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四、翡翠

 これ、どうしようかな。

 屋敷を後にした明藍は馬車での送迎を断って、一人街をぶらついていた。本当は可可カカオなんて高級品を持っているのだから送ってもらった方が安全なのだが、ここで落としてしまったとしても街行くほとんどの者がなんだと首を傾げるにとどまるだろう。誰もこのずんぐりむっくりの実がしばらく遊んで暮らせる大金に化けるとは思うまい。

 為政者たちが大枚をはたいてでも手にするというが、良薬は口に苦しと同じで美味しくないと相場が決まっている。でも、どうせ食べるならば少しでも美味しくいただきたい。

 そのために知恵を借りたいのだが、永章エイショウの屋敷にはなるべく足を踏み入れたくなかった。トウ家の屋敷には永章よりももっと厄介な奥様ラスボスがいるのだ。見つかってしまえば最後、今回の婚約破棄の件について永遠と、それこそ本当に時の流れがおかしくなったのではないかと疑ってしまうほどに話を聞かされるのだろう。その仕打ちを受けるくらいならば、苦くてもそのまま食べる方を選択する。

 そうなると一番無難なのは料理人か薬草などを扱っている卸問屋か薬屋だ。そしてそのうちのどれかと聞かれれば、薬屋だと明藍は即答する。それほどまでに懇意にしている薬屋は知識が深い。薬屋自体が診療所のすぐそばにあるので、そのまま診療所にも行けて無駄がない。いや、普段から運動不足気味なので本当はもっと体を動かして鍛えなければならないのだが─うん、明日から本気を出そう。

 きっと明日になっても明藍は本気を出すことはない。寧ろ休み明けは業務がたまっているのでいつも以上に椅子に張り付いておかなければならないはずだ。それでも、今から頑張る元気はなかった。いいや、むしろ内壁付近から診療所まで歩くだけでもたいしたものだと思って欲しい。誰にという疑問はさておき、行き先が決まった明藍は目的地へと足を進めた。

 

 「っ!」


 薬屋まであと路地二本というところで、裏路地から飛び出してきた何者かにぶつかりその場で倒れる・・・が、相手は気にも留めずに走り去って行った。

 なんなんだ一体。

 立ち上がり土を払う。そんなに派手な衣装ではないが、これでも一応一張羅だ。普段着とは違い、汚されれば嫌な気持ちになる。顔を顰めつつまた歩き出そうとするが、ぬっと路地から伸びてきた手に腕を掴まれた。その出立に明藍は悲鳴をあげる一歩手前でなんとか声を押し殺す。

 この国ではあまり見かけない顔立ちの男の下には血の海ができていた。大丈夫ですか、なんて無粋な質問はせずとも大丈夫出ないことは明らかだった。


 「・・・すまない、そこの女。誰か人を」

 

 男の声に覇気はない。

 出血量から見てすぐに危険な状態とまでは言い難いが、このまま出血が続けば一気に危うくなる。


 「ちょっと待ってください」


 明藍は近くにあった空樽を転がして立てるとその上に男を座らせる。やや抵抗を見せたが、肩を強く押すとそのまま半ば倒れるようにして座った。体格から見れば明らかに不利だが、もはやそんな力も残っていないのだろう。

 血が滲んでいるのは右下腹部あたりだった。かなり際どい場所ではあるが、この場合致し方ない。

 

 「申し訳ありません、失礼しますね」


 明藍は断りを入れると、男の襟を大きく引っ張った。開けた襟から均等の取れた胸板が現れる。そのまま腕を抜いて更に皮膚を露出させる。

 予想通り脇腹にざっくりと斬られていた。幸い内臓までは到達していないようだが、流れ出る血が春の若芽を思わせる浅緑の服を黒く染めていく。

 治癒術を使うのが確実だが、治癒術は傷は治しても流れ出た血を戻すわけではない。先にやるべきは止血だ。

 明藍は自身の(スカート)に手をかけると、縦に思いっきり裂いた。

 男が一瞬目を見張った気がするが、今はこうするより他方法がない。見苦しいと思うが、おれ命には変えられないので我慢して欲しい。

 

 「少し痛いですよ」


 ぎゅっと布を強く締め付ける。


 「うっ・・・あっ!」


 男の口から声が漏れるが、明藍は無視して更に強く締め付ける。そしてそのまま短く詠唱する。

 激しく打っていた脈が一気に落ち着く。ゆっくり手を離すが新たに血は流れ出てこない。血塗れになっていてわかりにくいが、傷は完全に塞がっていた。

 ふう、と小さくため息をつく。最悪の事態は免れたらしい。ただ、明藍の一張羅はもう使い物にならない。裙は破れているし、なにより全身血に塗れている。

 このまま診療所に行けば何事かと驚かせてしまうため、一旦自宅に戻って着替えてから行く算段を考えていると、いきなり男が両肩に掴みかかってきた。

 目の前に急に現れた翡翠の瞳の息を呑む。こんなに美しい色は見たことがなかった。


 「・・・・何が、起こったんだ」


 男の声は震えていた。しかし、そこに恐怖の色は見えない。

 

