泉 鏡花「貴婦人」現代語勝手訳
泉鏡花の「貴婦人」を現代語(勝手)訳してみました。
本来は原文で読むべきですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方は、ご一読いただければ幸いです。
鏡花の作品については、これまでも白水銀雪氏が、数多く手がけられ、丁寧で分かりやすい現代語訳を提供されておられますが、私も鏡花の興味深い作品を自分なりの現代語で置き換えてみようと試みました。
「勝手訳」とありますように、必ずしも原文の逐語訳とはなっておらず、自分の訳しやすいように言葉を削ったり、付け加えたりして、ずいぶん勝手な解釈で訳している部分もありますので、その点ご了承ください。
浅学非才、まるきりの素人の私が、言葉の錬金術師と言われる鏡花の文章を、どこまで理解し、現代の言葉で表現できるか、非常に心許ないのですが、誤りがあれば、皆様のご指摘、ご教示を参考にしながら、訂正しつつ、少しでも正しい訳となるようにしていければと考えています。
(大きな誤訳、誤解釈があれば、ご指摘いただければ幸甚です)
この勝手訳を行うにあたり、岩波書店の「鏡花全集 巻十四」を底本としました。
泉鏡花「貴婦人」
一
番茶を焙じているらしい。真夜中とも思える頃、いい香気が芬としたので、うとうとしかかっていた澤は、はっきりと目が覚めた。
随分長い旅だったけれども、時計というものを持っていないので、今が何時頃なのか分からない。もっとも、ここは村里を遠く離れた峠の宿なので、鐘の声など聞こえようもない。こつこつと石を載せた板葺屋根も、松の高い裏の峰も、そして今は渓河の流れの音も寂として、何も聞こえず、時々、颯と音を立てて、枕に響くのは山颪である。
もの寂しいこの秋の風は、宵は一際鋭く、藍縞の袷を着て、黒の兵児帯を締めただけの、羽織も無い、澤の若いが、痩せぎすの身体を背後から絞って、長くもない額髪を冷たく払った。……そして、その風の余波は、カラカラと乾びた木の葉を捲きながら、旅籠屋の上がり框へ吹き込み、大きな爐に漂っていた黒雲が舞い下がったような、松を焼く一簇の濃い煙を、ふっと吹き飛ばした。煙は敷かれている筵の上を舐めるようにして階段の下へ潜り込み、その向こうの真っ暗な納戸へと追いやられた。と、爐縁に居た二人ばかりの人の顔が、はじめて真っ赤に現われ、それと共に、自在に掛かった大鍋の底へ、ひらひらと炎が搦んで、真っ白な湯気がむくむくと立つのが見えた。
その湯気が頼もしく思えるほど、山中の空気は寒く、澤の膚を透したのだった。昼下がりに麓から登った時は、逆に汗ばんだくらいだったのに……。
表に面した二階の、狭い三畳ほどの座敷に通された時には、案内した者の顔が、漸くぼんやり見える程度で、目も口も見え辛く、もうすっかり暗くなっていた。
しばらくして、色の黒い小女が、まるで漆の剥げたような粗末な扮装で、片手に、金盥に柄を附けたのだろうと思われる大きな十能(*1)に焚殻を山盛りに乗せ、もう片手には煤けた行燈を灯したのを提げて、みしみしと階段を上がって来た。それは底の知れない天井の下を、何かが穴倉から迫り上がって来るようだった。階段を上がるその都度、十能の火は、ぱっぱっと呼吸を吐くみたいに、真っ赤な脈を打った。……冷ややかな風が舞い込むのである。
小女が座敷へ入って来て、焚殻を真鍮の火鉢へ惜し気なく打ちまけると、横に肘掛け窓めいた低い障子が二枚あって、その紙の破れから真っ直ぐに入り込む風が、焚殻の火をまたぱっと鮮麗な朱鷺色に染めた。ああ、秋が深いと、火の色が霜に染まる趣がある。
行燈の灯は薄紅葉くらいの明るさである。
