八、助け舟
文成達は言葉を失っていた。文成達はだけではなく、固唾を飲んで見守っていたほとんどの人間が唖然としている。
その中心にいるのは、顔を真っ赤にした柄の悪そうな男三人と素面で水でも煽るかのように器を空にしていく浮世離れした美しい女。
「・・・嘘だろ」
正しく嘘のような光景に頬をつねってみるが、普通に痛い。これは夢ではなく現なのだと思い知らされてもなお夢のようにしか思えない。
こくりと細い喉を鳴らし、空にした器を置いた明藍が口許を緩める。
「まだ降参されませんか?」
ほぅと外野からため息が漏れる。
「ま・・・まだだっ!もっと持ってこい!」
片目の男は店員が持ってきた酒瓶を奪い取るように受け取ると器に荒々しく注いで、流し込む。持つ手が震えているが、どうやらまだ粘るようだ。
対して明藍といえば、また食後の茶でも楽しむかのように優雅に酒を流し込んでいく。
この時点で誰がどう見ても勝敗はあきらかだった。先程まで全力で明藍を応援していた人々も、今では男たちに哀れみの目を向けている。
それが男たちの自尊心を傷つけた。
ゆらりと細目の男が立ち上がり、大きく振りかぶったかと思うと明藍のすぐ横を酒瓶が通り過ぎた。陶器が割れた音とすぐに頬に小さな痛みが走る。
「藍藍ちゃん!!」
「お前何やってんだよ!」
「お嬢ちゃん!頬から血が出てるよ!」
外野が一層騒がしくなる。
武官六人衆に至っては、鼻息を荒くして今にも殴りかかりそうな勢いだ。
「ほら、これでお拭きなさい」
小綺麗な小母さんが手巾を手渡してきた。
これくらいの傷一瞬で治せるのだが、ここで魔術を使うわけにもいかずありがたく受け取っておく。
「っお前、いかさましていんだろ!?」
「どのようないかさまでしょうか?こんなに沢山の目がある中で、水を入れて薄めているとでも言うのですか?」
挑発するように鼻で笑うと、男の顔が見る見る赤くなる。
「調子に乗るのもいい加減にしろっ!」
明藍の態度は見事に火に油を注いだらしく、男が振りかぶってくる。
これでやっと終わる。
そろそろ同じ酒を飲み続けるのに飽き飽きしていた。ここで大人しく一発殴られておけば、勝敗にかかわらず事態は収束するだろう。目の端に慌てた様子の文成達を捕らえたが、もう間に合う間合いではない。
しかし、待てども待てども想定していた衝撃はこない。
目をゆっくり開けると、先程までいた男たちの顔は見えず、変わりに視界に広がるのは最近よく目にする服装。
「・・・武官服?」
「全く、お前は何をやっている」
呆れた声音に、明藍は聞き覚えがあった。
「高明さま」
名前を呼べば、男が振り返る。
切れ長の瞳にはやはり呆れと少しの怒気が入り混じっていた。高明の迫力と武官の到来に周りの人々が蜘蛛の子を散らしたように去っていく。
殴りかかってきた男はいつの間に縄で締められ、連れの二人も他の武官に取り押さえられていた。
「こいつらを連れて行け」
武官たちが三人組を連行し、周りに残ったのは明藍と甘味屋の小父さんたちと文成ら六人武官衆のみ。
「・・・陳文成、葛若拙」
「はい!」
地を這うような声に名前を呼ばれた二人がその場で敬礼し、直立不動になる。
「お前たちは明日執務室に来い」
「はい!」
さすが軍隊仕込みというだけあって返事はいいが、顔色は非常に悪い。これはきっとお叱りが待っているのだろう。なんとか助けてあげたいが、こればかりは明藍の力が及ばない範囲だ。ひっそりと心の中で手を合わせておく。
「・・・藍藍」
「はい、いかがなさいましたか?」
こっそりとこの場を抜け出そうとしたが、どうやら勘付かれてしまった。
騒ぎを起こしてしまった一因として連行される可能性は高い。下手すれば取り調べで身元調査も入ってくるかもしれない。そんなことになれば、藍藍という人物が存在しないとばれてしまう。