 「出血が酷かったので治癒術を使いました。ただ、流れ出た血が戻ったわけではありませんので、無理はなさらずにしばらくは休息をとられてください」


 もっと意識が朦朧としていてくれれば「夢でした」で済まされるかもしれないが、ここまで意識がはっきりしていては少しばかり無理がある。それにしてもあれだけの出血量でここまでしっかりしているのも大したものだ。上背があるため、血の量も多いのかもしれない。


 「・・・そうか、それは助かった。礼を言う」

 

 男はまだ腑に落ちない様子だが、胸の前で手を合わせる。その仕草はこの国の作法とは少し異なっていた。


 「いいえ、当然のことをしたまでです。それよりお連れ様はいらっしゃらないのですか?」

 「俺のことを知っているのか?」


 男がその大きな目をさらに大きくする。その様子に苦笑しつつ、明藍は首を左右に振る。

 男の身なりや言動から考えるに、身分が高い人間─貴族くらいだと推測できる。またその顔立ちとやや癖のある言葉遣いからこの国の者ではないことは安易に想像できた。他国の貴族がこんな市井を一人で散歩しているわけがない。従者たちとはぐれたか、それとも抜け出してきたかのどちらかだろう。


 「申し訳ありませんが、存じ上げておりません。ただ、そのお召し物からご身分の高い方だと推測したまでです」

 

 上質の絹を使った上衣は庶民には到底手の出ない代物だ。残念なことに腹あたりがざっくりと切られてしまっているが、それでも古着屋にもっていけば相当な値で買い取ってくれるだろう。ちなみに明藍が身に着けている服はそれよりは遥かに安価なものである。一張羅といえども、服に金を使うのは気が引けてしまう。


 「なるほど。それにしても先ほどの処置の手際の良さといい、魔術といい、この国の女は博識なのだな!」


 一見嫌味のようにも取れる言葉だが、にかりと白い歯をのぞかせる男に他意はないのは明白だった。それに無知と言われるよりも博識と言われた方がいいに決まっている。

 ちなみに魔術を正式に使える女は今のところ明藍一人なのだが・・・まあ、わざわざ訂正するのが面倒なのでいいだろう。

 

 「ところで、ここはどこだ?」

 

 男はきょろきょろと物珍しげに辺りを見渡す。

 どうやら抜け出してきたわけではなかったようだ。もし国外の要人が抜け出してきたとなれば大問題なので、そっと胸をなでおろす。


 「ちょうど南大門と内壁の中間地点ですよ。ここから二本東に行けば大通りに出ます」

 「内壁というと・・・あの皇宮を囲んでいた壁か?」

 「いいえ、あれは城壁です。南大門・・・えーと、王都の出入り口はご存知ですか?」


 実はつい先日行われた花祭りの後すぐ東西に二つずつ、南にもあと二つ門が追加でされた。元を辿れば外敵の侵入を防ぐため門は少ない方が良いとされていたが、戦が少ないこのご時世はそんなことよりも利便性を重視しろと身分を問わず苦情が多かったらしい。

 増築はかなり前から行われていて、計画では冬前には完成予定だったのだが─昨年の夏に外壁の結界担当者が突如いなくなるという想定外の事態が起こったため、半年ほど遅れての完成となった。その事実を知った時、明藍は久しぶりに胃が痛んでほんの少しいつもより食べる量が減った。

 しかし、どんなに門が増えようとやはり王都への玄関口は南大門一択である。特に他国からの来訪者は検問が厳しいと聞く。他国からのやってきたであろう男が通ったといえば南大門で間違い無いと思うのだが─。


 「それが馬車の中で寝てしまっていたからわからないんだ」

 「そうですか・・・」


 馬車ではほとんど寝てしまうので気持ちはわからなくもない。いや、むしろよくわかるのだが、できれば起きておいて欲しかった。

 何か手がかりになるものはないか。

 明藍は失礼を承知で男を頭の天辺から爪先まで観察する。日焼けしたような褐色の肌に夜空を切り取ったような艶やかな黒髪、しっかりとした鼻梁はくっきりと影を作るもののくどさは感じない。最上級の翡翠をそのまま嵌め込んだような緑の瞳は長い睫毛に縁取られている。

 普段見慣れているはずの明藍ですら一瞬呆気にとられるほどの美丈夫だ。こんな顔一度見たら早々忘れないだろう。地道ではあるが、辺りに聞き込みを入れた方が手っ取り早い気もする。

 

 「あっ、そうだ。俺、戌の刻(ごごしちじ)までには絶対に戻らなければならないんだ」

 「えっ・・・戻らないとどうなるんですか?」


 明藍の質問に男は顎を抑えつつ、ぐるりと視線を一周させる。


 「うーん・・・最悪、戦になるかもしれない」

 「・・・一刻も早く探しましょう」


 日の傾きから残り時間はあと僅かだとわかる。

 国際問題を引き起こすわけにはいかない。ひとたび戦が始まれば、勝敗に関わらず魔族が増える。魔族が増えれば人が犠牲になる確率は格段にあがり、自ずと術師の仕事は増える。それに─今回はそれだけではない。戦となれば彼もまた現場に行かなければならないだろう。考えただけで胸が張り裂けそうになる。

 そんなことはさせない、絶対にさせてはならない。

 固い決意を胸に、明藍は足早に裏路地を後にした。

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