小女はそれより黒い。
澤はそのままにじり寄って、手を翳して俯向いた。一人旅の姿は悄然して見える。
近いけれども行燈の灯は届かない座敷の入り口で、がさがさ、がさがさと、板廊下の隅に、芭蕉の葉を引き摺るような音がした。と思うと、蝙蝠が覗くような格好で人の肩がのそりと出て、
「いかがでございましょう?」
と、ぼんやりとした声。
「え?」と、澤は振り向いて、少し怯えたように聞き返す。
「按摩でな」
随分横柄な口の利きようである。……中に居る者が若者か年配か、勘でよく分かるものとみえる。ものを言う顔が、反り返るほど仰向いて、澤の目には咽喉しか見えない。
「お療治はいかがで」
「いや、まあ、結構です」
旅慣れない若者は言葉丁寧に言った。
「はい、ではお休み」
と、そう言って頭を下げたのを見れば、見事なまでの大坊主である。
で、行燈に伸び掛かるようにぬっくりと起って、障子を閉めれば……後は物音一つ聞こえず、寂寞とした。
胸に金色の日が輝くほどの思いを抱いて、これから都を指して旅をするのであるが、こんな山中に泊まる旅は初めてで、澤は旅籠屋へ現れる按摩のことは、古い物語で読んだことがあるけれど、こうして独り侘しく室に居ると、つくづくものの哀れを感じるのであった。
*1 十能……炭や灰を運ぶための小型のスコップまたは、柄杓のような形をした道具。
二
澤は薄汚れた、ただ一つきりの荷物である小さな提革鞄を熟と見ながら、悄然として、さし俯向いていた。
その時、さっという音がして、さっと鳴るものがあった。それはまた、さらさらと響いて、たとえば、冷たい着物の裾がすらすらと木の葉に触れて、小窓の外の中空から、高嶺へと駈け上り、星の空へと軽く飛ぶような音であった。
吹きしきった秋の風は、夜には姿を現して、人に言葉をかけるらしい。
宵にはその声さえ、寂しい中にも可懐しいものがあった。
そして、今聞いているのも同じ声のはずではある。
けれども、もっと夜更けてから聞く秋の声は、夜中にひそひそと怪しく門を往来する足音によく似ている。宵であるなら、人通りは、内に居る者にとっては、それが誰か分からなくても親しみを感じるが、夜更けての足音は、それが敵かと思うほどの違いがある。まして、恋もしていない澤には、待ち望む人などもない一人旅である。山奥の家の中、枕に音ずれる風は自分を襲おうとする殺気を含むようにも思われた。
ところで……
澤が今ここで寝ている座敷は――もちろんその家も――宵に訪れた旅籠屋ではない。
あの小女が来て、それから按摩が現れたのは、蔵屋というのであるが……今、泊まっているこちらの方は、鍵屋と言って、この峠に向かい合った二軒の旅籠のうち、峰を背後にして、崖の樹立の蔭に埋まった寂しい家である。前者の蔵屋の方は裏手がずっと展けて、向こうの谷で区切られるが、その間には僅かではあるけれど畠があった。
峠にはこの二軒の他に、別の納戸も厩もない。これは昔からそうだという。
「峠でお泊まりでございましょうな」
麓から十四、五町隔たった、崖の上にある、古い薄暗い茶店で休息を取った時、裏に鬱金木綿をつけた縞の胴服を肩衣のように着た白髪の爺で、貧弱な耳に輪数珠を掛けたのが、店前に畏まっていて、そう訊いたのである。そこには目の所を二つ抉り取ったままの熊の皮が敷物として拡げられ、木の根をくり抜いた大火鉢が置いてあった。
その店の裏は、早くも山の洞窟から雲が吐き出されたかのような山霧に充ちていて、幹の半ばをその霧で蔽われた、三抱え、四抱えもある栃の樹が、すくすくと並んでいた。