こんなことになるなら甘味屋の小父さんを見捨てればよかった。いや、やはりそれはお八つ事情に大きく影響してくるのでできない。そうだ、もっと高速で相手方を潰してしてしまえばよかったのだ─などと後悔しても覆水盆に返らず。
にっこりと笑みを浮かべてみるが、高明は特に表情をかえることなく、むしろ眉を寄せる。
高明はいつもそうだった。
明藍が笑みを張り付ければ、無表情を貫くか、やや不機嫌そうな顔をする。もはやどんな顔をするのが正解なのかわからない。
「少し付き合ってほしい」
これは取り調べだな。
明藍は確信し、自分の運命を呪った。お世話になった円樹や玉麗に挨拶すらできずに一生幽閉されるか、首と胴体がおさらばするのだ。
「悪いようにはしない」
それはいきなり煮たり焼いたりはしないというだけで、今後もという都合の良い話ではないのだろう。だが─。
「・・・承知いたしました」
今後の運命が分かっていても、この場でできることなど何もなかった。
先ほど腹に収めたばかりの豚も捌かれる前はこんな気持ちなのだろうか。
膨らんだ腹をさすってみるが、勿論返事はなかった。
冷たい石畳に鉄格子、光が差すことはなくじめじめとした空気は気持ちまで沈むようだ─というものを思い描いていたのだが。
なんでここに。
明藍が連れてこられたのは、お登りさんでなければ誰しも一度は耳にしたことがある花神楼。夕餉を楽しんだ店とは比べ物にならないほど広く、都一と言っても過言ではない。
部屋へと続く回廊には季節外れの牡丹花が飾られている。牡丹花といえばとにかく生育が難しく、金がかかる。噂によれば一本で平民が二、三年は遊んで暮らせるとか。
そんな牡丹花が少なくとも十本はあった。
一体何をすればそんなに儲かるのだろうと考えていると、何かにぶつかった。
「っ・・・申し訳ありません」
鼻を押えながら謝罪する。
完全に前を見ていなかった明藍の失態だが、一瞬壁にでもぶつかったかと思うほど硬い背だ。どんな訓練をすれば、壁になれるのだろうか。
肩越しに合った瞳が細められる。
「お前はもっと自分の顔を大事にしろ」
「・・・はあ」
高明の意図するところがよくわからずに曖昧に返事をし、部屋に入る背中を追う。
特段大事にはしてこなかったものの、無碍にしたつもりはないがと思い頬を撫でると小さく痛みが走った。
ああ、そうだった。ほんの四半刻前に傷をつけたばかりだったと自分の顔への関心の無さに思わず笑ってしまう。
「どうした」
卓を挟んで向かい合わせに座った高明が眉を寄せた。ここに来る間の馬車で着替えたのか、今は武官服ではなく仕立ての良い藍色の服に身を包んでいる。その姿は武官ではなく、良いところの跡取り息子といった雰囲気だ。
「いえ、高明さまはお優しい方だと思いまして。こんな顔でも心配下さるのですから」
高明が面食らった顔になる。
「・・・お前は、それをどういう意味で言ってるのか俺にはわからない」
「そのままの意味です。わたしの容姿は薄気味悪いですから」
明藍は昔から医学書を読んでいたせいか、人間など一枚皮を剥げば皆同じだと思っていた。だから自分の容姿など昔から気にもかけなかったのだが─。
いつからか明藍が笑えば周りが凍りつき、無表情でいれば生き血の通わぬ人形のようだと言われるようになった。挙げ句の果てには薄気味悪いと罵られる羽目に。
父は母に似て美しいと褒めてくれたが、あれは身内の贔屓目だと思っている。現に、薄気味悪いと明藍を罵るのは継母なのだから。
ふと頬に手を添えられ、視線を上に向ける。そこで初めて自分が目を伏せていたことに気付いた。
「何があったかは知らないが、自分を卑下するものではない。お前が薄気味悪かったら、都の大半は妖怪か何かだ」
「・・・そんなこと言ったら妖怪が怒りますよ」
ふふっと自然と笑みが溢れる。釣られて高明も目を細めた。
他人にこんな暖かさを感じたのは一体いつ以来だろう。
日はとうの昔に落ちたというのに、熱はまだ冷めてはいない。そのせいか身体を撫でる生暖かい風と頬を撫でる温度に頭がくらくらしそうだった。