ乍ら上映会をしましょう。用意して来るわ」
水の貴婦人は一旦立ち上がると、簡素な空間から出て行く。
そして間も無くして、ゆったりとした絹の白い衣に着替えて戻って来た。
どうやら身を清めて来た様である。
すると水クッションに座る兄の前にピシャリと水柱が上がり、テーブルに変化する。
其の上に水のグラスが二つ現れ、水の貴婦人はワインボトルを置くと、
指先で弾いてコルクを抜き、シャンパンを注いだ。
水の器と皿とスプーンが現れると、チーズとキャビアクラッカーを盛り、
兄の好きなクコの実の入った小袋もテーブルに置く。
「はい」
グラスを差し出されて兄が受け取ると、水の貴婦人も自分のグラスを手に取って兄の隣に座った。
隣の妹に笑顔を浮かべると、兄は言う。
「無事にレンが戻って来てくれて良かった。其れに乾杯しよう」
兄が笑ってグラスを掲げると、水の貴婦人も笑ってグラスを掲げ、チン!! と軽くぶつけ合った。
互いにシャンパンを口に含むと、目の前に大きな水の鏡の様なものが現れる。
すると其処に風景が映し出される。
「数年ぶりに翡翠の貴公子に逢って来たわ。
そうしたら同族の男が一緒に暮らしていてね・・・・ふふ・・・・面白かった」
「翡翠の貴公子・・・・彼は、やはり綺麗だね」
水鏡に翡翠の館の中の翡翠の貴公子の姿が映ると、兄は愛しそうに、じっと眺める。
水の貴婦人はシャンパンを飲み乍ら、くすりと笑う。
「彼は相変わらず綺麗な男よ。本当に何も変わらない。でも・・・・」
思い出す様に付け加えた。
「少し変わってしまったかも。居候の同族のせいで・・・・」
「へぇ、どんな風に??」
興味津々で問うてくる蒼い眼差しに、水の貴婦人は可笑しそうに答えた。
「好きなものが増えた・・・・と云う感じね。居候の男と仲良くしているの。
ほら、此れ・・・・此れが其の金の貴公子」
水鏡に不機嫌そうな金の同族の姿が映る。
「彼、此れでも長寿な異種なのよ。八百三十歳」
「へぇ・・・・私と、そんなに変わらないのだね」
水鏡に初めて見る金の同族が、翡翠の貴公子と仲睦まじく会話をしている。
其の姿に兄は暫く見惚れていたが・・・・溜め息と共に呟いた。
「私も、いつか・・・・翡翠の貴公子に逢いたいな」
微笑しつつも何処か寂しげな兄の言葉に、水の貴婦人は兄に寄り掛かる。
「そうね・・・・いつか逢えるわ。其の方法を見付けてくるから・・・・」
もう少し待ってね、と囁き乍ら、兄の口許にクコの実を運ぶ。
「・・・・うん・・・・」
其れを口に含むと、兄は穏やかに笑った。
「美味しいね・・・・」
「ええ。美味しいわ」
自分も食べ乍ら水の貴婦人も頷く。
「ほら。此の子も新しく加わった同族なのよ。蘭の貴婦人と云うの」
「へぇ。元気そうな子だね」
「ええ。馬鹿が付くくらい元気で素直な子よ。此の子も翡翠の貴公子が好きみたい」
「そうなんだ」
「ライバルが増えてしまったわね」
「ははは!! そうだね」
二人の水の兄妹は酒を飲みつつ食事をし乍ら、水鏡に映る外の世界を見て愉しんだ。
其処は時折り魚が通り過ぎるだけの、二人だけの小さな世界だった。
海の深い深い底の、誰も知らない静かな世界・・・・其処が二人の水の兄妹の小さな我が家だった。
この御話は、これで終了です。
短い御話ですが、水の貴婦人について、
少しでも想像して貰えたなら、幸いです。
少しでも楽しんで戴けましたら、コメント下さると励みになります☆