これがかの有名な栃木峠なのだ! 麓から一日がかりで上るのだが、上るに従って、はじめは谷に栃の木の梢が見える程度だったが、やがては崖に枝が組み違えるようになり、次第に峠に近づくほど、枝は左右から大きく空を包んで、一時などは、路は真っ暗な夜となった。……梢の風は、雨のように木の下の暗がりへ吹き落ちて、下草を靡かせ、その草の小径を清水が音を立てながら蜘蛛手のようにあちこちに走っている。
前途遥かに、ちらちらと燃え行く炎が見える。煙ではなく白い飛沫を飛ばしたのは……清水を蹴散らしながら走る、駕籠屋の打ち振る昼中の松明であった。
やっと茶店に辿り着くと、その駕籠は軒下に置かれていたが、澤が腰を下ろした時、白い毛布に包まれた病人らしい男を乗せると、ゆらりと上がって、すたすたと行ってしまった……。
峠越えのこの山路は以前から古道になっていて、あまり人通りもなかったが、そこに汽車が通じてからは、ますます人が通らなくなって、猪も狼もまた戻ったと言われる。だが、その年、激しい暴風雨があって、鉄道が不通となり、新道も切り刻まれて崩れてしまったため、旅客は皆、またこの山路を辿ったのであるが、それも当時だけで、再び人も通らなくなり、今ではもう、群れに後れた雁が雲を越す思いで急ぐだけの通り路になってしまった。
漸く峠を上って来たばかりの客に、迎え出る爺様の顔とその風采は、とても休憩所とは思えず、墓所にある茶店の趣があった。
「旅籠はの、大昔から、蔵屋と鍵屋の二軒だけでござっての」
「どちらに泊まればいいのかな」
澤がこう尋ねると、
「やぁ……」と、皺々の手を膝で組んで、俯向いて口をむぐむぐさせ、
「鍵屋へは一人も泊まる者がござらっしゃらぬ。何や知らんが、怪しいことがある言うての」
三
澤は蔵屋に泊まった。
が、焼麩と小菜の汁物で食事が済むと、小女が早速、行燈を片寄せて、堅く冷たい寝床を敷いてしまったので、これからの長い夜を思いやり、侘しさが募ってしょうがなかった。
あちこちの座敷からは人の声がして、台所には賑やかなものの音、また、爐辺には時折、忍ぶような笑いも聞こえる。
寂しい一室に、独り、革鞄と睨めっこをしていた澤は、頻りに聞こえる、颯……颯という秋風が何となく可懐しく思えて、窓を開けた。と、冷ややかな峰が額を圧するように目の前に現れた。見ると、向こう側のその深い樹立の中に、小さく、穴の蓋を外したように、明々と灯影が映すものがある。聞き及んだ鍵屋であろう。二軒の旅籠屋の他は何も無い峠である。
鍵屋の一郭は中が窪んで、石臼を拡げた形に見える。……右左は一面の霧であるが、それでも真向かいの、戸の開いた前あたりは、どことなく霧の色は薄くなっている。
で、衝と小窓を開くと、その袖に触れた秋風は、ふと向こうへ遁げて、鍵屋の屋根をさらさらと渡って、颯、颯と音を立てる。しかし、白い霧はそよとも動かず、墨色をした峰だけが揺さぶられた。
夜の樹立は森々としていて、山颪で葉をすべて散り落とされた柳の枝が、撓うようにして、鍵屋の軒を吹いている。
目を凝らして見ると……、鍵屋のその寂しい軒下に、赤いものが並んで見えた。見ている内に霧が薄らいで来て、その霧が雫になるのか、赤いものは艶を帯びて、美味そうな濡色となったが、それら紅玉のような柿の実は売りものにしていると聞いた。
「一つ食べてみたい」
とても寝られない。……ついでに宿の前だけでも歩行いてみよう。――
「遠くへ行かっしゃるな、天狗様が居ますぜえ」
その辺にあった草履を適当に穿いて出ようとした時、亭主が声を掛けて笑った。その爐の周りには先刻の按摩の大入道が、大きな頭を自在鉤の中途あたりまで伸ばして、神妙そうに座っている。……胡座を掻いた駕籠舁も二人居た。
澤はこちら側を伝って、鍵屋の店を、不思議な物でも見る心地で差し覗きながら、一度素通りして、霧の中を、翌日行く方へと歩行いてみた。
少し行くと橋があった。
驚いたのは、その土橋が危なっかしいほど、あちらこちら壊れていたことではない。
渡り掛けた橋の下は、深さ千仞もの渓河で、そこには幾重にも畳まって、犇々と蔽い累なった濃い霧が立ち籠めているのだが、その霧を峰裏の樹立を射る月の光が深く貫いて、真っ青な一条が霧に映り、銀鱗の龍が底から一畝り畝って閃き上るように見えたその凄さであった。
流れの音は、ごう、という。
澤は目の当たりにした底知れぬ深山の秘密を感じて、そこから後へ引き返した。
帰りは、幹を並べて夜空の星へと聳え立つ、大いなる円柱に似た栃の木を廻り廻って、山際に添いながら、先程とは反対の側から鍵屋の前に戻ったのである。
「この柿を一つ……」
「まあ、お掛けなさいましな」
上がり框を納涼台のようにして、その端近くに、小柄な二十二、三の女が腰を下ろし、しっとりと夜露に重そうな縞縮緬の褄を投げながら、軒下を這う霧を軽く踏んで、すらりと『く』の字に腰を掛け、戸外を眺めていた。
澤は一目見て慄然とした。ほんのりと明るい月を思わせる美人であった。
櫛巻の髪に柔らかな艶を見せ、背中にはやはりごつごつした鬱金の裏のついた古い胴服を着て、身に染みる夜寒を凌いでいるのだが、その美人が身に着けていると、いかにも宝蔵千年の鎧を取って纏ったという風情がある。
澤は声も乱れて、
「お、お代は?」と言えば、
「私は家のものではないの。でも、可いわ。召しあがれ」
と、あくまでも爽やかな、清しい物言いである。
四
澤は、病人らしいのが駕籠に乗って蔵屋に泊まっていることといい、鍵屋のこの思いがけない艶麗な女を見て、つい知らずにいたけれど、この山には温泉などがあって、それで逗留をしているのだろうと、先ず思った。
ところが、聞いてみるとそうではない。ただ、ここが浮世離れしていて、寂しいのが気に入ったので、何処にも行かないでいるのだという。
寂しいと言うが、そもそもこの家には旅人が来ても泊まる者は一人もない、と茶店で聞いた。泊まりがないばかりか、見廻してみても、がらんとした古家の中には、その女だけである。鼠一疋騒がず、家族らしい者の姿もない。
男達ははやくから人里へ出稼ぎに下りて、少時帰らない。内には女房と小娘が残っているが、二人とも向こうの賑やかな蔵屋の方へ手伝いに行く。……商売敵も何もない。ただ人懐かしさに、進んで、喜んで朝から出掛ける。……一頃皆無だった旅客が急に立て込んだ時分はもちろん、今夜など、木の葉が落ち溜まったように方々から吹き寄せる客が十人以上もある場合などはそうである。……それだと蔵屋の人数だけでは手が廻りかねるので、時によっては、膳、家具、蒲団などまでこっちから持ち運ぶこともある、というのが、しばらくして、この美人の話で分かった。
「家もこっちが立派ですね」
「ええ、暴風雨の時に、蔵屋は散々に壊れたんですって……こちらは裏に峰があったお蔭で、もとのままだって言いますから……」
「それなのに、なぜ客が来ないんでしょう」
「あなた、何もお聞きになっていませんか」
「はあ……」
澤は実はその辺のことついて、聞き及んでいたので、口籠もったのである。
「お化けが出ますとさ」
痩せぎすな顔に、清い目を睜って、澤を見て微笑んで言った。
「嘘でしょう」
「まあ、泊まってご覧なさいませんか」
はじめは冗談ぽく言っていたが、次第に本気になって誘って来た。
「是非、そうなさいまし。お化けが出るといって……そして女が一人で居るのを見て、お泊まりなさらないのは卑怯だわ。人身御供になった女に出会せば、きっと男が助けるものと極まったものでしょうに……また、女は助けられることになっているんですもの。ね、そうなさい」
で、澤は退っ引きならなくなった。
「蔵屋の方は構いません。ちょっと、私が行って断って来てあげます」
と、躊躇いもなく、すっと立ち上がって出て行ってしまった。留南奇(*1)の薫りが颯と散った。霧に月の光が射し、着物の裾から覗いたのは、絵で見るような友染である。
澤は笊に並んだ柿を丸呑みしたように、頭が一瞬ポーッとした。――というのも、実は……宿屋から、暴風雨で変わり果てたこの前の山路を、朝早くから旅をするのは、不慣れな者には危険であるから、一同がするように路案内を雇え、と注意を受けていたのだった。……確かに、これから行こうとしている途中には、先刻、橋にかかった霧の中に見た深い穴もあり、自信をなくしていた。……寝るまでに必ず雇おう、と思っていたのに、そのことを言い出す暇もなかったのである。
「お荷物はこれだけですってね、そう?……」
と、革鞄を袖に抱いて帰って来た美女が、軽く首を傾げて優しく訊く。
「恐縮です。恐縮です」
澤は恐れ入らずにはいられなかった。鳶の羽になら抱えさせても十分だが、この人の両袖に、こんな風に嫋やかに、抱き取られるような革鞄ではなかったからである。
「宿で、路案内のことを心配していましたよ。けど、それは可いの、あなた、頼まないでお置きなさいまし。途中の危ない所は僅かの間だけですから、私が代わりにお教えしますわ。逗留してよく知っていますもの」
そう言いながら、待っていた澤を中に入れ、入れ替わって軒に立ち、中にいる澤にそう言いながら、その心配そうな顔を見て莞爾した。
「大丈夫よ。何が出たって、こうして私が無事でいるんですもの。さあ、ずっとお入んなさいな。ああ、寒いわね」
と、肩を細りさせて……廂の端から空を仰ぎ、山の端に現れた月へ顔を差し向けた。
「もう霜が下りるのよ。爐の所で焚火をしましょうね」
*1 留南奇……着物に移し留められた香木の香り
五
美女は爐を囲んで、少なく語って多くを聞いた。そして、澤がその故郷の話をするのを、物珍しそうに喜んだのである。
澤は隠すことなく身の上さえも話したが、しかし、十数年崇拝する都の文学者の某君の許へ、念願の入門が叶って、そのために急いで上京する経緯については、なぜか大事な秘密を打ち明けてしまうように思われ、また、この女にはあまりにも関係のないことで、そんなことを話しても分かるまいと思って、言わなかった。
蔵屋の門の戸が閉まり、山が月明かりだけに浮かんで、真っ青になった頃、この鍵屋の母娘が帰ってきた。蔵屋に居た例の小女はその娘であった。
二人が帰ってから、寝床は母親が二階の十畳の広間へ設えてくれ、澤はそこへ寝た。――ちょうど真夜中過ぎのことである。……
枕を削る山颪は、板戸を押しつぶすかと思われるほど激しく、こんな夜には、藍色の顔をした何者かが髪を振り乱して、斧を手に、襲いかかってくるのではないかという、恐怖にも襲われる……そんな恐ろしさを感じてか、鼠さえも鳴かない。
そこへ、茶を焙じる、夜が明けたような薫りがして、澤は蘇生った気がしたのである。
けれども、寝られない苦しさは、そんな雰囲気の可恐しさにも増して堪えられなかった。澤はあまりの人恋しさに身を起こし、身繕いをすると、行燈を提げて、心もとないほどだだっ広い廊下を伝った。
持って下りた行燈は階段の下に置いた。階下の縁のずっと奥の一室から、仄かに灯の光が射していたのである。
邪な気持ちがあって、躊躇った訳ではないが、忍び足で近づいていった。一足毎に、嵐が吹き添う音と共に、縁はみしみし、ぎちぎちと響く。……音を立てないように、密と抜き足で渡ったのは、こういった山奥の家では、自分自身が化け物となって、歯を剥き、人を威かしてしまうように思われたからである。
傍へ寄るまでもなく、大きなその障子の破目から、立ちながら室の中の光景が覗え、衣桁に掛けた羽衣が手に取るくらいによく見える。
ト、荒れ果ててはいるが、書院造りの床の傍に、まだはっきりと彩色の残っている絵が描かれている袋戸の入った棚の上に、ああ! 壁を突き通して紺青の浪に月が輝いているような、表紙の揃った、背皮に黄金の文字を刷した洋綴の書籍がぎっしりと並んで、燦々と蒼い光を放っているではないか。
美人はその横に机を控えて、行燈を傍らに、背を細く、着物をすらりと着流し、なよやかに薄い絹の掻い巻きを肩から羽織っている。そして、その両袖を下に垂れさせたまま、友染に包まれた両手を、清らかな頸にあてがい、頬杖支いて、繰り広げたページを凝と読み入っている。その態度からは経文を唱えているとは思えないが、どこか神々しく、媚めかしく、しかも息を呑むほどに美しく見えたのであった。
「お客様ですか?」
澤が声を掛けようとして、思わず躊躇った時、向こうから先に振り向かれた。
「私です」
「お入りになって。待っていたのよ。きっと寝られないでいらっしゃるだろうと思って」
障子の破れから、顔も艶麗に、口が綻びるのを見た時は、さすがにドキリとした。が、寂しかったので、とか、夜半なのに、などと、もう何も言い訳などする必要はないと思った。
「お勉強でございますか」
我ながら、場にそぐわないことを言って、火桶の手前に座った時、違い棚にある背皮の文字が、稲妻のように澤の瞳を射貫いた。他に何もない机の上にある本もその中の一冊である。
澤は思わず、跪いて両手を支いた。それは、これから門生になろうとする師と仰ぐ人の著述を刊行し続けている、名作集なのであった。
その時の澤に目を向けた美女の風采には、少々俗っぽいものも感じたが、また逆に、それと同じくらいの気高さも感じた。
「どうなさったの?」
澤は仔細を語った。……
それを聞きながら、美女は本当に嬉しそうな様子で、
「立派な心がけねぇ、あなたは。……ええ、知っていますとも。久しくご一緒させていただいたんですもの」
「えっ! では、あの……奥様?」
と、片手を支きながら、夢を見るような顔になって言えば、
「まあ、嬉しい!」
と、派手な声を出したが、その後は黙ってしまい、じりじりと身を堅くした。……と思うと、また、ほろりとして、
「奥様と言って下さったお礼に、いいものをご馳走しましょう……召しあがれ」
と言う。美女はすっかり晴れやかな顔になって、盆を差し寄せたが、上に敷かれた白い紙に乗っていたのは、たとえるなら親指の尖ほどの、名も知らない鳥の卵かと思われるものであった。……
「栃の実の餅よ」
同じものを、来る途中、爺が茶店で売っていた。が、その形とはまるで違う。
「あなた、気味が悪いんでしょう……」
と、顔を見て、また微笑みながら、
「本当のことを言いましょうか。……私は人間ではないの」
「ええっ!?」
「鸚鵡なの」
「…………」
「真っ白な鸚鵡の鳥なの。このご本の先生を、もうそれは……大層贔屓にしている夫人がいて、その方が私を飼って、口移しに餌を与えていたんです。私は接吻をする鳥ですからね。そしてね、先生の許へ贈り物になって、私は行ったんです。
でも、先生は私に口移しをしないの。……口移しをすると、その夫人を恋するようになってしまうからって。
私は中に立って、その夫人と先生とに接吻をさせるために生まれました。そして、遥々東印度から渡って来たのに……口惜しいわね。
それでいて、傍に置いていては、つい口をつけないではいられないような気がするからって、私を放したんです。
雀や燕じゃないんですもの。鸚鵡が町家の屋根にでも居てご覧なさい。それこそ世間騒がせだから、ここへ来て、引き籠もって、先生の小説ばかり読んでいるの。
あなた、嘘だと思うんなら、その証拠を見せましょう」
と、不思議な美しいその餅を、軽く開いた自らの唇に受けたと思うと、澤はすっと手を取られたのである。
で、ぐいと引き寄せられた。
「こうやって、さ」
と、その水々しい櫛巻をがっくりと、額が見えないほどにまで仰いで、黒目勝ちな涼しい瞳で澤を凝と見詰めた。白い頬が滑るようにして近寄った時、嘴が触れたのだろう。……澤は美女が鼻の辺りから、見る見る鸚鵡の嘴――それは女の乳房を開く秘密の鍵とも思えた――に変わって行くその顔を見ながら、得も言われぬ甘さのその餅を含んだ。……意識が遠退くみたいに、心がふうわりとした。と、灯が山颪にふっと消えた……。
女の全身が廂から漏れる月の光に、たらたらと溶け出し、人の姿だったものが輝く雪のような翼になるのを見ながら、澤も自分の胸の血潮が、同じその月の光に、真紅に透き通るのを覚えたのである。
「それでは……よく先生にお習いなさいよ」
翌日、早朝の冷気も爽やかな中、澤を送って来て、別れる時、美女は衝と通しるべの松明を高く挙げて、前途を示して言った。その火は朝露に晃々として、霧を払い、山全体の木の葉に映った。松明というのは秋を彩る龍田姫にとって、このように山を錦に染め上げるための、燃えるような絵の具なのだろう。
……あの白い鸚鵡を、澤は今も信じている。
(了)
この現代語(勝手)訳をする時、一番悩んだのが、「美女」のルビをどうするかということでした。
原文には「たおやめ」と振り仮名が振られています。
「たおやめ」という言葉は、知ってはいましたが、それが現代の言葉としてはどうなのかという悩ましさがありました。
では、他にどんな言い換えができるのか。
「びじょ」はそのままで、面白くも何ともない。というか、原文の含みを持たせることができない。
「うつくしいひと」はそれなりだが、ちょっと違う気もする。もう少し、婀娜っぽさがあってもいい。
「美女」には「麗人」、「佳人」、「美姫」あるいは「名花」、「妖花」などの言葉もあるけれど、どこか皆違う。
考えた末、候補として考えたのが「マドンナ」という振り仮名でした。
しかし、実際「美女」とルビを振ってみると、これも全体として見た時、やはりどうもしっくり来ません。
「たおやめ」は「手弱女」という漢字が当てられています。元々は「撓む」、すなわち「曲がる」とか「しなる」という意味で、「やさしい、しとやかな」女性を意味しているとか。
ただ、この言葉には、もう一つ「浮かれ女」とか「遊び女」という意味もあるとのこと。
確かに、この小説の「美女」はそういう部分も持ち合わせているようです。
初めて会った澤を誘惑して、一夜を共にするのですから。
題名である「貴婦人」と「遊び女」の両面を持つ「美女」。
こう考えると、鏡花が「美女」に「たおやめ」とルビを振った意味も分かる気がします。
と言う訳で、「美女」に原文のまま「たおやめ」のルビを振った次第です。
もちろん、今でも、もっといい振り仮名はないものかと自問してはいますが。
最後の一行、原文は
「……白い鸚鵡を、今も信ずる」です。
澤にしてみれば、
「あれは人間ではなかったのだ。鸚鵡だったのだ。白い鸚鵡。だから、自分は良心の呵責を覚えることはないのだ」
……みたいな言い訳とも取れる発言になっている、という風に考えるのはうがち過ぎというものでしょうね。